ブローデルの資本主義
フェルナン・ブローデルの『物質文明・経済・資本主義 15-18世紀』(1979年、村上光彦訳、みすず書房、1985-99年)を、最初私は大阪府立図書館で読んだ。図書館がまだ中之島にあった頃だ(1996年に東大阪市に中央図書館が出来て、中之島の古い建物は一般的な図書館としての機能は失った)。本来の入口は正面の階段を上がりドームの下のホールへ入るところにあるはずだが、そこは閉じられていて、階段の横の半地下のような通路から入るようになっていた。受付の人がそこにいて、プラスチックの番号札のついた鍵が渡される。鍵はロッカーのもので、そこにノートや筆記具以外のものをしまってから本のある部屋の区画に入ることがゆるされるのだ。当時はコンピュータによる管理はされていなくて、盗難防止の機器類もなく、無断で本が持ち出されていないかは人間の目でチェックしていたのだ。借りるときに本に短冊のような黄色いしおりがはさまれ、それが手続きをすませたという証明になっていて、持ち出すときに受付で回収される。
ブローデルのこの本は借りなかったと思う(よく憶えてはいないのだが、あるいは貸し出し禁止になっていたのかもしれない)。勤めの帰りに図書館に寄って、社会科学関係の本のある部屋に入り、そこの本棚(開架図書の棚)から抜き出し、古めかしい木のテーブルで少しずつ読んだ。読み通す気はなくて、拾い読みのようなつもりだった。何ぶん大部だったし(訳本で六分冊)、まだ全部が訳されていなかった。ちなみに訳本の出版年は、『日常性の構造1』(1985年)、『日常性の構造2』(1985年)、『交換のはたらき1』(1986年)、『交換のはたらき2』(1988年)、『世界時間1』(1996年)、『世界時間2』(1999年)である。私が読んだのは1987年だったので、第三分冊までしか訳されていなかった。
あの頃なぜこの本を読んだのかは、世界情勢と関係がある。社会主義あるいは共産主義の信用の失墜が明白になり、それらでは国家なり経済なりの運営がうまくいかないということが歴史的に実証されつつあった。資本主義は好きではなかったが、その現実妥当性とでもいうようなことについて考えざるを得なかった。同じ頃、ラッセルの『西洋哲学史』(1945年、市井三郎訳、みすず書房、1961年)を読んだ。そこでラッセルはロックを高く評価していた。「全体として見れば、みずからの起源をロックに負い、啓蒙された私利追求を説いた学派の方が、英雄主義と自己ギセイの名においてそれを軽べつした学派よりも、人間の幸福を増大させるにより大きい貢献をし、人間の悲惨さを増大させることにはより少ししか役割を演じていない。」こういう言葉に心を打たれた。私なりの転向の時期だったのである。
ブローデルを読もうと意図的に探した本ではない。本棚を順番に見ているときにたまたま目にしたので手にとってみたのだ(『地中海』はまだ翻訳されていなかった)。読むと興味が湧いた。だが、一気に読み通してしまえる本ではなかった。時代を順番に並べているのではなしに、いろいろな時期の細かな事実が次々と出て来る。ヨーロッパの歴史の知識が前提となっていて、よく分からないところがある(訳注が補ってくれてはいるが)。だが、投げ出してしまうには惜しい内容だ。少しずつ、時間をかけて読んでいった。
結局、翻訳されていた三分冊をさえ全部読み切れなかった。どこまで読んだかの記憶はない。いつの間にか読むのをやめてしまっていた。どうせ全部が訳されてはいないのだから、残りが出版されてからまとめて読めばいいと思ったのかもしれない。そういういいかげんな読み方ではあったが、強い印象をうけたのは、商業の重要性についてであった。多くの人と同じように、私は商人に対して不信感を抱いていた。「健全な」流通に貢献しただけの収益を獲得するならそれはいい。しかし、しばしば彼らが法外な儲けを得るというのは、そこに不正があるからではないか。モノを単に右から左へ移すだけで、価値を生み出すということには納得がいきかねた。当然、商業から派生してくる金融についても、いい感情は持てなかった。ところが、ブローデルは歴史のダイナミズムの中で商業や金融の果たす役割を教えてくれていた。資本主義は産業革命による製造業の発展の中にだけあるのではないということを。
今頃(2009年)になって、この本を読み通そうと思ったのは、その印象を確かめたかったからである。金融危機から発した世界不況の中で、「虚業」に対する否定論が共感を呼びがちな風潮があった。「モノづくり」こそ健全な経済の基礎であるという信念が、資本主義を信頼する人の中にもはびこっているようだった。
この本で、ブローデルは資本主義と市場経済は別物であると言っている。そういう風に理解すれば、学生の頃経済学で学んだ「完全競争下では利潤は発生しない」ということと、現実の企業が大きな利潤をあげていることに、整合性を持たせられそうな気がする。単に現実の市場の競争が不完全だというだけではなく、そもそも資本主義は完全競争的ではないのではないか。完全競争的な市場は効率的であるが、資本主義はそうではないのだろう。売れ残りや、倒産や、新商品による従来商品の駆逐などが効率的だろうか(総体的に計算してみれば結果として効率的なことが証明されるかもしれないが)。コンビニで賞味期限のせまった弁当などの食品の価格を下げて販売することを、フランチャイズの本社が禁止していることが報道されたことがあった。安売りはイメージダウンになるかららしい。賃金だけでなく、価格も硬直的であるのだ。まだ食べられるのに廃棄される食品は効率的だろうか(総体的に計算してみれば結果として効率的なことが証明されるかもしれないが)。
効率的なゆえに選ばれるのは市場経済であって資本主義ではない。ではなぜ資本主義が選ばれるのか。それは、それが発展をもたらすからだ。完全競争市場では変化は起こらない。利潤の機会はたちまち消尽されてしまうので、(外部からのショックがなければ)新規の試みはなされることはないだろう。市場経済は冷えて凍り付いてしまうシステムなのだ。資本主義はホットなシステムであり、利潤の機会を捕らえることによって人々は現状を変えていく。なぜ資本主義には利潤の機会があるのだろう。それはそれが才覚や特権や有利な立場などの不公平な障害によって守られるからだ。利潤の機会は開かれていなければならない、ただし全ての人々にではなく、一部の人にのみ。それが資本主義なのだ。
ブローデルは言う。「資本主義は、わたしの目から見ると古くからの冒険のように思われる。つまり<産業革命>が始まったときには、資本主義の背後には数々の経験──しかも商業的な経験だけとは限らない──を積み重ねた幅の広い過去があった。」さらに通俗的な見方に対してこう言う。「そうだとすると、《産業》資本主義こそは《真の》資本主義であって、それが商業資本主義(偽の資本主義)のあとを受けて勝利を収めたものの、しまいに不本意ながら超現代的な金融資本主義に席を譲ったのだ、とでも語ったらよいのであろうか。じつは銀行・産業・商業という三通りの資本主義(それというのも資本主義はいまだかってまず第一に商業資本主義であることをやめたことはないから)は、十九世紀をつうじて、またすでに十九世紀以前から、また十九世紀以後まで、ずっと共存してきたのである。」
ブローデルのこの考えが妥当なのかどうか、私には判断できない。しかし、資本主義が飼い慣らされることはないという認識は、実感としてある。ある種の論者の言うような参加者全員が交換の恩恵を受けるスマートなシステムは、市場経済であって(近似的ながらそういうものが、資本主義に見逃されるか見放されるかして、存在するとブローデルは言う)、資本主義ではないのだろう。資本主義には貪欲さが組み込まれているのだ。今回の経済危機について、資本主義が行き過ぎたと嘆いたり反省してみたところで仕方がない。資本主義が穏和になるなんてことを期待すべきではない。資本主義が紳士的になるなどというのは幻想に過ぎない。私たちが資本主義を選ぶとしたら、その不平等も、その景気変動も選ばなければならないのだろう。本質は変わってはいないのだ。