井本喬作品集

時代はまわる

 『国家は破綻する』(カーメン・M・ラインハート&ケネス・S・ロゴス、2009年、村井章子訳、日経BP社、2011年)という本を読みながら、私は「まわる、まわるよ、時代はまわる」という中島みゆきの『時代』の歌詞を思い浮かべていた(他の誰かの同じような言葉に思い当る人もいるだろう)。

 かつてクルーグマンは、バブルの後遺症に悩む私たちを「かわいそうな日本」と言って嘲笑し、「日本の問題は、世界は知恵がないまま統治されているという現実を思い起こさせてくれる」と言い放った。さらに、「アメリカは日本とは違う」から、「もしアメリカ経済に最悪の事態が起こり、日本と同じような状況に陥っても、私たちは経済をコントロールすることはできるだろう」と自信を示していた(『恐慌の罠』、中岡望訳、中央公論社、2002年)。『国家は破綻する』ではサブプライム・ローン危機以前のアメリカの態度について次のように述べている。

  アメリカの金融システムや規制システムは、どれほど大量の資本が流入し続けてもまったく問題なく耐えられる、と当局は自信満々だった。二〇〇〇年代後半のグローバル金融危機の下地を作ったのは、このうぬぼれだったと言えよう。「今回はちがう」(このときは、アメリカのシステムはすぐれているというのが理由だった)と考えるのはまちがいだということが、またしても立証されたのである。途方もない水準に達した金融市場のリターンは、実際には資本流入によって膨らんでいたのであり、新興市場国でよくあるケースとどこも変わらなかった。

 アメリカに対してざまあみろと留飲を下げたくなる。例えば、服部茂幸『日本の失敗を後追いするアメリカ』(NTT出版、2011年)では、グリーンスパン、バーナンキ、ミシュキンなどのFRBの関係者を執拗に批判している。しかし、私はその尻馬に乗る気にはなれない。むしろ、「失われた十年」当時の敗北感を思い起こした。あのときは、アメリカと市場主義が正しいと思い知らされ、そう信じ込んだのだ。急速に変わる時代。ほんろうされる私たち。

 この本(『国家は破綻する』)をコメントする力は私にはない。ただそういうものなのかと素直に受け入れながら読んでいったのだが、バブルの崩壊という私たちの経験がそれほどユニークなものではないという思いを確かなものにはしてくれた。困難な状況は深刻な反省を促すものだが、後から振り返ればあまりにその個別性にとらわれ過ぎていて、いつでもどこででも誰にでも起こるかもしれないというさめた(一歩引いた)視点をとることができていなかった。

 東日本大震災にしてもそうだ。震災直後、特に原発事故が予断を許さない状況にあったとき、私もヒステリーに近い状態に陥ってしまったが、五か月を過ぎてみると被害は甚大ではあるが災害は災害でしかないと達観できるようにまでなった。このところ立て続けに起こった、中国高速鉄道事故、ノルウェーでの銃乱射事件、アメリカ政府債務上限問題、EUソブリンリスク問題、イギリスの暴動などの他国の出来事が伝えられると、困難に陥っているのは私たちだけではない、そして、その困難の対処において、私たちだけが、また、私たちの政府だけが間抜けなのではない――みんな同じだという安どさえ感じてしまう。

 それもまた行き過ぎなのかもしれない。同一視するのではなく相対化すること、それが求められているのだろう。今回の危機はまだ先が見通せない状況だが、経済の現状についての本をいくつか読んでみて思うところがあったので書いてみる。

 2000年代前半のアメリカ経済に対する関係者の自信は相当なものだったらしい。『ポスト・マネタリズムの金融政策』(翁邦雄、日本経済新聞出版社、2011年)によると、ロバート・ルーカスは2003年全米経済学会の会長講演で「恐慌予防の中心的課題は、すべての実質的な目的において解決された」と経済学の勝利宣言を行い、ベン・バーナンキは2004年の「グレートモデレーション」と題する講演で近年のアメリカの金融政策が実質成長率と物価上昇率の絶妙なバランスを達成したことを誇ってみせた。2001年に出版された『よい政策 悪い政策』(アラン・S・ブラインダー&ジャネット・L・イェレン、山岡洋一訳、日経BP社、2002年)では1990年代の成果に「幸運に助けられて」という但し書きをつけていたが、その自覚が脱落したのはその後のITバブルなどの対処がうまくいったからだろう。運がよかろうが悪かろうがどのような状況にも対応できるという自信がついたのだ。サブプライム・ローン危機は、運が尽きたというより、見込みが外れたという思いが当事者には強いのかもしれない。バブルの崩壊など金融政策で乗り切れるとタカをくくっていたらしい。

 低いインフレ率と高い成長率(低い失業率)の二兎を追う政策は、グリーンスパン・プットというリスクテイクを助長する風潮を生みだし、住宅バブルにつながっていった。あまりに敏感すぎたその政策は、日本のようなデフレには決してしないという意識が強すぎた結果だとも言える。皮肉なことに、それが日本と同じような道を歩ませたのだ。

 経済の高度化によりサービス業の比重が高まり、とりわけ金融業が重要な位置を占めるという、アメリカの経済モデルは破綻したのだろうか。それとも、人間の強欲さという予期せぬ要因がモデルの正常な運行を妨げたのであろうか。

 ところで生産性とは何だろうか。物理的な意味での生産性はあまり意味がない。価格を考慮すれば、生産性を上げるには、コストを削減するか、商品価格を上げるかのどちらか(あるいは両方)の方法しかないだろう。ただし、価格を上げて需要を減らしてしまったのでは元も子もない。価格を上げても額としての需要を減らさないのが生産性の向上なのだ。

 ここからは単なる思いつきにすぎないのだが、日本がコストダウンに必死になっているとき、アメリカのやってきたのは商品開発による生産性の向上ではなかっただろうか。ITといい、金融といい、目新しく高価な商品を次から次へと作り出していったことが、アメリカの繁栄ではなかったか。だからバブルが起こるのは当然であり、しかもインフレにはならなかった。

 旺盛な消費と消費喚起的な生産、そしてそれらを支える金融、それがアメリカ型だったのか。ITにしろ金融にしろ、いかにして売れる商品を作るかが問題であり、技術革新はその側面によってのみ評価されるのだ。私たちの生活が便利になるわけではなく、次から次へと新しい装いをした商品(実は古くからある――なぜなら人間の欲望は時代が移っても変わりはしないのだから)を手に入れることで、生きる時間を満たしているだけにすぎないのではないのかという、悲観的な気分になってしまう。

 それが成功し続ける保証はないことが証明されてしまったが、消費による繁栄はそういう形でしかあり得ないのだろう。日本が過度の貿易依存を脱して内需拡大を目指すとしたら、そういう方向に進むしかない。

 危機以前から言われてきたことだが、規制緩和の進展により、経済格差が拡大したのは事実らしい。日本では非正規雇用の増大が大きな要因とみなされているが、格差の拡大は世界的な傾向のようだ。中間層の没落によって、高所得層と低所得層の二極分化が起こっている。トリクル・ダウンは神話だったようだ。ラグラム・ラジャンは『フォールト・ラインズ』(2010年、伏見威蕃・月沢季歌子訳、新潮社、2011年)で、所得格差の拡大が今回の危機の一因であると主張している。格差拡大、雇用なき回復、セフティーネットの脆弱などによってアメリカンドリームが脅かされている近年の状況により、有権者の不満に危機感を抱いた政治家は住宅所有を推進することで対応しようとした。住宅バブルは政府がしかけたものであり、それに加えて破綻の際には政府の支援があるという暗黙のメッセージにより、金融機関は住宅ローンに過剰なリスクを積み上げた。それまでの金融政策の成功(と見えたもの)が、政府には自信を、企業には政府に対する信頼を、過剰に与えていた。

 つまりラジャンは、政治の干渉が市場をゆがめたためにバブルが発生したのであり、金融システムの保持=「大きすぎて潰せない」という誤ったメッセージがモラル・ハザードを引き起こして事態を悪化させたと言っているのだ。市場も金融も基本的には人々の生活を向上させる最適のシステムであり、その運用に気をつければいいのであって、今回の危機をその本質的な欠陥の現れとみなすべきではない、と。ラジャンは『セイヴィング キャピタリズム』(2003年、慶応義塾大学出版会、2006年)の共著者であり、広い意味でシカゴ学派に連なっているのだから、当然の見解といえようか。

 今回の危機の大きな要因とみなしている所得格差に対して、ラジャンは教育を解決策としてあげる。教育の重要性については耳にタコができるくらい聞かされてきたが、彼が主張しているのは教育が経済発展に有効だということではない。彼は所得格差の原因を高所得の職業への人材の供給不足だと見ている。需給と価格の関係で説明できるというわけだ。したがって、教育によってそのような職業への人材の供給が増えれば、高所得者の所得が下がって格差が縮むというのだ(むろん、底上げ効果も否定しないが)。つまり、社会の流動性を高める効果ゆえに教育が重視されるのだ(教育が生産性を高めるかどうかは別問題である)。だとすれば、それは極めてアメリカに特殊な事情であり、日本の格差問題には参考にはならないだろう。

 また、ラジャンはアメリカの過剰消費体質については、輸出依存型の国がアメリカをファイナンスしていることにも原因があると言う。この世界的不均衡を是正するためには輸出依存型の国が内需拡大に努力しなければならない。たとえば日本では非貿易財セクターの効率性が悪いために需要が伸びないので、規制緩和などによってサービス業の効率性を高める必要がある。このことも何度も聞かされてきたことだ。しかし、「たとえば、世界を股にかけているHSBCに匹敵するような大銀行は日本にはなく、規模やコスト競争力でウォルマートに追いすがるような流通業者もない。フランチャイズの数でマクドナルドに対抗できるレストラン・チェーンもない」(序章、ただし訳本では省略されていて、出版社のホームページに訳文がある)というラジャンの日本認識にはズレがあるようだ。『「失われた20年」の終り』(武者陵司、東洋経済新報社、2011年)にも述べられているが、日本のサービス業もまた変わってきているのだ。アメリカのサービス業などでの高い生産性は低賃金によって達成された側面もある。だとすれば、サービス業の生産性の向上とは格差を拡大することに他ならないだろう。

 アメリカもまた負けたかもしれないが、市場が負けたわけではない、とラジャンは言う。たとえアメリカが負けたのであっても、そのことが日本の復権にはならないのは確かである。私たちは目標を見失っているのだろう。日本型が有効性を失った後、反発はあるがアメリカが一つの理念として存在していた。その理念が崩壊してしまって、手元に残っているものは何もない。市場が理念として残っているとしても、その具体的な姿はどこにあるのか。目の前にあるのは刹那的な世界だけなのかもしれない。

 東日本大震災に際しては、共同体の価値が改めて見直されたようである。確かに、災害などで市場や行政組織が機能しなくなった場合には、共同体的な支援が有効になる。しかし、ボランティアという個人の自発的活動が重視されていることが示すように、共同体の弱体化は明らかではないか。

 共同体の役割を考えるとき、国家をどのように位置づけるかという難問がある。アメリカでは、ティーパーティという勢力が小さな政府を主張して台頭してきた。彼らは社会保障でさえ強制的な所得再分配だということで(その認識は正しいが)反対している。また、サブプライム・ローン危機における金融機関への支援や金融システム維持のための国の支出、さらには景気対策のための支出にも反対しているようだ。国の政策は彼らを益することはなく、彼らのカネ(税金)が彼ら以外の人間のために使われていると思っているからだろう。そこで問題となっているのは、国家の強制力と個人の独立性(他人への援助に関しては自発性)の関係である。市場だけでは従来の共同体の機能を代替することができないこともあって、共同体の弱体化を補てんする形で国家が役割を拡大してきた。アメリカではそういう国家の役割(権限)の拡大を嫌う傾向があり、日本ではそれが好まれる傾向にあるようだ。

 災害復興に際しては国の援助が当然のごとく期待されている。しかし、それには税金(あるいは将来の税金である国債)が使われる。被害を受けた個人や企業に対し、被害を受けなかった個人や企業から所得再分配がなされるということだ。人々は国の支援は当然と言いながら、増税には積極的ではないという矛盾した態度を取る。増税は嫌だから国の支援には反対だ、とあからさまには言わない(言えない)のである。災害に対して公的支援をどの程度すべきなのかという議論は、できるだけ多くするという方向に向かいがちで、個人の責任に言及するのはためらわれる雰囲気がある。ティーパーティのように、負担と受益の関係を明確にしてしまうのは、利己的であると思われるのだろう。

 共同体と個人の関係でもう一つ重要なのは、個人を社会経済システムの中に配置する役割が共同体にはあるということだろう。地域共同体における職業選択が世襲とコネを基本にしていたのに対し、市場は労働力の流動化を要求する。人々は労働市場という容器の中に投げ込まれ、企業はそこから適当な人材を選び出す。したがって、全ての人が雇用されるというシステムにはなっていない。国家は個人に個々に職業を割り当てるのではなく、失業率を下げるということで間接的に人々の配置を保障する役割を担わされるようになる。その役割を国家が十分に果たしていないと感じるなら、国家=社会に対する忠誠心が失われてしまうであろう。

 政府と市場の関係について、『世界経済を破綻させる23の嘘』(ハジュン・チャン、2010年、田村源二訳、徳間書房、2010年)という本には教わることが多かった。著者の立場ははっきりしている。資本主義も金融も経済学も否定しないが、ただ、市場主義経済学には疑義を呈する。ここ30年にわたって、それは世界の主流であった。それが世界経済を発展させてきたと言われているゆえに。しかし、その主張が現実を説明してはいないし、ましてや現実がその主張の功績であることも証明されてはいないと著者は言う。著者に全面的に賛成というわけではないが、市場主義経済学(新古典派)が言われているほど有効なものではないかもしれないと、私自身も再度の回心らしきものを経験した(一度目はむろん新古典派への回心である)。それも、今回の経済危機があったせいではある。

 著者が市場主義を批判するのは、それが想定(あるいは前提)するほど人間が合理的にはなれないという理由からだ。

 一つの方法としては、人間は合理的になれると仮想してシステムを作り、それほど合理的になれない人は例外視(見棄てるか保護する)ことだ。例えば、自然災害に関しては国家はインフラ以外は一切介入せず、個々の被害に対しては個人は保険で備えるというシステムが考えられよう。しかし、保険者が被保険者の個々のリスクを把握しそこなえば逆選択の問題が起こるし、被保険者が自らのリスクに疎ければ保険による救済に失敗するかもしれない。この場合、失敗者を国家が救済してはならない。なぜなら、それはモラル・ハザードをもたらすからである。そういう酷なシステムを人びとは受け入れるだろうか。

 既述の『フォールト・ラインズ』の中で、ラジャンは次のように言う。

 本書で何度も論じているように、総じて決断する人間の理性が問題なのではない。そうではなく、その決断の報いが、社会のコストと利益をきちんと反映したものであるかどうかが問題なのだ。したがって、決断を下すこと自体をやめさせるのではなく、決断する人間がその決断のもたらす影響をすべて承知するようにするのが私たちの目標になる。

 ラジャンはチャンとは違ってあくまで選択の自由は確保しようとする。しかし、その慎重な言い回しでも分かるように、選択の結果を全て個人に負わすことまでは主張していない。引用文は金融に関してであるが、「彼らを食い物にする下劣な輩からも、守ってやらなければならないであろう」とも付け加えている。しかし、その追加は結局は選択にある程度の制限を加えることにつながるのではないか。なぜなら、そういう保護は「自己改善の機会」を奪うことになるとも言いうるからである。「自己改善の機会」とは、(詐欺にかからないようにするために)詐欺にひっかかって痛い目をみることに他ならないからだ。

 「その決断のもたらす影響をすべて承知する」ということでさえ、普通の人の理解力を考えれば負担は大き過ぎる。それにその効果は、決断の結果を引き受けさせるという直接的方法よりも低いだろう。いくら教育されても、痛い目を見ないと人はよく理解できないのである。さらに、完全に同じ場面は二度と起こらないだろうから、痛い目をみて「自己改善の機会」を持った人も、また同じような過ちを繰り返してしまう。オレオレ詐欺やそれに類する詐欺に対してこれほど予防キャンペーンをしているのに引っかかる人が絶えないのは、私たちの合理的能力の低さ(猜疑心の弱さ)を証明しているのだろう。

 だから、あまりに市場原則を尊重しようというのは、やはり原理主義的だと私は思うようになった。

 国家と個人が契約関係にあり、国家が個人に対する義務を満足に果たしていないとすれば、個人は国家に抗議の声をあげることができる。一方、国家は個人が国家に対する義務を果たすように強制力を発揮することができる。その契約内容に関しては様々な意見がある。また、市場は共同体としての国家の役割を減らすことができる一方で、市場自身の支えとして国家を必要とする。そのような錯綜した関係の中で、私たちは生きて行かねばならないのだろう。

 

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