量的緩和とは何か
日銀の政策をめぐり、素人論議(昔風に言えば床屋政談か)が盛んだった。経済学者の権威も落ちぶれたものだと思うが、以前からそうだったのだろう。物理学の話題には素人が口をはさもうとはしないけれど、経済なら理解できそうな気がするのだ。
黒田新総裁率いる日銀が新たな政策を打ち出した(質的・量的金融緩和)。大胆な金融緩和とインフレターゲットというリフレ派の主張が採用された。しかし、安倍新政権発足前後からの、政策が実施されもしないうちの早々とした株高・円安をどう判断すべきなのか。政策の効果を先取りしたものなのか、あるいは投機による一時的なもの(バブル)にすぎないのか。
安倍政権の政策は、大胆な金融政策、機動的な財政政策、民間投資を喚起する成長戦略という「三本の矢」であるとされている。それらの間の整合性はどうなっているのだろうか。財政政策か金融政策かというケインジアンとマネタリストの対立はどうなったのだろうか。また、実物経済の成長は構造改革や規制緩和によって(のみ)なされるのであって、財政政策の効果は一時的であり、政府債務を拡大するだけであるという「アンチ・ケインズ」派の主張も取り入れられているようだが、成長戦略とよばれるものが以前の構造改革とどう違うのか、そもそも政府の先導する産業政策にどれほどの効果があるのかという疑問もある。理論家(経済学者)の厳密性など、実務家(政治家や事業者)には必要ないのかもしれないが、それにしても混乱させられる。
たまたま『ケインジアンの経済学とケインズの経済学』(A・レィヨンフーヴッド、1968年、根岸隆監訳、東洋経済新報社、1978年)を再読したのだが、それによるとケインズはデフレの原因として長期利子率の高さをあげ、それに対処すべき中央銀行の役割を重視していたらしい。ケインズが金融政策を無効とみなして財政政策を推奨したというのはケインジアンたちの誤った解釈であり、中央銀行の責任を問うという点において彼の見解はむしろフリードマンに近いようだ。私もケインズについては実物経済的な解釈しか知らなかった。ずっと以前にこの本を読んだときも、その見方を修正できていなかった。再読してみて、前回は一体何を読んでいたのかとあきれてしまった。金融についての無知は、金融制度の発達が遅れていた日本の状況も影響していたのだろう。バブルの崩壊とその後の停滞、リーマンショック後の世界の状況などによって、嫌でも金融について知らざるを得なくなっている。ケインズが取り組んだのはデフレであり、しかも彼が金融を重視していたことが強調されているので、この本も妙に時宜を得た感じで読めた。
私は大学で経済学を学んだが、金融論は素人である。大量の(大方はクズ)情報にさらされて、何を信じていいのか分からない。そこで言われていることのほとんどは、結局は、マネーが増えれば経済が成長するとか、マネーが回れば景気がよくなるなどという常識的な言い回しに過ぎない。そこで、もう一度学び直してみようと思った。ポイントはマネーの増加は実体経済に影響を与えるのかということである。主に参考にしたのは、植田和男『ゼロ金利との闘い』(日本経済新聞社、2005年)と吉川洋『デフレーション』(日本経済新聞出版社、2013年)である。両方ともいわゆる反リフレ派であろうから、そちらにバイアスがかかっている(私も心情的にも同感している)。
詳細は省略して(これが危険なのだが)、大まかなことだけを整理してみよう。MV=PT(フィシャ―の交換方程式)にしろ、M=kPY(ケンブリッジ方程式)にしろ、M(マネー量)の増加はP(物価)の上昇によって相殺されてTやY(大まかに言って実体経済)に影響しないというのが、貨幣数量説が唱える貨幣の中立性である。マネタリストは、長期的には貨幣数量説が妥当するが、短期的にはマネー量が実体経済に影響することは認める。だから、フリードマンなどは、実体経済に影響を与えないために(恣意的な介入を防ぐために)、実体経済の規模に応じたマネー量を機械的に供給することを提唱した。しかし、彼らが考えていたのはインフレ対策であり、デフレについては克服された(マネー量さえ十分であればデフレは防げる)過去の問題としていた。つまり、マネーの増加は少なくとも物価の上昇をもたらすはずなのである。だが、そうはならない状況が日本で起こった。
Mの増減の影響は、V(貨幣の流通速度)やk(逆数が所得流通速度)の変化にも左右される。ここでのMをマネーサプライ(マネーストック)とするなら、中央銀行が操作することができるマネタリーベースとの関係は、マネタリーベース×信用乗数(貨幣乗数)=マネーサプライである。マネタリスト的な中央銀行は信用乗数と貨幣の流通速度(あるいは所得流通速度)の二重の制約を通じて物価や実体経済に影響を与えようとすることになる。そのような制約が中央銀行の政策を無効にしてしまう可能性がある。つまり、デフレ状況では供給されたマネーは使われずにしまい込まれてしまう。銀行は貸し出しを増やさず、企業や家庭は支出を増やさない。
伝統的な中央銀行の政策手段は金利操作である。中央銀行がマネタリーベースを操作するのは、その増減によって短期名目金利を動かすためである。短期金利の変化は長期金利に波及するから、金利によって実体経済を操作しようとするのである。いわゆる「流動性の罠」(ケインズ自身は認めていないようだが)というのは、利子率があまりに低すぎると、現金を持つコスト(利息を得られないという損失)が消え、人々は債権より(流動性のある)現金を持ちたがるようになり、中央銀行が買いオペで現金を供給してもそれが債券購入には向けられず、利子率が下がらない(債権価格が上昇しない)という現象である。「流動性の罠」にはまってしまうと、中央銀行は手段を失う。
伝統的な政策が有効ではなくなったとき、日銀が取った非伝統的手段が量的緩和である。量的緩和が直接デフレ脱却に効果があるというのはリフレ論者(素人は除く)でさえ言っていない。リフレ論者(例えばクルーグマン)の主張は、実体経済はいつかは何らかのショックで上向くはずだから、そのときに量的緩和をやめるのではなく、ある程度の期間は継続することを約束し、その結果インフレが起こることを期待させる、というものである。将来のインフレ期待は、その時点での金利の現在での予想(現在の長期金利)を下落させることで、現在の行動に影響を及ぼす。これを時間軸政策と言うらしい。日銀もこれを採用したが、遅過ぎたし小さ過ぎるとリフレ論者は批判している。つまりやろうとしていることは同じなのだが、もっと大胆にすべきだというのだ。
リーマンショック後しばらくは日銀への批判の声は低くなった。日銀を批判していたアメリカの論者の足元で日本と同じような状況が起こったからだ。FRBは日銀と同じように量的緩和政策を実施し、さらに大胆に拡大した。その効果はまだ不明だが、FRBがやっている大胆さを日銀も見習えと、批判が盛り返してきたのだ。
金融緩和の効果としては、ポートフォリオ・リバランスも考えられているようだ(例えばバーナンキ)。中央銀行による買いオペの対象を短期国債に限ると、ゼロ金利のもとでは現金と代替的になり、いわゆる流動性の罠に落ち込んでしまうが、長期国債などの他の資産を対象とすれば、必ずしもそうはならない。現金を得た民間の主体が例えば株式の購入に向かえば、資産効果などを通じて実体経済に影響を与えるというわけだ。つまりは資産バブルを起こそうというのだ。FRBの政策はこれを目的としていて、新しい体制になった日銀もこれに倣うというのだろうか。実は日銀ないし政府の思惑は、資産バブルや為替介入にあって、物価の上昇については確信も関心もないのではないだろうか。ただ、真の目的をはぐらかすために、リフレ派の主張を口にしているだけではないのか。
ただし、直近の過去に起こったことは、政府や日銀が新たな政策をすると公言しただけの効果である。つまり、何でもいいから従来とは変わったことをやってくれという要望に応えた結果にすぎない。この政策転換による爽快感は、太平洋戦争開戦時の雰囲気に似ているように思える。泥沼化した日中戦争といわゆるABCD包囲網による重苦しい雰囲気を、一気に打ち払った(ように思えた)ときの心情に。一向に効果が上がらない地道な対策に耐えられなくなって、バクチでもいいから変化を求めたのだ。それが人々の期待に働きかけるということなのだろう。
私自身は経済を政府なり中央銀行なりが恣意的に調整できるのか疑問に思うようになった。それらの主体が無力であるというのではない。何らかの影響力を行使できるのは確かだ。しかし、思ったように動かせるのかという点については懐疑的である。そもそも資本主義には景気変動の波が必然的であり、それゆえ必要であるのではないか。景気の上昇期はバブルが生じ、永遠にバブルが続けられないためにいつかは下降局面に入る。その波を穏やかにすることは、資本主義の本質的な部分を抑制することになり、社会主義的な停滞を招いてしまうのではないか。バブルの崩壊に対して経済主体を保護することは、一時的な悲惨さを避けるために長期の停滞をもたらしてしまうことになるのではないか。これはシュンペーター的しごき論というより、悲観論であるのだが。