危機と市場
マッド・リドレーの翻訳された本(『赤の女王』『ゲノムが語る23の物語』『徳の起源』『柔らかな遺伝子』)はみな読んでいるので、私は彼のファンと言えないこともない。最新刊の『繁栄 明日を切り拓くための人類10万年史』(2010年、太田直子・鍛原多恵子・柴田裕之訳、早川書房、2010年)も読んだ。
こういう本を出すのには最悪のタイミングであるのは間違いない(東日本大震災が起こってからはなおさらである)。原題は『合理的な楽観主義者 繁栄はどのように進化するか』であるが、さすがにこの時勢に日本では受け入れられないと配慮されたのか直訳は避けているけれども、邦題もぱっとしない。しかも、2007年に取り付け騒ぎを起こし一時国有化されたノーザン・ロック銀行の非常勤会長であったことを、著者はプロローグに記している。サブプライムローン危機に関わっていた人間が未来は明るいと言っても、なかなか信用されにくいだろう。著者は「交換」や「市場」の有効性を強調するが、金融に関しては留保している。けれども、商品市場と金融市場は分かち難いものであり、市場を礼賛するなら金融も含めなければならないのではないか。
その点を除けば、著者のいうことはしごくもっともだと私は思う。たとえば、都市に人口を集中させ、使わなくなった土地を原野に戻すという主張には大賛成である。また、遺伝子組み換え作物の活用についても、有機栽培・バイオ燃料などの馬鹿馬鹿しさの指摘についても賛成である。「自然」を尊重して「人工」の利便さを捨て去るということは、実は悲惨さに戻るということなのだと著者は指摘する。しかし、著者の言い分に納得しない人も少なくはないであろう。この本の主張は、著者も言及しているが、ビョルン・ロンボルグ『環境危機をあおってはいけない 地球環境のホントの実態』(2001年、山形浩生訳、文藝春秋、2003年)に類似している。こちらの本に対する反応も同じようなものであったのではないだろうか。
なぜであろうか。著者も指摘しているが、人は楽観論よりも悲観論を好むようである。悲観的な予測が外れれば備えが無駄になるだけだが、楽観的な予測が外れれば悲惨なことになるからだろうか。そのような見方からならば新しいものへの対応は慎重に(臆病に)なるだろう。たとえば、革新的技術はその影響が十分に予測できないとして、導入に抵抗する。遺伝子組み換え、あるいは原子力利用など(かつては臓器移植もそうだっただろう)。将来の不確実性をあまりに強調することは、現状維持を好み変化を嫌うという、既得権者のような態度となる。しかし、悲観論者は現状を変えることを望んでいるようでもある。たとえば、化石燃料中心のエネルギー使用からの転換や、リサイクルによるごみの減量などの環境問題。変化に関するこの二つの態度は矛盾してはいないのであろう。つまり、現状は放っておけば無目的(無理想的)に、欲望のおもむくままに変化してしまうので、それは押しとどめなければならず、一方、そのようにして過去から変化してきた現状をそのまま未来に引きのばすのではなく、よい方向に変化させねばならない、というのだろう。世界は理性的にコントロールされねばならない。
著者が反対するのはその点なのである――計画的な未来。そのような企てにおいては、様々な予期せぬ障害が発生して計画が目指していることは実現しないだろうし、さらにはほとんどの場合弊害を生じてしまう。自然発生的な物事の進行の方がずっとうまくいってきたし、現にうまくいっている。それは、現実の形態としては資本主義であり市民社会である。
ここが焦点なのだ。市場の失敗を重視するか、それとも政府の失敗をか。大竹文雄『競争と公平』(中央公論社、2010年)によると、日本では市場を信頼する人が相対的に少ないようだ。サブプライムローン危機はそういう心情をより強めてしまったろう。むろん、著者を含めて、市場経済よりもましな現実的システムなど残念ながらないというのが陰気な真実であると確信する人も、少なからずいる。ただし、著者は格差を生むことを市場経済の問題点としてあげる。国民生活あるいは経済活動については、できるだけ規制を少なくして市場での自由な競争にまかせ、そこで生じた格差は所得再分配で調整すればよい、というのが著者の主張のようである。
ところが、著者によれば、日本人は貧困救済を国の責任と考える人も相対的に少ないらしい。市場に対する不信とは整合性がないように思えるが、そもそも市場への信頼がなければ、市場を補正するような役割を政府に担わせることには賛成しかねるのかもしれない。市場が公正でないとするならば、政府に求められているのはその仕組みを変えることであり、望まれているのは失敗者に対する思いやりとしての所得再分配ではなく、正当な権利としての所得分配であるのだろう。国が面倒をみることへの拒否感は、そもそもの権利を恩恵に変えられてしまうことへの反発という風に考えられなくはない。
この場合、問題にされているのは「市場」というよりも「世の中の仕組み」なのだろう。世の中の仕組みは政府によって変えることができる(政府以外には変えられない)という信仰があり、一方では政府の能力が信頼できないという不満があって、私たちは未来に展望を持てないのかもしれない。
もちろん、市場単独で社会が成り立つことはない。最小であっても政治は必要なのだ。だが、政治が万能であるわけもない。全ての人を満足させようとするような政策は、誰も満足させない政策でしかない。誰かを満足させるには、特定の意図が働くことになる。そこには非効率や不公正がはびこる。市場は参加者の結果に差をつけるが、メカニカルという点では公正なのだ。だから、論点は政府の関与をどの水準に定めるべきなのかということになる。
例えば、災害などの危機において政府の役割はどの程度であるべきか。災害補償に話を絞ろう。災害の被災者に政府が個別に補償するのは、小さな災害(犯罪、交通事故、火災、小さな自然災害)について正当化されにくい。では、災害が大きい(被災者が多い)というだけの理由で政府の個別補償は正当化されるであろうか。災害が大きくて各種のインフラが破壊されてしまったり、損害が連鎖反応を起こす恐れがあるような状況では、個別補償によって対応する必要が生じてこよう。ただ災害が大きいというだけの理由で――それだけ心情に訴えるので、政治的理由にはなるだろうが――個別補償がなされるとすれば、不公平になろう。
被災者に政府が援助するのは、政府が保険者としての役割を果たしているとみなせる(税金の一部が保険料である)。市場主義者は、誰もが民間保険によって危機に備えることができるように制度が整備されるなら、政府の役割はもっと限定できるはずだと言うだろう。効率を考えれば、政府が保険者になるより、民間の主体の方が好ましい(もちろん、逆選択の問題はあるが)。当然、その場合は、政府が役割を縮小することを明確にし、そのことで支払わなくて済む税金を使うなどして各自が保険を購入することを促さなければならないが。
そういうことは可能だろうか。今回の震災に際して、市場主義者(と思われる人)の提案をネットでいくつか見かけた。その一つは、原発事故による避難地域を政府が一律に設定するのではなく、放射線量などの情報を公開してリスク評価をできるようにし、避難するかどうかは住民の自主的判断にゆだねるべきである、というものである。他の一つは、食品などの風評被害を防ぐために、政府が一律に出荷規制をするのではなく、放射線量の情報を公開して、リスクによる価格付けを市場で行わせ、購入するかどうかは消費者の自主的な判断にまかせるべきである、というものである。
風評被害については情報の非対称性ということでアカロフのレモン原理を持ち出してくる人もいたが、彼自身よく分かっていないのだと思う(経済学の教授がこのようなレベルなのは心もとないが)。汚染の影響に関しては、野菜の出荷者が消費者よりもよく分かっているわけではないのだから、そこに情報の非対称性などは存在していない。そもそも情報の非対称性が問題になるのは、それを解消することが困難だからであり、情報を開示すれば済むという簡単な解決策が可能ならば、問題にする必要もないのだ。つまり、彼の言いたいのは、単純に、適切な情報を与えれば消費者は適切な行動をするということなのだろう。効率的な市場の前提条件にすぎないのである。
だが、適切な情報とは何だろうか。リスク評価できるための汚染の程度だろうか。「野菜に多少の汚染があっても相応に価格が安ければ購入する消費者はいる」というようなことを本気で言っているのだろうか。確かに野菜の供給が限られていて、汚染のない野菜が非常に高価であれば、そういう消費者も出て来るだろう。しかし、代替的な出荷地や代替的な品がこれほど豊富な日本で、そういう行動をする消費者がいるとは思えない(全然いないとはいえないだろうが)。
これらの提案は、住民や消費者に過大な負担を強いるもののように思える。適切なリスク評価が私たちに可能だろうか。それが困難な場合、少しでもリスクがありそうであれば全て避けるというのが、私たちにとって当然の行動となろう。政府でも適切なリスク評価ができるとは思えないが、政府の指示を求めたくなるのはやむを得ないと思う。
市場が適切であるためには、市場参加者にある程度の(ときには過大な)能力が要求される。市場主義者たちは自己の能力に自信があるためか、それが大した障害にはならないとみなしているようだ。そういう意味では、彼らもまた原理主義者であり、現実主義者ではないのだろう。