アイン・ランド:ケース・スタディ
本にも運・不運がある。『利己主義という気概』(アイン・ランド著、藤森かよこ訳、ビジネス社、2008年)は翻訳のタイミングが悪すぎた。帯には「アメリカ発の金融恐慌でも、資本主義が滅びることはない!」とある。そうとでも書かなければ仕方がなかったのだろうが、勇気づけられるような言葉ではなく、かえって意気阻喪させられてしまう。
同じような不運は『セイヴィング キャピタリズム』(ラグラム・ラジャン、ルイジ・ジンガレス著、堀内昭義、アブレウ聖子、有岡律子、関村正悟訳、慶應義塾大学出版会、2006年)にも降りかかっていた。金融の重要性を訴えるこの本の翻訳出版がちょうどライブドア事件に遭遇してしまったのだ。
だが、たとえそういう不運に遭わなかったとしても、これらの本が日本において広く受け入れられたかは疑わしい。バブル崩壊後の小泉改革とそれがもたらした(と思われている)「実感なき好況」は、アメリカ型のシステムへの信頼を増しはしなかった。グローバリズムについては災難のようにさえ受け取られていた。(おまけに、サブプライム・ローンである!)
私はランドのことをこの本で初めて知ったのだが、そもそも、なぜこのような古い本(原著の出版は1964年)がいま翻訳出版されたのか。訳者解説に見られる思い入れの強さからして、訳者の強い希望があったのだろう。バブルの後遺症に苦しむ日本に対して、アメリカの優位性の根拠を教示したかったのか、マルクス主義やそれに続くポストモダンなどにうつつをぬかし、より実際的な英米思想を軽視してきた思想界への鉄槌のつもりなのか、あるいは、思いやりだの助け合いだのときれいごとばかりを並べてことを済まそうとする日本人へ警鐘を鳴らしたかったのか。そのような意図(壮図?)には賛同するところもあるが、やはりランドの思想は古すぎて、歴史的な意味しか持ち得ないのではないか(日本の読者にはその歴史を学ぶ必要はあるかもしれないが)。
しかし、ランドの考えは今なおインパクトがあるのは確かだ。日本人の多くは激しい反発を感じるだろう。私はノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』(1974年)を読んでいたので免疫があり、比較的平静に読めた。もし、ノージックの本を読んでいなければ、そのときの衝撃を今になってランドから受けたかもしれない。
私はランドに全面的に反対するつもりはない(でないと、このような本に興味を持たないであろう)。ランドの考えのうち妥当であるとして受け入れられる部分については、むしろ積極的に賛同する。たとえば、自己への配慮は当然なことであるので、そのことだけで人は利己主義者とされるべきではない。また、利己的な行動と利他的な行動が必ずしも相反するのではなく、同じ行動が利己的でもあり利他的でもあるということは可能である(具体例としては売買を含めた交換があげられる)。そして、通常の社会行為はこのような両義的なものであり、一方的な援助というのは特殊なケース(緊急事態)に限られる。このような考えはデューイにも見られるので(デューイ&タフツ『倫理学』1908年)、アメリカの知の伝統の一つなのかもしれない(ランドはアメリカ生まれではないが)。
国家のあり方としては、経済制度としての資本主義、政治制度としての民主主義が、他の制度に比してより多くの人をよりよい状態にするという点に関して、ランドに異論はない。しかし、ランドは「商売の原則とは、個人的であれ社会的であれ、私的であれ公的であれ、精神的であれ物質的であれ、あらゆる人間関係の中で唯一合理的で倫理的な原則」(訳書67ページ)であると考えていて、所得再分配はもちろんのこと、社会保障についても、「ある人々の利益が他のある人々の利益や願望のために犠牲にされることになる、ということでしかない」(訳書163-4ページ)として否定する。したがって、政府の役割は暴力による個人に対する不当な攻撃・略奪を防ぐことに、それのみにある、ということになる。
人々がランドの求めるような合理性の水準に達したとしても、レセフェール資本主義と夜警国家だけでいいのかという疑問はある。例えば、公共財の提供とか、外部不経済の内部化とかは、市場で解決しうるのだろうか。ランドが懸念するのは、そういう理由から理念を逸脱してしまえば、能力の低い多数の「物質的寄生虫」を取り込んだ能力の高い「精神的寄生虫」が支配するシステムに堕してしまう危険があるということである。ブキャナンはそういう実態が政府にはあることを示し、それは個人が合理的であることから必然的に導かれると主張した。しかしランドにしてみれば、そのような合理性は真の合理性とは言えないであろう。
問題の焦点は、ランドが合理性をどのように理解していたかということにあると私には思われる。ランドによれば、生物としての人間の目的は生存することであり、人間の生存において有利なのは合理的であることである。ここまでは事実の認識である。そこからランドは、人間は合理的であらねばならないという規範を引き出す。
そこで、ランドの「恋愛スキャンダル」のエピソードを解釈してみよう。ランドの経歴は訳者解説による簡単なものしか知らないのであるが、それによると(訳者は隠そうとはせずに、むしろあからさまにすることでランドを救おうとしている)、ランドはナサニエル・ブランデンという25歳年下の弟子を夫公認の愛人にしていたが、彼が弟子の女性と関係していたことを知ると破門した。さて、ランドによれば、恋愛もまた取引である。お互いに欲しいものを与え合うのだ。ランドの名声をブランデンに利用させることも含まれていたとしても、それが不純といえるだろうか。取引というのはそういうものだ。そして、取引の魅力が薄れれば(受け取るものが相対的に少ないと思い始めれば)、与えるものの一部を他に振り向けるのも当然なのだ。ランドに不服は言えたろうか。言う権利はあったかもしれない。取引の独占ないし専属ということが契約(暗黙のものであっても)に含まれていたのかもしれない。だが、契約も変更可能である。ランドが怒ったのは、正式な契約変更もなしに契約条件が破られたこと、欺かれたことに対してであったのだろうか。それならば、ブランデンが契約変更を申し出ていれば、ランドは受け入れたであろうか。それを侮辱とは取らず、冷静に彼女が受け入れたとは思えない(だからこそ、ブランデンは隠していた)。
あるいは、ランドは恩義を顧みぬ仕打ちと取ったのかもしれない。この取引は対等ではなく、ブランデンに債務(ランドに債権)を発生させるものだと受け取っていたのかもしれない。その債務によって、ランドの支配権が成立していたのだとすれば、ランドの意向に添わない行動はゆるされなかったのだ。ブランデンにしてみれば、もはやランドの庇護(債務超過)は必要なくなったか、むしろブランデンの側の債務超過になっている(ランドとの付き合いが重荷になっている)と思ったのだろう。
いずれにせよ、ランドは合理的ではなかった。ランドが自分の考えに忠実であろうとするなら、次のように事態を冷静に受け取るべきであった(このケースでは男と女を逆にして読む)。
たとえば、ふたりの男が同じ女を愛したとする。その女がふたりの男のどちらかに対して感じるものは、別のもうひとりの男に対して感じるものによって決定されない。こちらを愛したから、そちらへの愛が取り去られるものではない。その女が、どちらかの男を選ぶとするならば、「愛の敗者」は「愛の勝者」が努力で獲得したものを持っていなかったのだろう。
これはランドが夫とは別の男を愛人としていたことの弁明であるようにも聞こえるが、まさか自分が逆の立場(選ぶ方ではなく選ばれる方──正確には選ばれない方)になろうとは思っていなかったのではないか。もしランドがライバルの女性の若さを「努力で獲得したもの」ではないと非難したとするなら、自然は不公平であることを認めることになってしまうだろう。
つまり、ランドでさえ合理性には耐えられなかったのである。合理性の領域には私たちが信頼できる部分と信頼の置けない部分があるのだ。ランドは信頼できる部分を越えた合理性の冷酷さ(たとえば公平性には無関心であること)に遭うと、非合理性に逃避せざるを得なかった。
そもそも合理性は他者が合理的であることを求めない。他者が不合理的であって、そのために利益を得る機会が生ずるのであれば、それを利用するのが合理的であろう。ランドのように、他人に合理的であれと訴えるのは、そのことで彼女が利益を得るのでないかぎり、あるいはそのことで彼女が得られた利益を失っているのであれば、合理的ではない。むしろ、他人に利他的であれと訴えて、他人の利他行為から利益を得る方が合理的なのである。
公平であることが合理性と並立できる理由については、長期的関係というのが一つの答えであり、ランドもそのようなことを指摘しているが、それだけでは十分ではない。たとえばあなたの取引相手が、何らかのミスをして、あなたに利得の機会を提供しているのをあなたが知ったとしよう。その場合、あなたの取る道は以下の三つが考えられる。
①相手のミスを指摘してあげる。
②相手のミスを見逃して、誰か他の者がそれを利用するにまかせる。
③相手のミスにつけこんで、利益をあげる。
合理的な態度は③であろう。(ミスを指摘してあげなかったことで、長期的関係を損なうおそれはある。しかし、こちらもそのミスに気がつかなかったというような言い訳はできる。また、ミスを繰り返さないように教育するには痛い目をみるという経験を与えることが必要だという考えもある。ただし、ミスを単に指摘するのとミスによる損失を受けさせるのと、どちらが教育的効果に優るのかは判断しづらい。)実際、ゲームにおいては相手のミスにつけこむのはアンフェアではなく、勝利への有効な手段である。ゴールから離れてしまったゴールキーパーが戻って来るのを待つことがフェアであるのではない。金融市場において、他者のミスプライスに乗じて利益をあげるアービトラージは違法ではない。しかし、私たちは人生をゲームとしては捕らえない(それになぞらえることはあっても)。相手のミスにつけ込むのは合理的であるかもしれないが、品性がないと感じる。ランドにしてもそう思うはずだ(そうでなければ、彼女は単に冷酷であるにすぎない)。
つまり、人間の合理性は限定的なのだ。ランドも緊急時には他人を助けることを容認している。なぜ、平常時と緊急時に態度を変更せねばならぬかについては、ランドは説得的な理由を示していないが、合理性の冷酷さを和らげるためとしか考えられない。なぜそんなことが必要なのか。それは私たちが合理性に徹しきれないからだ。だから、なぜ合理性は限定的なのかを考える方が生産的なのである(ノージックがそちらに向かったように)。
私たちがそれほど合理的になれないことに、ランドは寛容であるべきであった。もしランドの言うように、私たちが「タブラ・ラサ」で生まれてくるものであるならば、各人の合理的であろうとする能力の差は環境のせいだということになる。タブラ・ラサに書き込む主体というものを想定しないとするならば、書き込むのは環境しかないからだ。だが、どちらにしても(主体にしても環境にしても、その混淆にしても)それが与えられたものであるならば(なぜなら、タブラ・ラサとしての人間には選択も獲得もできず、環境も主体も外からやってくるのだから)、人間に責任を問うことはできようか。責任を問うことは不当であり、不公平でもある。にもかかわらず、共同生活をする私たちは、お互いに責任を問わねばならないのである。それゆえに、私たちには寛容が求められるのだ。