井本喬作品集

なぜ平等は求められるのか

 何のための平等か。それはある本を読みながら私を悩ませた問だった。その本とは、『暴力と不平等の人類史 戦争・革命・崩壊・疫病』(ウォルター・シャイデル、2017年、鬼澤忍・塩原道緒訳、東洋経済新報社、2019年)である。

 格差の広がりという現象が認識されたことで、その解釈がいろいろなされている。私の読んだ限りでは、トマ・ピケティ『21世紀の資本』(2013年)、フランコ・ミラノヴィッチ『大不平等』(2016年)がある。ピケティは、1918年~1980年の不平等の低下は二つの世界大戦という特殊で一時的な要因によるものであり、不平等を生み出すのが資本主義の本質であると主張している。ミラノヴィッチは、発展する経済における不平等の傾向を逆U字型(クズネッツ曲線)として捕らえたクズネッツの考えを拡張して、第一のクズネッツ波形は1980年までに終わり(平等化の終焉)、第二のクズネッツ波形が始まっている(不平等化の進行)という解釈を唱えている。

 ところが、シャイデルはさらに視野を拡大して、人類が余剰を生み出すようになってから不平等は必然化し、その傾向を反転させるのはよほど大きな暴力的な出来事がない限り難しいと主張する。その出来事としてシャイデルがあげるのが、戦争、革命、(国家の)崩壊、疫病の「四騎士」である。ただし、それらにしてもかなり大規模でなければならず、しかも、それらがおさまってしまえば再び不平等は進行するというのである。

 たとえば、戦争と革命については、20世紀における二つの世界大戦と二つの革命(ロシアと中国)以外には、平等化をもたらしたという明確な事例はほとんどない。「このプロセスの全体的な人的コストは周知のとおりだ。2度の世界大戦が最大1億人の命を直接・間接に奪ったように、共産主義もまた、中国とソ連を中心に、ほぼ同じだけの数の死者を発生させている。」そして、そのような犠牲によって得られた平等化という果実は失われてしまっている。「つまり、近年の広範な不平等の高まりは、かつて不平等をほぼ維持不能な異常に低い水準にまで減らした暴力的衝撃の平等化効果の弱化、と解釈するのが最善かもしれない。」

 国家の崩壊や疫病にしても平等を得るための手段としては好ましいものではないのは言うまでもないだろう。そして、秩序や人口が回復すると「平等化による利益はほぼ例外なく奪い取られてしまった。」

 だとすると、平等を求めるということは空しいことなのだろうか。膨大な犠牲を伴ってようやく得られたとしても、それを維持するのには暴力的な抑制が必要であり、そういう多大な努力による結果が、皆が貧しいだけというのであれば。シャイデルも著書の最後に以下のように言う。

 歴史的にみれば平和的な政策改革では、今後大きくなり続ける難題にうまく対処できそうにない。だからといって、別の選択肢はあるだろうか?経済的不平等の向上を称える者すべてが肝に銘じるべきなのは、ごく稀な例外を除いて、それが悲嘆のなかでしか実現してこなかったことだ。何かを願う時には、よくよく注意する必要がある。

 そうだとすると、問題は一つに絞られる。私たちが不平等という現実を納得して受け入れることができるか、という点である。自由経済主義的説得者は格差の妥当性を繰り返す。経済的な報酬は経済的な貢献の対価であり、その貢献の成果をみなが受けているのだから、貢献の度合いによる格差は正当なものとみなされなければならない。もしその正当性を否定してしまえば、そのような貢献はなされることがなく、みなが貧しく惨めなまま停滞するだけである。

 現にあるもの、現にうまく回っているものは、維持可能であることを自ら証明していて、それに下手に手を入れようとすることは危険である、というのが保守主義者の言い分だろう。むろん、自由主義者がすべて保守主義者ではないだろうが、急進的改革に反対する点では立場を同じくしている。

 他の視点としては、物事を理性的に判断することの重要性がある。自由経済主義的説得者はロマン主義を嫌う。革命もまたロマン主義の一つの現れだとみなす。理性よりも感情に身をゆだね、現実的制約を無視しがちであることを批判する。

 しかしながら、感情もまた現実であるのだ。理性が現実的であるためには、感情という現実の存在を認めなければならない。感情に流されるべきではないという紋切り型の反応では現実的な成果は得られない。

 平等というのは、公平という規範の実現として希求されるのであろう。理性的に判断すれば、公平というのは適当な格差を容認し得るのであるから、自由市場が実現するものを公平とみなして差し支えない。では、市場が実現する「適当さ」を感情はなぜ認めないのか。

 平等への動因の中には、上辺の人間を見上げる下辺の人間としての嫉妬や羨望という要素も含まれている。しかし、それは個人的な感情であると同時に、社会的な疑問を呼び起こすものなのだ。人間が集団を形成する存在であるのであれば、集団的成果は公平に分配されるべきではないかという疑問である。

 思い切った飛躍をすれば、嫉妬や羨望はアルファ雄を出さないために進化した機能であり、それがヒトをヒトたらしめた一つの重要な要素だったのではないか。これは集団選択的な考えであるので当然反対されるだろう。しかし、嫉妬や羨望という感情が私たちにあるということは、それらが進化の過程で何らかの機能をはたしてきたからではないか。現在ではその機能が状況にそぐわなくなっているとしても、それが消え去るのははるかな未来のことだろう。

 嫉妬や羨望に何らかのはけ口を見出すことが必要なのだろうか。

 

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