井本喬作品集

文学の「現代性」論

 私小説を代表とする近代日本リアリズム文学への批判には二つの方法があり、それゆえ二つの批判の系譜がある。方法の一つは、日本のリアリズム文学を西欧の(本場の!)それに比して不完全なものとみなし、その原因を彼我の文化・社会の相違(日本の遅れ)に求めようとする。他の一つは、リアリズムは近代と結びついた手法であって、近代とは区別さるべき特性を有する現代においては無効であるとする。この場合、日本文化・社会の歴史的特殊性は世界的同時性の中に解消される。

 この二つの系譜――仮に近代派と現代派と名づけよう――の私小説評価は、貶価という点では一致しているにもかかわらず、その内容において全く対立する。しかも、互いに相手の基準においてはむしろ正当視されるような評価をしている。つまり、非リアリズム的作品を推奨する現代派は私小説をリアリズム的作品とみなし、(真の)リアリズムを目指す近代派は私小説を非(不完全な)リアリズム的作品とみなす。志賀直哉がそのいい例であって、近代派からはその感覚性(無思想性)を指弾され、現代派からはその倫理性を非難されているのだ。現代派の一人である饗庭孝男が非合理性という観点から志賀直哉を(ようやく)取り上げたが、そのような見方がそれまでなされなかったのがむしろ不思議なくらいだ。

 近代派にしろ現代派にしろ、文学を単純に論じるのではなく、時代ないし社会との対応において捕える。したがって、彼等の私小説評価は、彼等の文学観とともに(あるいは、よりも)文化観、社会観を示している。この二つの系譜の展開は、昭和文学を構成する重要な要素の一つである。なぜなら、昭和文学こそが(平野謙のいう三派鼎立という形で)自然主義文学を相対化しようという明確な試みを成立させたからである。近代派と現代派は、マルクス主義文学とモダニズム文学からの直接の流れではないが、三派鼎立という状況からその論を導き出してきている。したがって、私小説とマルクス主義文学とモダニズム文学の三者をいかに組み合わせるか(私小説は当然否定するとして、後の二者をどう評価するか)が立論の契機になっている。大まかに結論を述べてしまえば、近代派はマルクス主義文学もモダニズム文学も私小説の同類とみなすか、近代文学の不完全な試みないしその前史とする。つまり、真の近代文学は成立したことはなかった(そして未だに成立していない)と主張する。現代派は、モダニズム文学と私小説の対立を主軸と見、マルクス主義文学は私小説と結びつけて否定する。この主張は、新感覚派、形式主義文学、新興芸術派、主知主義、新社会派などの文学主張の流れとなり、戦中と戦後のしばらくは途絶え、昭和三十年頃に別の形で復活する。

 現代派とモダニズム文学の関係ははっきりしたものとは言えない。現代派の人々はむしろモダニズム文学を否定するだろう。しかし、両者の間に伊藤整を置いてみればよい。伊藤整の横光利一評価によってモダニズム文学は現代派に結びつくことができる。それが出来なかったために、この流れは一時伏流してしまうのだ。

 現代派の一人として小林秀雄をあげるのは奇妙なことだろうか。彼は、マルクス主義文学論と同様、モダニズム文学論の流れに対して否定的であった(たとえば、心理主義に対する彼の反発)。しかし、彼の態度は一貫していたわけではない。昭和十年前後の彼の評論の中には「現代」についての過敏な意識がある。

  世界に共通な今日の社会的危機といふ事が言はれるが、かふいふ事を考えてゐると日本の今の社会は余程格別な壊れ方をしてゐるのだとつくづく思はざるを得ない。(「故郷を失った文学」)

 伝統的な社会は近代社会にとって代わられつつある、しかし、当の近代そのものが崩壊の危機にあるという、二重の「壊れ方」を小林は指摘している。既に彼は「現代文学の不安」について語り、「私小説論」においても「わが国の自然主義小説はブルジョア文学といふより封建主義文学であ」ると言う一方、ジイドを引き合いに出して「現代の社会不安」や「現代個人主義小説」に言及している。

 現代性というものは一種の混乱として受け取られるものらしい。「現代」の特殊性の認識は同時代性を意識させ、新世代と旧世代の対立へと導く。

  何一つ定かなものはない。恐らく人類史上で新事実と云ふ言葉が最も重要性を帯びた今日、新事実を追ふ私たちの疲れた眼には、事物の色彩は重畳し、輪郭は交錯し、何一つ定かなものはない。(「現代文学の不安」昭和七年)

  私の様な若輩に苦し気な文芸時評を書かせて、そっぽをむいている凡そ理論といふものを見境なく毛嫌ひしてゐる今日の老作家、中老作家に、私は今話し掛けようとしてゐるのではない。私と同じ環境に育ち、私と同じ教育をうけ、私と同じ年齢に達した知識人達(たとへ諸君がどんな思想を装ってゐようと)に、話しかけたいのである。(同)

 「私小説論」における小林秀雄は前近代→近代→現代という過程を考えていたようであり、日本文学に近代をもたらしたのはマルクス主義文学であると評価している。つまり、西欧においては近代文学を生み出した自然主義はわが国では単に小説上の「技法」として受け入れられただけで思想的変革を伴わず、したがって近代文学とはなりえなかった。自然主義の代役を果たしたのがマルクス主義であった。我々はようやく近代を得た、それを土台にして現代小説を成立させねばならぬ、というわけだ。

 「私小説論」のこのような特性は中村光夫の「転向文学論」と比較すれば明瞭になる。中村光夫のマルクス主義文学評価は、前近代から近代への移行過程としてのロマン主義としてであり、小林秀雄が現代文学の成立を主張しているとき、中村光夫は近代文学の成立を主張する。

 ただし中村光夫は「中野重治氏に」以下の評論で、私小説に「ロマン派的性格」を見出しており、それが『風俗小説論』に継承されている。つまり、わが国の自然主義文学は近代文学を志向しながら文学をとりまく環境によってロマン主義的なものとしてとどまらざるを得なかったとされる。したがって、中村光夫の立論からすれば、文学の現代化の試みなど大本を忘れた小手先の「技法」でしかなく、モダニズムにしろ、無頼派から戦後文学への流れにしろ、近代化の未達成ということで否定されてしまうわけである。

 小林秀雄もモダニズム文学を現代文学(あるいはその試み)とは認めなかった。むしろ、「私小説の最後の変種」と言って貶め、横光利一を次のように批判する。

  新しい外来の意匠に対して常に貪婪であり鋭敏で悪びれる事のなかったが為に、混乱した方法や企図や提唱のうちをさまよふこの作家の姿は、生れて日の浅いわが国の近代文学が遭遇した苦痛の象徴であり、かふいふ作家が不当な冷視と不当な賞讃とをくらって来た事も亦止むを得ない。

 小林秀雄は「純粋小説論」の提案は否定するが、そのような提案をせざるを得なくさせた状況(の認識)は共有する。つまり、「外的な経済的な事情によって、社会の生活様式は急速に変わって行った」という状況があり、一方、「作家等の伝統的なものの考へは容易に変る筈がなかった」ために、モダニズム文学とは、「不安な実生活を新らしい技巧によって修正しよう、新鮮な感覚によって装飾しよう」という試みでしかない、というわけだ。

 横光利一は、小林秀雄が「混乱」と見たものを「偶然」と表現している。

  けれども、その中間の重心に、自意識という介在物があって、人間の外部と内部とを引き裂いてゐるかのごとき働きをなしつつ、恰も人間の活動をしてそれが全く偶然的に、突発的に起って来るかのごとき観を呈しめてゐる近代人といふものは、まことに通俗小説内における偶然の頻発と同様に、われわれにとって興味溢れたものなのである。しかも、ただ一人にしてその多くの偶然を持ってゐる人間が、二人以上現れて活動する世の中であってみれば、さらにそれらの偶然の集合は大偶然となって、日常いたる所にひしめき合ってゐるのである。これが近代人の日常性であり必然性である(後略)(「純粋小説論」 昭和十年)

 洗練された表現ではないけれど、後の現代派の人々だってこれに大したことをつけ加えているわけではない。自分達が横光利一の後継であることに気づいていれば、その浅薄さを自分たちのものとして認めるか、あるいは彼の先見性を賞すべきであったろう。しかも、中河與一が例によって更に徹底して「偶然文学論」を唱えたとき、既にその問題点も露呈しているのだ。彼は偶然を現代に特有な現象などとは見ておらず、古来世界は偶然的であったと断定している(しかも彼は横光利一よりも率直であって、偶然論をマルクス主義的必然論に対置して、昔ながらの敵愾心をしつこく現わしているのである)。それゆえ、現代的であるのは認識(方法)であって、事態の新らしさが認識の新しさを保証をするのではなく、認識は認識自体によって支えられる。

 横光利一は、現実が変化したのだから当然描写も変化すると言ったのであり、方法としてはリアリズムの継承に他ならない。中川與一は方法の進歩を主張しているが、その進歩性を保証するのは現実をよりよく(正確に)描くというリアリズムの基準である。なまじ現実を支えにするからそうなってしまうのだ。方法としての偶然論を、単にいろいろな方法のうちの一つとして取り上げることから免れるためには、その関係に頼らざるを得ない。たとえ、現実を描かないこと――非リアリズムを価値基準とするという逆転した形においてさえ。

 小林秀雄や横光利一の「現代」意識は誰にも――彼等自身においてさえ、継承されなかった。その原因は、戦時体制の進行と敗戦という状況にあった。この状況が日本の前近代性をあらわにしたように思え、近代化が最重要課題となったのである。

 「現代」と「偶然」の結びつきは、戦後、服部達によって再び取り上げられる。

  軽信、諦観、または眠り。要するに精神の自己喪失――これは事故の過剰のなかに生きる現代人に、多かれ少かれ与えられている宿命である。事故の過剰は、言いかえれば偶然の過剰である。いわばわれわれは歴史的偶然のなかに生きている。マルクスは歴史的必然にもとずく人間の疎外について語ったが、現代のわれわれには、ほとんど階級の別を問わず、歴史的偶然にもとずく自己疎外が課せられている。(「現代人の疎外」昭和二十九年)

 服部達は横光利一や中河與一よりはもう少し巧妙であって、必然と偶然の他に実体と機能の対立を導入している。『われらにとって美は存在するか』(昭和三十一年)の背後にはこのような認識がある。つまり、「近代」から「現代」の移行は、「意味」から「機能」への移行であり、「記述的(ディスクリティヴ)文学」を無効にし、「想像的(イマジナティヴ)文学」だけを可能にする(「ルポルタージュ文学論」)。しかし、この辺りは説得力不足で、なぜ「偶然」や「機能」が「想像力」を支持するのかはっきりしない。突如として、西欧文学には想像力があり、日本文学にはないという断定がなされる。想像力と美意識がなぜか結びつけられ、想像力のないところに美意識はないとされる。しかし、その場合、私小説的美というものがあるなら、私小説にも想像力が働いていなければならない。そこで、死の意識が現実を非在化させ、想像力に似た作用の働く場を作るとされる。なぜなら、想像力とは非在を存在させることだから。

 しかし、想像力については詳しい検討はなく、空虚な概念のままである。第一、想像力が創造において働くのか、鑑賞において働くのかさえはっきりせず、両者の関係となると皆目見当もつかない。想像力が非在を存在させるものであるならば、創造におけるその作用は作品に存在のみを与え、したがって鑑賞においては想像力の働く余地はない。また、文字を読むことが想像力の使用を不可欠にするのであれば、創造において想像力が働いているかどうかはどうでもいいことになる。服部達は辻褄合わせのために次のようなことまで言わねばならなかった。

  ひとはあるいは言うであろう、われわれが眼前にある一本の樹を見て、それを美しいと感ずるとき、そこには現実的知覚が働いていると同時に、美意識が入りこんでいるのではないか、と。しかし、この疑問への解答は簡単である。一本の樹を見て、それを美しいと感ずるとき、ひとはじつは、眼前にあるその樹自体のみを感じているのではない。彼の内心には、その樹の印象によって触発された、無数の他の樹の思い出がひしめきあっている。それらの樹々を、彼は無意識のうちに比較し、その間におのずから形成される、樹の美しさに関する理想像をもって、眼前に存在する樹の姿を判断しているのである。

 樹の美しさなどというものはない、美しい樹があるだけだ、と小林秀雄とともに言いたくなる。樹という範疇があって、そこに「樹の美しさ」という性質の序列が付け加えられるのだろうか。それとも、美という範疇があって、そこでは美しい樹と美しい空が美しいという点において一緒になるのだろうか。第一、樹という範疇はどのようにして形成されるのか。喬木もあれば灌木もあり、針葉樹もあれば広葉樹もあり、常緑樹もあれば落葉樹もある。ただし、樹ならまだ分かりやすい。一体私たちは事物の美しさを感じるためには分類学に長じていなければならないのだろうか。あるいは、初めて見たものを美しいと思うとき、私たちは比較すべきどんな思い出を持っているというのだろうか。

 さらに、今まで見たうちで一番美しいと感じるとき、「理想像」が過去の経験から形成されているなら、それは越えられてしまっていて何の役にも立っていないだろう。それとも、「理想像」は現実を超越しているのだろうか。とすれば、その由来は現実以外のところに求めねばならないだろう。

 文学のための想像力が、想像力のための文学となる。文学を基礎づけるはずのものが、自分自身を基礎づけるために文学をゆがめる。

 奥野健男が昭和十年前後の文学に注目するのは、彼自身が考えている以上に理由のあることである。「今日と昭和十年代とが共通しているというのは、社会的政治的状況が似通っているというのではなく、文学者の追求している課題に方法意識に共通性がある」(「昭和十年代文学とは何か?」)からと彼は言うが、むしろ、彼の発想パターンが昭和十年前後の評論と相似なのである。つまり、前近代から近代への移行がまだ課題とされているうちに、現代という同時性がその課題を不妊にした(あるいは二重にした)という認識である。「彼ら(昭和十年代作家、引用者注)‥‥は、日本人の精神風土と、世界的な近代崩壊の二つから挟撃された」(『現代文学の基軸』)。同じような状況は「今日」にも見られる。

 現代社会は、十九世紀的思考による歴史的必然につらぬかれている世界ではなく、歴史的偶然に、予測できない事故に満ちている世界なのだ。世界は個人の内的精神にかかわりない動きをしめす。成立していた内部世界と外部との照応はなくなり、深い断絶が生じた。

 「偶然」や「事故」というお馴染みの言葉が使われている。ところで、この文章で疑問に思えるのは、「十九世紀的思考」が「歴史的必然につらぬかれている世界」を構成しているように読め、それならば、「歴史的偶然に、予測できない事故に満ちている世界」は思考が世界を構成することができなくなったことの結果なのか、つまりは現実の変化ではなく思考の変化が問題となるのか、という点である。妥当な読み方としては、十九世紀は「歴史的必然につらぬかれている世界」であり、それに対応して「十九世紀的思考」が成立したが、現代世界は「歴史的偶然に、予測できない事故に満ちている世界」なので、それに対応した思考が必要となる、ということだろう。だとすれば、そこに日本の特殊性問題はなく、世界的共通性があるのみではないか。そこで、奥野健男は一方で日本の後進国性が「歴史的必然」的思考を成立させたとみなすなのだ。

 今までの日本は後進社会であった。未来の方向はつねに西欧先進国の手本があった。(中略)日本人は何も自分で考える必要はなかった。ただ先進国のやり方をトレースして行けばよかった。

 日本の後進国性が「歴史的必然につらぬかれている世界」という思考を成立させているなら、それは「後進国的思考」と呼ばれるのが妥当であろう。とすれば、日本は「十九世紀的思考」と「後進国思考」という二重の決定論に陥っているのだろうか。この決定論の過剰は次のような事情による。日本が決定論的思考に捕らわれているとすれば、その理由として二つのことが考えられる。一つは、日本が遅れていて、いまだに決定論的世界を脱しきれていないから、思考もその段階にとどまっているというもの。だとすれば、思考は世界と調和しているので、思考の遅れが責められる筋合いはないことになる。もう一つは、日本は現代という同時的世界に到達しているが、思考はまだ遅れていて決定論的であるというもの。奥野健男は後者の立場を取るが、ではなぜ思考が世界の変化に対応できないかという理由として、後進国性を持ち出すのである。彼の言いたいことを妥当な形で解釈するとすれば、決定論は現代に通用しない古い(十九世紀的)思考だが、その古い思考が現代の日本に通用するという錯誤の原因は、後進国性によって身に着いた決定論から抜けきれないからである、ということだろう。

 そもそも「十九世紀的思考による歴史的必然につらぬかれている世界」というのは、奥野健男がマルクス主義的世界観を批判するためのものであった。しかし、彼の考えには、思考(上部構造)は時代(下部構造)に対応するが、一方でその保守性(イデオロギー性)により現実の変化と齟齬をきたすという唯物論的な背景がうかがわれるのだ。社会と思考の関係(何らかの相関があるのか、相互独立なのか)については、彼は非マルクス主義的というのではなく、あいまいのままである。現代において「内部世界と外部」との間に「深い断絶が生じた」のは、思考というものが原理的に偶然的世界を把握できないためなのか(ただし、把握できないことは理解している)、あるいは、偶然的世界を把握する思考形態がまだ確立されていないのか、どちらなのだろう。前者だとしたら、思考というのは決定論的世界になじむものだということになりそうだ。

 一方で、奥野健男は、「文学者はその作品世界においては、あらゆる現実から自由であり、想像力と表現によりあらゆる実験を行う権利がある」と言って、文学的思考の自由性を主張するのである。「精神の自由な活動にあふれている点」を推奨し、「タブーにとらわれている」精神を排すことと、世界が「偶然」と「事故」に満ちていることが対応するのだろうか。「内部世界と外部との照応はなくなり、深い断絶が生じた」ことが、思考に自由を与えることになるのだろうか。

 奥野健男が主張するように、「予定された未来、既知の未来のない世界」「まだ経験したことのない未知の状況」というのは、現代だけの特徴なのだろうか。私には、過去のあらゆる時代、あらゆる世界はそうであったとしか思えない。だから、そのような世界や状況に対応できるのは「現代」文学だけというのは理解しがたいのである。

 服部達と奥野健男の親近性を指摘するのはたやすい。奥野健男自身「純文学は可能か」(『文学は可能か』昭和二十九年)の中で、服部達の「現代人の疎外」への共感を示している。服部達の排そうとした六種類の批評のうち、四種(私生活批評・マルキシズム批評・自然主義批評・近代主義批評)は奥野健男もそれに同意するだろう。特に、両者とも中村光夫を近代主義者として批判している点は注目すべきである。

 それゆえ、二人の落ち込んでしまったところも同じである。彼らは論敵の方法の無効性を客観状況(「近代とははっきり別の時代である現代」)によって立証しようとするのだが、彼らの方法を展開しようとするときにはそれが今度は彼ら自身に桎梏となるのだ。なぜなら、彼らが批判しようとしたのは客観状況への信頼に基づく方法(リアリズム)に他ならないからである。

 この辺りは錯綜している。彼らがリアリズムを批判したのは、リアリズムでは現代は描けないという点においてであった。つまり、リアリズムが現実を描くことを掲げているので、その実効性を問題視したわけである。ところが、そこから必然的に彼らの提出する代替的方法は、現代を描ける方法になってしまう。どんなに新しい方法であれ、それが現実を描くのであればリアリズムに他ならないのではないか。

 しかし、彼らが本当に提出したかったのは、リアリズムではない方法である。彼らは作戦を誤っているのだ。リアリズムの基準(現実を描く)で判断しようとすれば、勝ち残るのはリアリズムでしかない。奥野健男自身の言葉を借りれば、「ある既成の概念や秩序に反抗し、それを破壊しようとする時、その反抗や破壊はどうもその反抗しようとする既成の概念や秩序の型をとるものらしい」(「快感原則による文学」『文学は可能か』)。

 彼らの取るべき道は二つしかない。一つは、リアリズムは現実を描いていることを認めたうえで、現実を描かない方法を主張すること。もう一つは、従来のリアリズムでは現実が描けていないと批判して、新しいリアリズムを主張すること。反リアリズムを提唱しながらリアリズムでは現実が描けていないと批判すると、困ったことになる。その場合、リアリズムを反リアリズムとして認めなければならなくなるからだ。

 そこで彼らは二つの態度の間を揺れ動く。「現代人の疎外」と「われらにとって美は存在するか」を結びつけるのが「ルポルタージュ文学論」という弱い環でしかない。服部達にとって想像力は非在に関わるものであるから、存在としての現代に結びつかないのだ。『文学は可能か』は、現実を描くこと(「現代社会の全体像をとらえる」)から出発し、現実を描かないこと(「自己表出」)を結論とする。この動揺は『現代文学の基軸』にも引き継がれる。「新しい方法、発想で現代の状況を反映させている作品」の評価から出発し、次のような主張で終る。

 つまり純文学の価値は、純文学作品からのみ受ける文学的感動は、方法や発想の新らしさ自体にあるのではなく、それを産み出すときの作家の精神の緊張、速さ、力によっているのだ。(「現代の純文学とは何か」)

 つまり、「新らしさ」は現実の新しさ(現代性)から切り離されて、作家の主体性にのみ関わるものになる(もっとも、「現代の純文学とは何か」の中だけでさえ、この動揺が見られるのだが)。結局、奥野健男には「新らしさ」だけが残されることになる。基準が新しさにあるなら後から来た者が勝つにきまっている。そこで、現実の流れを常に追い回すことになってしまうのだ。現実に一喜一憂する振幅の細かさは、『現代文学の基軸』の最初と最後の章を比べてみればよく分かる。

 リアリズム一般を批判するためには、その主張(作品解釈)と実際(作品)のどちらかを拒否し、どちらかを受け入れねばならない。作品を拒否するためには、その主張が実現されていない(現実が描けていない)と言わねばならず、つまり、主張は認めなければならない。主張を拒否する(主体の介入しない現実描写は不可能だから)なら、作品は認めねばならない(作品の成立においてリアリズムが実現することはあり得ないのだから)。それゆえ、リアリズム的批評とリアリズム的作品を一括して批判することは出来ない。

 昭和二十五年前後の私小説批判(ニュアンスの違いはあってもリアリズム批判であった)によって「無頼派」が葬り去られたと主張したとき(「無頼派と戦後派の断絶」)、奥野健男は当の批判の対象となった私小説をも救い出すべきであった。なぜなら、もし私小説が批判されるべきなら、その理由は、封建的であるからでも、非西欧的であるからでも、非近代的であるからでもなく、ただ文学的に劣っているからであるべきなのだから。ここでも奥野健男は「現代的」という時間軸にこだわって、私小説を(おそらく)遅れた部分に放り込んでしまったのだ。

 まさに、私小説こそ躓きの石である。服部達は、私小説にも西欧の想像力小説(?)と同じように美意識は働いているはずだと着眼しながら、「自我の観念の固有性」などという文学外の要因でその特殊性を規定してしまった。次に述べる饗庭孝男もそうなのだが、どうしてみなこのように型通りに私小説を否定してはばからないのだろう。小林秀雄が私小説は封建文学だと言いきったとき、このようなコースが定まったのだろうか。思えば「私小説論」とは罪深い文章である。

 饗庭孝男は「反歴史主義の文学」(『反歴史主義の文学』昭和四十七年)の中で、近代とは異なった時代としての現代について語っている(近代の反措定として、現代と中世に類似を見るが、このアナロジーをつきつめるのは――賢明にも――避けている)。

 われわれにはもはや、生の統一的感情を支える普遍的原理も、絶対的価値も、歴史の連続性に対する信仰も存在しない。

 われわれは「歴史」についても「時間」についても、もはや明瞭なイメージを結ぶことはできない。

 このように、今(現代)と以前(近代)の違いが強調される。この違いは「状況」の反映である。

 「非連続」は歴史に対してと同じ横の人間関係においてもあらわれているということができる。それはまた、価値体系から存在が切りはなされることであり、換言するならば因果関係から切りはなされることによって、存在が「偶然」的なものでしかなくなったということである。これがわれわれの生きている状況である。

 またしても「偶然」である。ただし、饗庭孝男は服部達や奥野健男のようなヘマはしない。彼ははっきりと「現実の認識」について語る。現代の「輪郭のない現実」の前でリアリズムは無効である。そこから彼は「自己表白」(奥野健男)や「想像力」(服部達)の有効性を導き出してくるのだ。少し長いが要点を引用する。

 その意味からも、われわれは今日、対応物をなくした言語を手にしていると私は考える。われわれはそうした言語を変革しながら、存在や事物をふたたび呼ばなければならないのである。言語は存在の器であるが、またそれら自身生きてもいる。だがこの言語は対応物をなくすることによって病んでいるということができるのだ。言語の死は極端にいって存在や事物の死に外ならない。われわれはこうした現実を前にして、さながら無からつくり出すように存在を呼び、新しい黙契を存在の間につくりださねばならない。言語によって存在を呼び、そうすることによって存在を時間の腐食と死の彼方へおかねばならない。(「反歴史主義の文学」)

 ところで人間存在が、もはや均質な時間の連続性のなかで統一的な意味をもたず、しかも人格存在よりも意識存在としてデカルト的な意味での主体の明確性をもちえない時、存在意識は前述した瞬間の存在体験とともに、イマージュの表現行為が存在を創造するような現象学的存在意識とも重なりあうようになってきた。かつての「本質」の概念が次第に人間認識の分野からうしなわれてゆくのにかわって、「不安」の概念が力動的な形であらわれ「実存」が「本質」を形成するという考えが、現象学的な見地から考えられるようになった時、イマージュの概念が存在論的な色彩をおびてあらわになったのであった。(「現代文学にとって批評とは何か」)

 そこで、問題は「存在論」上のこととなる(状況と方法の対応についても納得いかないところはあるが、検討は省く)。饗庭孝男が近代と現代の区別のメルクマールとしているのは、歴史の連続性・不連続性である。これはあくまで思考の相違であって、対象の相違ではない。饗庭孝男のいう状況(現実)とはイデオロギー状況に等しい。より適切には、饗庭孝男における状況と主体、思考と対象は未分化である。彼の意図はそこにあるのかもしれないが、明らかに混乱がある。近代を特徴づけるものは「ヒューマニズムであり、歴史主義であり、その根底にある合理主義的思惟」である。しかし、現代においては「価値体系の崩壊と歴史主義の終焉が、生における無意味と『非連続』と『偶然』を生んでいる(中略)こうしたものがヒューマニズムの幻想の醒めたところにあらわれた」。一つの思考(歴史主義)に支えられた秩序が崩壊した、新たな思考(反歴史主義)による秩序が打ち立てられなければならない、というのが饗庭孝男の主張らしい。繰り返すが、この変化は思考上のことであり、その必然性はそれ自身によってしか支えられない。思考の変化は独立した現象である、というのも一つの立場だし、扱う範囲を思考の変化に限っているのだ、というのもまた一つの立場である。そこにおける優劣や妥当性の差は、思考以外の、たとえば対象などを基準にして計ることはできない。ただし、彼にはその自覚はない。

 さて、饗庭孝男は思考(特に時間について)の違いを現す言葉として、次のようなセットを示す。

   歴史主義   と    反歴史主義

   連続性    と    非連続

   均質性    と    繰り返し・細分化(瞬間)

 これは奇妙なセットである。たとえば、時間の均質性とは何だろうか。均質的な時間が物理的科学的な時間を意味するなら、それに対立するのは意識としての時間だろう。だが、歴史主義が物理的科学的な時間を主張したりするだろうか。歴史主義は時間そのもの形態についてとやかく言うのではなく、時間の不可逆性、事象の二度と起こりえぬ性質を強調する。その意味で、物理的科学的な時間における現象の循環(繰り返し可能)性とは対立する。もし、時間の均質性をこの循環性ととるならば、歴史主義の発展的な時間はその反措定である。

 あるいは、時間の非連続性とは何だろうか。時間を瞬間に細分化してしまえば連続性が失われるのは当然である。しかし、それは時間に関する一つの(誤った)考え方であって、実際の時間の操作ではない。非連続的時間などが目指されているのではなくて、時間を説明しようとして失敗したにすぎない。

 ここには三つの次元の異なる思考の対立がゴチャマゼにされているのだ。それらの相互関連は単純ではない。

   歴史主義(発展性)  と  循環性

   物理的科学的時間   と  意識された時間

   連続         と  連続の不可能性

 饗庭孝男の言う反歴史主義は、現象学的な意識された時間を中核にし、物理的科学的時間=均質=連続=歴史主義=必然的発展論というあやふやな連鎖に対抗して非連続と結びつく。一方、歴史主義の反措定としての循環性には二つの側面がある。一つは歴史に対する構造としての側面(たとえば、歴史派経済学に対する古典派経済学)。もう一つは、歴史の発展を否定するニヒリズムとしての循環。饗庭孝男はこのニヒリズムとしての循環に反歴史主義を見ているのだろうが、その消極性と意識された時間(生)の積極性とはどう調和するのだろうか。ニヒリズムの「ネガティヴ」な態度から、「時間(死)との闘い」への「アクティヴ」な態度への移行が、反歴史主義の中で達成されるとどうして言えるのだろうか。

 もはや「近代」は「見果てぬ夢」ではなくなっているだろうか。近代化が問題とならなくなったとき(近代化が達成されるか、世界的同時性としての「現代」が「近代」を無意味にするかして)、日本=前近代、西欧=近代という図式は有効性を失うのだろうか。

 そうであるがためには、共時性と通時性の一義的な結びつきは解消されねばならない。つまり、日本=後進社会=前近代、西欧=先進社会=近代という図式が訂正されねばならない。ところが、論争の過程で明らかにされるのは同じ構造なのだ。論者は自らの近代性(ないし現代性)を誇示するあまり、論敵に後進性を見出してしまうのである。遅れた部分を存在させる限り、通時性と共時性の区別はつけられない。

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