なぜそんなことをしたのだろうか?
行動経済学がはやりである。本屋へ行くとその種の本がいくつか並べられている。ダン・アリエリー『予想どおりに不合理』(熊谷淳子訳、早川書房2008年)を読んでみた。全体的な感想は置くとして、個人的に身につまされる記述があった。「9章 予測の効果 なぜ心は予測したとおりのものを手にいれるか」で、「知識があとか先かで経験が変わる」ということを示す実験結果(平たく言えば先入験とか偏見の影響)が述べられているが、その中に次のようなのがある。
‥‥ジョン・バー、マーク・チェン、ラーラ・バローズが行った目覚ましい研究では、実験協力者に、単語を並べなおして文を完成させる「乱文構成課題」を課した。一部の実験協力者は、攻撃的、無礼、うっとうしい、でしゃばりなどの単語をもとにした課題をこなし、ほかの人たちは、名誉、思いやりがある、礼儀正しい、よく気がつくなどの単語をもとにした課題をこなした。この二種類の単語リストの目的は、こうした単語から文を構成することで、一方は礼儀正しさ、もう一方は無礼さについて考えるように実験協力者をプライミングすることだ(社会科学ではよく使われる方法で、思いのほか効果がある)。
実験協力者は、乱文構成課題を終えたあと、第二の課題と称される課題をこなすためにべつの実験室に移動する。第二の実験室に行くと、実験者がべつの実験協力者に課題の説明をしているところに出くわす。どうやらその実験協力者はものわかりが悪く、どうしても説明がのみこめないらしい(実験協力者に見えるこの人物は、実は本物ではなく、実験者に雇われた共謀者だ)。ほんとうの実験協力者が会話をさえぎって、次に何をすればいいか尋ねるまでの時間ははたしてどのくらいだったろう。
実験協力者がどのくらい待ったかは、乱文構成課題に含まれていた単語の種類に左右された。礼儀正しい単語に取りくんだ人たちは、会話をさえぎる前に約九・三分のあいだ辛抱強く待った。一方、無礼な単語に取りくんだ人たちは、約五・五分しか待たなかった。
これを読んで思い当たる体験があった。先日、雨飾山に登ったときのことである。この山は手頃に登れるうえに深田久弥の日本百名山に取り上げられていることもあって人気がある。頂上から引き返して下るときのことだった。頂上直下の台地状の笹原を過ぎると、道は荒菅沢まで一気に下っている。岩などの段差のあるやや急な下りだ。降りはじめるとすぐに団体に追いついた。二十人以上いるだろうか。最後尾の女性に聞くと、後ろの六人は別のグループである。私の後ろにも男性が一人ついた。その人が団体の進み方が遅いのに不平を言う。私の前のグループの人も、団体の行動に問題があることを指摘する。自分達の進み方が遅いのは分っているはずだから、適当な場所で道を譲るべきだ。先頭にガイドがいるらしいが、これだけの人数なら普通は後尾にもガイドがいてそういう配慮をしなければならない。そういう会話をしながら、急な箇所で停滞しがちな団体の後ろをついて行った。
最初、私は、ゆっくり下ってもいいと思っていた。頂上を離れたのが十時である。多少時間がかかっても午後はまるまる空くだろう。いつも道を急いでゆっくりと景色を眺める余裕もないことが多いのだから、今日は楽しみながら下りればいい。そういう気持ちでいたのだ。
しかし、後ろの男性のぼやきが続き、今度は道を譲るだろうという前のグループの予想が二、三回外れると、私はイライラしてきた。もともとそういう性格であったには違いないのだが、最初の心構えが維持できなくなってきた。荒菅沢まで降りれば団体は休憩するだろうから、その時に追い越せばいい、荒菅沢はもうすぐだと分っていても、我慢できなくなってきた。
とうとう、少し道が広がっていたところで、無理に団体の横を抜け、前の方では割り込む形で追い越した。そのとき、団体の中の一人の男性が私の行動が性急であると文句を言ったので、私は言い返した。そこでちょっとした口論になり、その勢いで私は先頭にいたガイドにも文句を言った。
後から考えて、私は自分の行動が不思議だった。団体の後ろにいた八人(六人のグループと、私と、私の後ろの男)の中で、待たされることに対して一番穏当な態度だったのは私なのである。それが、一番過激な態度を取ったのは私になってしまった(そのとき無理に追い抜いたのは私だけだった)。自分のイラチな性格は分っているが、このときは急がなくてもいいという気持ちであったのも事実なのだ。
前記の引用文の箇所を読んだとき、私はびっくりした。私の行動がみごとに説明されているのだ。それ以前にも、多数の意見に影響されて自分の目撃したことと違うことに賛同してしまうという実験もあるのは知っていた。そういうこともあるのだろうとは思ったが、孤立しても自分の意見は曲げないという天の邪鬼な性格もあって、自分はそうではないという自信はあった。むしろ、他人とは違ったユニークな意見を持つことを誇る傾向があった。だから、自分の行動が他人の言葉に影響されていたというのは意外だった。
自分で自分をコントロールできていないというのは恐ろしい気がするが、ところでそうなると自分というのは何だろう。意識のことだろうか。では、意識というのは何だろう。意識というのは、いまという短い時間における感覚と、過去の記憶の参照という、二つの情報により行動を引き出す当座の判断である、という考えがあるらしい。その意味では意識は短期記憶である。短期記憶の多くはその名の通りすぐに忘れ去られ、長期記憶になるのは一部だけである。しかも、長期記憶は必ずしも短期記憶を経由しない。意識というのは記憶においてさえ全てを支配しているのではないようだ。
意識を通さない機能はたくさんある。単に生理的な作用だけではなく、私たちの行動の多くも、意識されずに(無意識という表現が適当かどうかは分らないが)なされている。むろん、短期記憶のほとんどが残らないことから、意識していたこと自体の記憶が失われているだけのこともあるに違いない。その場合でも、その時の意識の状態が記憶されていないのであるから、後から考えてなぜそのような行動をしたのかは意識には理解できないだろう。また、意識が判断を下すのではなくて、自己のどこかでなされた判断の結果を意識が認識しているだけなのであれば、意識には判断の経過が把握されてはいないことになる。
いずれにせよ、私たちの行動において意識が関与しているのが一部にすぎないとしたら、意識による自己考察(内省)という意味での心理分析では、人間の行動を理解するのは困難である。実験や実証による客観的な把握が必要なのだ。
意識(あるいは自我と言っていいだろう)は主人ではない。意識がコントロール出来ているのは個体の行動のごく一部である。それゆえ、他人がそれをコントロールする余地が十分にあるということだろう。