経済と政治、感情と理性
今年(2015年)のノーベル経済学賞がアンガス・ディートン氏に授与されるという報道があったので、著書の『大脱出 健康、お金、格差の起源』(2013年、松本裕訳、みすず書房、2014年)を読んでみた。もっとも、厳密に言えば経済学賞はノーベル賞ではなくて(正式には「アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞」というらしい)、賞金もノーベル財団ではなくスウェーデン国立銀行が出している。2008年の金融危機以来、市場バンザイという態度を反省してか、受賞の領域をこういう問題提起の論にも広げているようだ。
実は、ここで取り上げたいのはこの本ではない。この本には宣伝としてみすず書房の出版書がいくつか載っていて、その中にポール・シーブライト著『殺人ザルはいかにして経済に目覚めたか? ヒトの進化からみた経済学』(2005年・2010年、山形浩正・森本正史訳、みすず書房、2014年)というのがあり、面白そうなので読んでみた。取り上げるのはこの本であるが、『大脱出』と関連がないでもない。
まず一番に、訳書の題名が悪い。センセーショナルである点は置くとして、ミスリーディングなのだ。私が興味を引かれたのは、この題名によって予想される内容が、本来利己的であるヒトがなぜ交換(つまり、市場)を可能にしたのかを検討するものだろうと思ったからだ。しかし、著者はその点についてはあいまいである。むしろ、市場(経済)そのものは単独では成り立たず、信用を補強する制度(政治)が必要であると主張している。だから、この題名を使うなら、『殺人ザルはいかにして経済と政治に目覚めたか?』とでもすべきだろう。ちなみに原題は“THE COMPANY OF STRANGERS A Natural History of Economic Life”である。
交換について著者があいまいだと私が言うのは、同時交換と互恵交換の区別を明確にしていないからだ。著者がセンセーショナルな表現で問うのは、私たちは買い物をするのになぜカネを払ったりするのか、売り手を殴り倒すなり、極端な場合には殺すなりして、奪ってしまえばいいのに、ということである(この問いに刺激されて邦題がつけられたのだろう)。この答えは実は簡単で、売り手も用心していれば私たちにはそれがしにくい。つまり、同時交換の可能な条件は何かという問いは謎を含まない。信用がなくても可能なのだ。
謎なのは、交換が時間的にずれる場合だ。通常、それは互恵交換と呼ばれるが、貸借関係とみてもいい。この交換が同時交換と違う点の一つに、同時交換されるモノは違っていなければならない(同じモノを交換しても意味がない、だから、分業を前提とする)のに、互恵交換は同じモノでもかまわないということだ。一番分かりやすいのは、友人からカネを借りる場合だ。通常友人間で利子は取らないから、返すのは同額のカネである。同じモノが時間をずらしてやり取り(交換)される。ずれの時間は短くてもいい。たとえば、私は私の瓶からあなたに酒をつぐと、次はあなたがあなたの瓶から私に酒をつぐ。この交換は社会的であって、私とあなたの関係を親密にする儀式のようなものと解釈される。しかし、互恵交換を貸借関係と見る場合には経済的要素が強くなる。
たとえ親しい人であっても、なぜ人はお返し(返済)を期待できるのか。もっと不思議なのは、なぜ人は「借り」を返すことを義務のように思うのか。それは親しいからだ、というのは答えにはならない。なぜなら、親しければ貸借ではなく贈与であるべきだろう。実際、親しい関係で貸借を意識することは、人間関係を経済的にしてしまうと嫌われるのである。
著者は、このような「強い返報性」がヒトには見られ、それが他人との交換を可能にしたのではないかと一応は言う。しかし、同時交換と互恵交換の区別を明確にしていないので、対立させられているのは交換と強奪なのだ。そして、「強い返報性」がヒトに備わっている進化的な説明を検討するが、結論は出していない。著者は協力の有利性を理解する打算的理性にも重きを置く。「強い返報性」と打算が交換を可能にしている。そこに謎はない。著者が謎とするのは、親しい関係における信用の形成は理解しうるが、それを赤の他人にまで拡大できるのはなぜか、ということである。危険な相手かどうかを気にすることなく日常の売買が行われるのはなぜか。
経済交換が当事者双方にとって利益であるということは理由にはならない。相手から奪えれば、支払いをする必要はなく、より利益が増える。長期的取引を理由にすることはできるだろうか。鶏を殺して金の卵を奪うよりも、ずっと産み続けてもらう方が得である。それも、奪う相手と機会が多数あれば、強力な理由にはならない。
結局、様々な理由でヒトが集団化したことが信用の拡大をもたらしたのではないかというのが著者の考えのようである。ヒトの集団が拡大することにより、親しい人間との関係に似たものを集団の他のメンバーに当てはめる必要が出てくるが、そのためには信用を保証する制度がなければならないと著者は主張する。なぜなら、親しい人間の関係は、その他の人間に対する敵対感情とウラハラだからだ。我等と彼等の区別が親しい者同士の信用を助長してきたのであれば、他者への不信を乗り越えるのは容易ではない。それゆえ、信用の拡大には感情だけでは不十分で、理性の判断が必要だと著者は主張する。ただし、著者は分業と交換の効率性は高く評価しているので、それを損なうような制度(規制)には批判的である。市場の限界は認めるが、政府の限界もまた認めねばならない。
ところで、著者は贈与についてはほとんど述べていない。見知らぬ他人の間の交換が謎ならば、見知らぬ他人への贈与はさらなる謎である。見かけの贈与(実は見返りを期待している打算的行為)というものもあるが、贈与の全てが見かけだけであるのではない。打算(すなわち理性)のおよばぬ領域があるという点では、贈与の方が興味深い。これは一方的援助にも当てはまる。著者がヒトの未来を思うのも、最終的に自己と自己の子孫にとって有益だと判断したからではあるまい。自分には何の利益ももたらさぬのに、それどころか損失(費用)をこうむることが多いのに、他人のことを思いやるのはなぜだろうか。進化的な理由は不明だが、それが理性的判断によるのではないことは確かだ。
即ち、思いやりというのは感情である。理性には持ちえない確信がある。ただし、そこには別の問題がある。感情は自己完結的であり(それゆえ即時的であり)、それによって引き起こされた自己の行為が他人にどのような結果をもたらしたかについては無頓着である。つまり、自己満足なのだ。極端な場合(とは言え、よくあることだが)、同情はそれだけで終わってしまっても、それを感じた人に満足を与える。行為の帰結を評価できるのは、感情でなく理性だ。『大脱出』の中には、貧しい人々に対する援助が本当に彼等の役に立っているかを検証すべきだという主張がある。援助は援助した人を満足させるのは確かだ。だが、援助が援助される人々を満足させるかどうかは不確かなのである。
両書に共通するところの要点は以下のようになるだろう。過去をノスタルジックに憧れるのは幻想だ。様々な異論はあっても、病気、飢餓、暴力などの点において、人類は過去に比してよりよい水準に向上してきた。そして、さらなる向上には理性を働かせることが必要だ。これは至極当たり前の結論だが、現状の問題の解決法としてはかなりじれったいものではある。
個人的な解決法としては、もっと簡単で、効果的な方法もある。それは、現状をパラダイスとみなすように自己を統制することだ。これは多くの賢人たちが推奨してきたことだ。しかし、その方法をみなが取るようになれば、進歩は止まる。ほとんどの賢人たちは進歩に価値を置くことはなかっただろう。彼等は過去の進歩の蓄積を享受している各々の現代という時代の先端にいて、かつ未来のことなど気にはしなかったのだから。
前述のみすず書房の宣伝書籍の中に、『合理的選択』(イツァーク・ギルボア、2010年、松井彰彦訳、みすず書房、2013年)があり、これも読んでみた。最初はテクニカルな本かと当て外れな思いだったが、読み進むとかなり含蓄のある内容だった。最後の方に「他人をヘドニック・トレッドミルから追い落としてはならない」という節があり、禁欲を他人に勧めることへの批判をしている。ヘドニック・トレッドミルは「幸福の回り車」と訳されているが、ネズミが回転する輪の中で走り続けるように、次々と目標が高くなる物質的な幸福を追い求め続けることを意味している。個人的にそういう態度を放棄するのは勝手だが、他人にまでそれを強制することは倫理的な問題が生じてくる、という著者の主張はもっともだ。禁欲者は他人のことを気にする必要はないのだから、禁欲による社会改革などに色眼をつかわず、他人がどうであれ放っていけばよいのだ。
著者はヘドニック・トレッドミルと経済発展の関連については述べていないが、「経済成長はお金持ちの幸福を最大化するのではなく、貧困者の不幸を最小化できる」(むろん、自然にそうなるというのではなく、何らかの施策を必要とする)という見解を支持しているようだ。
正しい道は、現状にある程度満足しつつ、なおかつある程度不満を持つことなのだろう。