不器用な遺伝子とツギハギなヒト
序
「私たちが現にあるようであるのはなぜなのか」という問いに対しては、遠い過去から今にいたるまで様々な解明の努力がなされてきました。どのような分野においてどのような方針で取り組みがなされるかによって、いろいろな見解が提示されています。その中で、利己的な遺伝子による説明は一つの画期をなしたのではないでしょうか。
ただし、そういう私の判断は一般的ではないようです。強硬に反対する人はさほど多くはないでしょうが、信じかねたり、疑問を呈する人は少ないとは言えないでしょう。一般的と思われるのは、そういう説もあるのかと棚上げしてしまう態度です。
利己的遺伝子論が嫌われるのは、利己性が嫌われるているからであり、自分が嫌われ者であることを納得して受け入れるのは自分自身の否定となってしまうからと思われます。むろん、自分自身に利己的な面があるのは誰しもが認めることです。しかし、利他的な行動も見られるのは事実です。大多数の人は、人間には天使的な面と悪魔的な面があるということで納得し、それ以上は実践的な問題であると保留してしまっているようです。
日本において利己的遺伝子論があまり受け入れられなかったことは他にも理由があるようです。明治維新以降、日本はヨーロッパの文化を熱心に学びましたが、社会思想に関してはドイツを主とする大陸系を重んじ、英米系はあまり関心を持たれませんでした。その理由の一つが、英米系思想が持つ利己性への許容的態度への反感だと思われます。利己性は否定されるべきものという伝統は日本においても根強かったのです。
古典的な例としてアダム・スムスの場合を見てみましょう。彼は経済学を基礎づけた一人であると同時に、道徳感情論というイギリス思想の系譜に連なる人です。大陸の合理論に対して、イギリスには経験論の伝統がありました。ですから、人間行動の解釈においては、どちらかというと思考よりも心情を重視します。経済行動における利己心に融和的なのはその一例です。
道徳感情論とは、感情という人間の本質的な属性によって道徳を説明しようとする思想です。感情は主観的なものですが、共感によって他者と結びつくことができると考えたのです。しかし、スミスは感情という頼りないものだけでは道徳を支えることができないと考え、評判(他人の評価)というものを持ち出してきます。よい評判ははその人にとっていろいろ有利な結果をもたらすから、人はよい行動によってよい評判を得ようとするであろう、というわけです。けれども、評判を気にするというのはいかにも機会主義的で、道徳としては物足りません。スミスもそのことを気にして、自分自身の中に客観的な評価者を持つようにすることで、評判の浮動的で利己的な性格を削ろうとしました。しかし、客観的な評価者とは理念のようなものとみなされるしかなく、結果としてドイツ観念論に近づいてしまったのですが。
イギリス経験論の伝統はその後も引き継がれており、大陸でも経験論に親和的な論理実証主義が勃興して大きな影響を与えました。この系統の人々は利己性について次のように主張します。人間が自分のことを第一に考えるのは当然であって、それだけでは利己的であるとみなすことはできません。利己的であると非難されるべきなのは、自己利益の追求が他者に損失を与える場合です。他者に損失を与えない自己利益の追求は利己的とはいえません。それゆえ、社会的に抑止されねばならないのは、この意味での利己性なのです。
この考えによれば、他者の利益のために自己の損失を受入れるという意味での利他性は社会から求められることはありません。利他的であることは自由ですが、それが奨励されることはないのです。
このような自由主義的な考えについてはいろいろ議論がありますが、私はおおむね同調しています。しかし、自分のことを第一に考える人間がなぜ利他行動をすることがあるのかという疑問が残ります。それが喜びであるからというのは答えになっていません。自己の損失を受け入れてまで他者の利益を図ることがなぜ自分のことを第一に考えることになるのかが不可解なままだからです。
客観的な評価者とは遺伝子のことである、とスミスに告げたら彼はどう反応したでしょう。利己性という帽子から利他性というウサギを取り出す論理的手品の種は遺伝子である、というのが遺伝的進化論の主張です。私はその主張をおおむね受け入れています。つまり、私たちの利他性は利己的な遺伝子の戦略の一つであるということです。
そこで、遺伝子の利己性から私たちの利他性に到るまでの道筋を考えてみたいと思います。その道程は複雑であり、不明な点も多くあります。それでも、進む価値のある道であることは間違いないでしょう。
1 私たちと遺伝子
私たちが自らをかえりみるとき、「私たちはどうしてこのようであるのか」という謎がいくつもあります。その謎は遺伝子を介在させることで説明がつくことが多いのです。例えば、次のようなことです。
(1)人はなぜ過去や未来にこだわるのか
『人を動かす』(1936年)という著書で有名なデール・カーネギーは、『道は開ける』(1948年)という本も書いていますが、この中で述べられているのは「過去や未来についてくよくよするな」ということです。済んでしまった過去も不確かな未来も思い悩んだところでどうすることもできないのだから、今だけに集中して生きろ、というのがカーネギーの勧める処世訓です。本の中ではその成功例をいろいろあげています。
カーネギーの正しいことは私たちも承知しています。できれば私たちもそういう境地に達したいのですが、それができないからこそ、この種の助言が繰り返されるのでしょう。
しかし、過去や未来を無視して現在のことだけに集中することが成功に導くならば、進化論的に考えて、人間はそういう風になっているはずです。むしろ、過去や未来を視野に入れることで、人間は現在という桎梏から解放されて自由を獲得したのではないでしょうか。人間が過去や未来を考慮するようになっていることは、そうすることが無駄ではなかったことの証です。現に、過去を教訓としたり、将来に備えたりして成功した人も多くいるはずです。カーネギーは説教師のやり方で真理の半分だけを強調しているのであって、要は、過去や未来について過度に思い悩むな、ということに過ぎません。
私たちが自分自身を完全にコントロールできるのなら、無駄だと思ったことはやめられるはずです。しかし、そうはいかないことを私たちは経験しています。ということは、私たちがコントロールできる範囲は限られているということなのでしょう。実際、私たちは私たち自身の様々な動きに悩まされています。感覚はもちろんのこと、欲求、欲望、衝動、感情、気分などは私たちのあずかり知らぬところで作り出されているようです。たとえて言えば、私たちは暴れ牛の背中に乗っているようなものです。賢人たちは、この暴れ牛を馴致することや、それができそうもなければ縁を切ることを勧めます。
しかし、私たちを悩ませるだけにすぎないのであれば、なぜそのよう暴れ牛を私たちは飼っているのでしょうか。いまあるものは何かの役に立っているからあるのだという考え(機能主義)が進化論には含まれています。だとすれば、そのような暴れ牛にも、私たちには知らされてはいないけれど、何らかの機能があるはずです。後悔(反省)や惑い(予想)についても同じことが言えるでしょうか。
もし、過去の反省や将来の選択が、操作可能な知的な作業であるならば、私たちの自由になるのではないでしょうか。その使い方を誤らなければ、それらに悩まされることはないはずです。私たちは知的な作業の限界や危険性を承知しています。知り得ることは限られていますので、あるところからは堂々巡りになってしまいがちです。また、考えることは行動を遅らせ、あるいは妨げてしまう可能性が大きいのです。「案ずるより産むが易し」と言われるゆえんです。ですから、考えを適切な段階で終わらせることは機能的な対処法でもあるのです。
ところがそれが難しいのです。私たちは考えるのをやめようとしてもできないのです。どうしても考えてしまうのです。後悔(反省)や惑い(予想)を私たちに備わった機能とみなせば、私たちは機能の過度な遂行に悩まされているのです。まさに「過ぎたるは及ばざるがごとし」なのです。
このことは、後悔や惑いが「自動的」に起こることを示しています。私たちには関わりなしに、いわば勝手に起こる反応なのです。私たち自身が私たちの知りえない私たち自身のメカニズムに支配されているのです。しかも、そのメカニズムは、ある視点からは合理的と判断されるものなのです(なぜそんなことになっているのかは後で検討しましょう)。
さて、私たちが心の平安を得るためにそれほど苦労せねばならないということは、私たちに真に求められているのがそういった幸福な状態ではないということを現しているのではないでしょうか。言い換えれば、上述のメカニズムが存在するのは、私たちの幸福な状態を保つためではないということになります。
たとえ話をしてみましょう。ある神がいたとします。この神は人間の心の平安については無関心で、神の目的のためなら人間が苦しもうが悩もうが放っておきます。神の目的は人間の幸せではなく、人間を従わせることです。目的の達成に必要なら、人間が苦しみ悩むことは彼にとって好ましいことなのです。
このたとえ話で言いたかったのは、私たちが幸福であるということは、私たちを作った者によっては予定も保証もされていないかもしれないということです。
もうお分かりでしょうが、この神とは遺伝子のことです(遺伝子を擬人化するのは、あくまで説明と理解のための簡便法として有効であるからですが)。遺伝子の目的は自分自身をコピーすることです。ですから、私たちが、幸福であろうとするゆえに生存や生殖をうまくやっていけそうにないならば、私たちが不幸であっても生存や生殖をうまくやっていける方を遺伝子は望むでしょう。その方がコピーを残す確率が高いのであるならば。
(2)遺伝子との齟齬
しかし、遺伝子は上述の冷酷で不器用な神と同じなのではありません。遺伝子の目的が私たちを幸福にすることではないとしても、私たちが幸福(あるいはそれに似たもの)を獲得することが遺伝子の目的の実現に寄与するのであれば、遺伝子の目的と私たちの幸福が一致してもおかしくはありません。本来はそうあるべきでしょうし、遺伝子の目的もそこにあるはずです。しかし、遺伝子の目的と私たちの望みは乖離しがちです。なぜそのようなことが起こるのでしょうか。二つの理由が考えられます。
一つは、遺伝子が私たちをコントロールする手段として報酬を使っていることです。報酬については後で検討しますが、私たちがある行動をするのはその行動が報酬づけられているからとみなすことができます。誤解のある言い方ですが、よく使われている「快」という言葉だと分かりやすいでしょう。極端な言い方をすれば、私たちがある行動をするのは、その行動のもたらす結果を期待しているのではなく、行動そのものが報酬となっているからです。
私たちが行動するのは、その行動が報酬づけられているからだ、という言い方は同義反復的であるかもしれませんが、脳研究が実質的な内容を与えてくれるでしょう。
遺伝子は私たちを支配していますが、遠い過去から腕を延ばしているので、私たちをつかみ損ねることがあるのです。遺伝子が私たちを操作する方法はいわばクレーンゲームのように不器用なのです。より適切なたとえとして、遠く離れた海外支社の従業員たちと本社の幹部との関係があげられるでしょう。支店の従業員たちを意のままに動かす手段として、現地の銀行に給与などの資金が振り込まれます。本社の指令に従って働けば支社の従業員は報酬が得られので、本社と支社の利害は一致するはずです。従業員たちは本社の意を呈して働くことになるのですが、しかし、ときには怠けたり、横領したりすることもあります。本社のコントロールは完全には及ばないのです。
遺伝子が私たちに報酬を与えて何かをさせようとするとき、私たちが求めるのは報酬の方です。報酬が与えられる行動はおおむね遺伝子の目的に沿っています。ただし、私たちが報酬を過度に求めて、目的達成には不必要までに行動を追及するとき、遺伝子と私たちの利益は相反します。そのずれがあることが、私たちが独自の幸福を求めることの根拠となります。
もう一つの理由は、私たちを構成するシステムが複雑であることです。進化の過程において、私たちには様々な機能がつけ加わりました。しかし、新たな機能の獲得は、それ以前の機能を解消ないし再編して統合していくというやり方ではありませんでした。それまでの機能に重なるようにして新たな機能が追加されるのです。部分的・追加的な改良の積み重ねが進化の過程なのです。極端な言い方をすれば、ツギハギなのです。それぞれの機能が適切に連携しあうのを保証するのは、その連携がまあまあうまくいってきたという実績によるものです。うまくいかなかった個体は子孫を残せなかったのですから。
分権的な主体ともいえる各機能はそれぞれの役割を追及します。各機能の調整のための機能というものも考えられますが、それも機能の一つとして追加的に獲得されることになるので、絶対的権限をもつのではなさそうです。ある分野、ある状況によって機能は住み分けているという形でゆるい統合がなされていると考えられます。
理解しやすいように、再びたとえによる説明をしてみましょう。遺伝子を玉突きのプレイヤーとしてみましょう。個々の私たちはいくつかの玉の配置によって構成されています。遺伝子はそのうちの一つを突き、適当な球がその動きを伝達しあって目的のポケットに入ることを目指します。しかし、球はプレイヤーの意図や予想に忠実には動きません。微妙なずれによって方向が狂ってしまいます。ただし、全然それてしまうのではありません。遺伝子の意図と全く異なる動きをする個体は子孫を残せないでしょう。私たちは遺伝子にとってまあまあの動きをしますが、遺伝子はその動きを直接的にコントロールしてはいないということです。あらかじめプログラミングはしますが、具体的な動きは私たちに任せざるを得ないのです。
私たちのシステムのこの複雑さが様々な可能性をもたらしてしまい、プログラムの実行において結果に幅ができてしまうのでしょう。もちろん、進化はミスをゆるしてくれませんから極端な変異は事後的に排除されるでしょうが、変異の発生は事前的には防げません。生存と生殖さえ何とかできるのであれば、許容される変異が残るでしょう。
私たちの機能にはいわば地層のように時系列的な関係があります。その発生の順序をたどっていくことが私たち自身を理解する手がかりとなります。
2 遺伝子と報酬
(1)遺伝子の支配
私たちは遺伝子によって作りだされ、そして支配されている。体ばかりではなく心も――そういう見解が当たり前になっています。そうだとするなら、私たちが自分は自由であると思っているのは幻想なのでしょうか。
遺伝子と私たちの行動を結びつける過程については、私たちの知識はまだまだ不十分です。それを承知のうえで、遺伝子と私たちの関係を推察してみるならば、次のようになるでしょう。
遺伝子と私たちは一体ではありません。遺伝子は私たちを道具として支配しようとしていますが、私たちの方は遺伝子の思惑通りには従っていないのです。両者の利害は異なっています――少なくともずれています。
典型的な例をあげてみましょう。私たちが性行動に執着するのは、自らのコピーを継承するという遺伝子の目的にかなっています。私たちをそのようにしたのは遺伝子です。その点では、私たちは遺伝子の道具であり、両者の利害は一致し、両者は一体化しているといえます。しかし、私たちは避妊という手段を使うことで性交を単に楽しむものにすることができます。また、マスタベーションという単純な方法さえ見つけています。そのような場合には、私たちが性的に満足することが生殖には結びつかず、遺伝子の意図は達成されません。遺伝子は私たちを生殖に駆り立てるために性交の快楽を与えたのですが、性交の快楽が必ず生殖に結びつくようにはできませんでした。性交の快楽を与えられた私たちは純粋に自らの満足のみを追求することもできるのです。
遺伝子はそんなことを予測できませんでした。性交は有性生殖の過程として必然的に発生しました。性交と生殖を切り離しえないようにすることなど、進化的には必要なかったのです。性交さえなされれば、あとは自動的な過程として生殖に至るのですから。それゆえ、性交に強い誘因をあたえておけば済むことだったのです。むしろ、そうでなければならなかったでしょう。もし、生殖の重要さを知性によって理解し実行するように遺伝子が私たちを作っていたならば(そして性交に何の満足もないならば)、数世代も経ぬうちに私たちは滅びていたでしょう。
むろん、遺伝子が私たちを作り、支配しているというのはたとえ話です。もう少し適切に言い換えるなら、後の世代を作ることに成功するような形態を持ち、行動ができる個体が選択によって選ばれるのです。遺伝子の変異による個体の形態と行動の変化が選択にさらされた結果、私たちはいまのようになったのです(形態についてはここでは取り上げませんが)。
ただし、性行動は、摂食行動とともに特殊な例です。それらは生存と生殖に直接結びつているので強い感覚刺激が伴っています。すべての行動に同様な刺激があったとしたら、私たちは何をすべきか迷ってしまい、性行動や摂食行動をおろそかにしてしまうでしょう。依存症というのがそのことを例示しています。遺伝子が私たちに行動を促すために与えたのは多様で段階的な動因なのです。
私たちがある行動をするのは、その行動が好ましいからです。好ましいという言い方は正確ではなく、定義の仕方はいろいろあるでしょうが、とにかく、そういう行動が「したいこと」として備わった個体が生きのび、そのような個体を形成する遺伝子が継承されてきたのです。遺伝子はこのようにして私たちの行動をプログラミングしているのです。ですから、遺伝子と私たちの行動をつなげているのは「したいこと」という緩い結びつきなのでする。
私たちの行動は遺伝子の目的に適するように形成されてきたのですが、遺伝子の目的そのものは私たちの直接の目的ではないのです。私たちは遺伝子とは異なった目的によって行動し、その結果が遺伝子の目的とほぼ合致するのです。いわば、遺伝子のつりさげた人参を欲して私たちは動くのですが、私たちに人参を得させることそのものが遺伝子の目的ではありません。遺伝子と私たちの一体性は間接的なのです。
この「人参」を「報酬」と呼ぶことにしたいと思います。似たような概念として「快」がよく使われますが、快として感じられるものに限定せずに、より広い意味での誘因として報酬という言葉を使うことにします。
(2)行動と報酬
遺伝子と私たちの行動の関係をより詳しく分析することを試みてみましょう。ここでは遺伝子に意図や意志があるように取り扱いますが、これは進化における選択によってそのようになったということの簡略話法です。
遺伝子はそれを担う個体に対して、少なくとも生殖の可能な時期までの自己保存と、生殖による遺伝子の継承を望みます。しかし、遺伝子は直接(あるいは事前に)個体の行動を最適化するのではありません。個体が適切な行動をなせるのは事後的な選択によってです。つまり、遺伝子の継承にとって有利な行動をする個体が選択されるということです。遺伝子は行動のメカニズムを私たちに組み込みますが、その性能にばらつきがあることが選択を可能にします。
個体、すなわち私たちは行動の好ましさ(したいこと)に反応します。「好む」というのはあいまいな定義ですが、楽しく、快であり、また、そうせざるを得ないもの、動因、誘因、動機といった広範な心理的作用を含めています。
好ましい行動とは、個体には何らかの報酬をもたらし、遺伝子には有利になる行動です。個体が行動するときには、遺伝子のためということを認識してはいません。個体が目指すのは行動の好ましさのゆえであり、その結果が自己の遺伝子にどのように影響を及ぼすかについては無知です。このことが事態を複雑にしています。個体は遺伝子の「意志」とは関係なく、個体自身の利益を求めようとします(そういう行動を遺伝子がプログラミングしているということです)。
したがって、その結果が遺伝子にとってどのような意味を持つのかを私たちが認識できないということは、私たちの行動には関係ありません。ただし、遺伝子の意図を知ることができれば、そのことは行動に影響を与えるでしょうが、それは必ずしも遺伝子の意図に沿うような行動に導くわけではないでしょう。
以上のことは既に述べたことの再確認です。しかし、ここには問題が潜んでいます。行動によって報酬が得られるのであれば、行動がなされる前にはまだ報酬は得られていないわけです。報酬が得られるであろうという期待には何らかの根拠はあるでしょうが、それが報酬を保証するわけではありません。それなのになぜ行動は可能なのでしょうか。
まず、行動とはどのようなプロセスなのかを検討してみましょう。行動は三つの部分に分けて考えることができるでしょう。まず、特定の行動を好ましいと判断する「期待」の段階です。ここから次の段階に進むかどうかの判断が介入することにより、この段階でプロセスが終わってしまうことがあります。次に、行動が「実行」されます。行動の結果を得るための段階です。結果の獲得に成功することも失敗することもあります。失敗すればこの段階でプロセスは終了します。最後に「結果の享受」があります。享受に満足することもあり、不満や失望を感じることもあります。この三つのプロセスについてそれぞれ考えてみます。
行動がなされるには、その行動によって得られるモノなり状態が好ましいということの認識が必要です。あるいは、個体のある種の状態(たとえば欠乏)がある行動を促しているということも考えられます。それらがトリガーとなって、現状よりもよい状態を期待して行動が実行されることになります。この期待というのがどう解釈されるべきでしょうか。
期待という日本語には望むという意味が含まれるので、望ましくない結果を「期待」するという使い方はしません。より中立的な言葉として予測とか予期があります。もし望ましくない結果が予期されるなら、私たちはそれを忌避するでしょう。その場合、怖れや不安や警戒などの状態が起こります。そのことについては後で検討しましょう。
期待のうちで原初的で強力なものとして衝動や欲望があげられます。これらはある特定の行動の結果を享受することが報酬であるということを示しているようです。しかも、単に認知するというのではなく、先取り的な疑似経験のような状態と言えます。つまり、結果の享受という報酬が反映されています。期待すること自体が報酬になっているのです。
環境の制約や行動能力の制限があれば、切迫度の高い行動に専念する必要があります。しかし、環境の変化や拡大に対応する能力の向上によって、いろいろな行動が人間には可能になっていったと考えられます。切迫度の高い行動は残りますが、それが全てではなくなります。衝動、欲望、欲求、願望、嗜好などの違いは、私たちが行動の範囲を拡大していった段階を示しているものと考えられます。
この段階は、期待の種類が増えていく過程でもあります。多様な行動が可能であれば、特定の期待に縛られることなく、選択の可能性が拡大することになります。つまり、複数の期待を比較して最適な行動を選べるようになります。
ところで、期待がすでに前払いとしての報酬を含むのであれば、期待という報酬だけですませ、実行にまで進まないということがあり得るでしょう。後述しますが、実行にはコストがかかります。そして実行は必ずしもよい結果をもたらすわけではありません。実行はリスクを引き受けることなのです。リスクを嫌う傾向のある個体は実行に踏み切れないことがあります。事実、私たちは実行から切り離した期待をもてあそぶことがあります。しかし、そのようなことに捕らわれてしまえば、私たちの生存と生殖のために必要な結果の享受ができなくなり、私たちは生きていけなくなるか、子孫を残せなくなります。期待にのみ淫する個体の遺伝子は滅びるのです。
さて、ある期待が採用されれば、実行が開始されます。実行には苦労(コスト)が伴います。そして、結果の享受という報酬は実行より後に得られます。つまり、実行自体は損失を伴うものです。実行が必ずよい結果をもたらすのであれば、その損失は償われます。しかし、期待されたような結果にならないこともあります。実行がよい結果と結びつかなかったとすれば、次の機会には期待だけでは行動が起こらないかもしれません。実行が報酬をもたらさないことが学習されてしまうからです。
このことを補強する証拠として、行動は孤立したものではなく、いくつかが組み合わさって初めて結果が得られるということがあることがあげられます。
摂食行動や性行動はその実行が結果の享受(感覚刺激という報酬)と結びついているので特殊な例なのですが、それでも飲食や性交にいたるまでの過程が必要です。摂食行動では食べ物を探し、捕まえ、ときには競合者と争わねばならないでしょう。また、性行動には、相手を探す、競争者を排除する、相手を誘い相手の同意を得る、時には強引にせまるといった段階があります。そのような各種の実行がすべて成功するとは限りません。最終的に結果を得るには、無駄に終わるかもしれない実行を繰り返さなければなりません。
性行動について付け加えるなら、性交が実現するだけでは繁殖は保証されません。性交の成功度が高ければ子どもをたくさん残すことにはなるでしょう。しかし、単に多くの子どもを作ることだけでは遺伝子の目的を達したことにはなりません。繁殖に優秀な子どもを残さねばならないのです。子どもが繁殖にうまく成功しなければ、コピーは途絶えてしまうからです。優秀な子どもを残すには苦労がかかります。求愛行動や育児行動もその一つです。それらの苦労を超えるような何かがなければ、私たちはそれを引き受けようとはしないでしょう。
それらの行動を私たちが自由な選択で引き受けているならば、そこに何らかの価値を見出しているからでしょう。それは愛することの喜びであるかもしれませんし、義務を果たすことの満足感かもしれません。しかし、私たちの意思決定というあやふやなものに遺伝子は頼ろうとするでしょうか。
もちろん、子どもが無事に成長するという結果が報酬になっているとも考えられます。しかし、その場合には、望ましい結果が期待できないことが分れば育児は放棄されてしまうことでしょう。そのようなことは現実に起こり得ますが、大部分の親はただ子どもを愛するがゆえに育児を引き受けるのです。親は子どもを愛せざるを得ないのです。子どもへの愛は無償の愛とされますが、それは一方的であるからでもあり、結果を求めないからでもあります。ただし、子どもを愛すること自体が報酬になっているとしたら、その無償性を疑うことになるのですが。
そこで、以下のように考えることができます。実行はその結果がどうであれ実行そのものが報酬でなければならない、ということです。実行の結果がもたらす報酬とは別ものなのです。結果の報酬を伴わなかったとしても、実行それ自体に報酬が与えられるのです。そうでなければ、実行というやってみなければ成否が分からないことがなされることはないでしょう。
実行はそれ自体が報酬でありうるのであって、そこで完結しえるのです。だからこそ実行が求められるのです。ある程度の見込みさえあれば実行はなされねばならないのです。私たちが期待に反応して行動するとき、実行そのものが報酬を保証してくれているのであれば、結果の報酬の確からしさなど気にせずに行動にとりかかることができます。実行そのものに報酬があるのならただ実行すればいいのです。ですから、期待さえ確定すれば、行動は自動的に起こるでしょう。
探したり、誘ったり、追いかけたり、争ったりすること自体に報酬があるのなら、行動の本来の目的と切り離してその実行自体を求めるということもあり得るでしょう。遊びやスポーツの起源がそこにあるのかもしれません。
最後に、結果の享受です。結果の享受には飲食や性交のような感覚刺激を伴うものは少ないでしょう。むしろあることをやり遂げたという達成感のようなものがほとんどです。期待という面から結果の享受の内容をあげてみれば、食欲、性欲(肉欲、愛欲)、所有欲(物欲)、権力欲(支配欲)、知識欲などとなります。なぜある結果が私たちにとって好ましいのかは、私たちにとってはどうでもいいことで、ただ好ましいというだけです。感覚刺激は強い誘因となっていますが、それがなさそうな結果の好ましさについては私たちは無知と言えるでしょう。しかし、遺伝子の観点からは、以下のような理由が考えられます。
私たちは自然からなにがしかの資源を得て、感覚的な快さを得ます。直接的な消費だけでなく、道具とすることで、寒さや暑さから身を守り、安心して眠り、敵を撃退し、清潔にして病気を防ぎます。そのような効果をもたらす道具を持つことは生存を確かにし、繁殖を助けます。所有欲というのはそこから生じてきたと思われます。人間以外の生物では縄張りというのが所有の対象になっているケースが見られます。
人間の特性として集団をなすことがあげられます(人間だけではありませんが)。集団生活に必要なのは社交です。他の人間たちが環境となるのでそれに対処する必要があるのです。場合によっては他人を利用します。この利用は相互的であるのですが、その能力には差があります。他人の利用を積極的にするための期待として、権力欲(支配欲)が生じてきたのでしょう。人間以外の集団をなす生物にも権力や支配が見られます。
多くの情報を得てそれを記憶しておくことは、行動の選択において有効でしょう。私たちが知識を得ようとするのは遺伝子とっても役立つのです。そのため、知識欲は必然的に生じてきたのです。知ることは楽しいのです。
以上のように、期待、実行、結果の享受はいずれも報酬づけられているのです。それゆえ、ときに結果の享受にいたらなくても、あるいは結果が享受するに値いしないものになってしまっても期待と実行は繰り返され、実行がなされないことがあっても期待は生じるのです。
(3)報酬の多重性
ところで、行動の各段階において私たちが報酬を得ていると主張するならば、ある疑問が生じます。私たちは期待の段階や実行の途中で行動を断念することができます。そのような場合に私たちを動かしているのは何なのでしょうか。
行動を考えるとき、発生・発達の順序という考え方をする必要があるでしょう。状況が安定的であり、ある状況にはある行動が必ず結びつくのであれば、状況の認知が即行動のトリガーとなるでしょう。そして、期待と実行の乖離などは起こらないでしょう(実行の失敗はあるとしても)。
既に述べましたが、衝動、欲望、欲求と並べてみると、これは自動性の程度の違いが反映されていることに気づきます。欲求よりも欲望が、欲望よりも衝動が即時的であるようです。これは言葉の使い方でしかないかもしれませんが、なぜこのような序列があるのでしょうか。即時性が薄れるというのは時間的な余裕が生じているからでしょう。もし、するべきことが決まっているのなら早くするのが一番です。目の前にあるものに反応するだけなら迷うことはありません。間が空くというのはためらいがあるからで、ためらいがあるということは選択に迷うからです。つまり、選択肢の増加が私たちの期待のあり方を変化させていったと考えられます。
状況が変化したり、また複雑になったりすれば、定型的な行動では対処できなくなります。行動が期待外れな結果ばかりをもたらすならば、進化的選択が行動を適応的なものに変えることになります。しかし、複雑な状況では行動の結果を事前に見極めることは簡単ではありません。また、行動の結果が明らかになるまで時間的経過が必要な場合もあります。それらを判断する機能が求められるでしょう。
行動のよしあしは結果によって判断されます。結局やってみなければ分からないのです。初めから行動の結果がはっきり分かっているのであれば、複数の行動を検討するということは起こりません。どちらかが有利であるかがあいあまいであるからこそ行動の選択の余地があるのです。このとき、選択をランダムに行うより、どちらが好ましい結果を得られるのかを検討してから選択する方が、有利な結果を得る確率はわずかなりとも高いでしょう。そのわずかの差が、それをもたらす機能を進化させたのだと言えるでしょう。
いくつかの行動が選択肢としてあるとき、一度に取れる行動は限られている(ほとんどの場合一つしかない)ので、やってみてからその価値を評価するわけにはいきません。無作為の試行錯誤を毎回行うというぜいたくは個体としての私たちにはほとんどゆるされないのです。それゆえ、事前に行動の評価をするということが必要になります。評価の視野が空間的にも時間的にも拡大すれば、検討すべき要素が多くなり、行動のあり方も広がっていくでしょう。
行動の選択においては、行動の可否の可能性だけでなく、行動のコストを勘案しなければなりません。行動が思惑通りに達成されたとしても、それにかかったコストが過大であればその行動をしない方がましだったことになります。選択は諸行動間で行われるだけでなく、その行動をするかしないかということも対象となります。私たちは実行の前に好ましさという誘引を受ける一方、コストなどのマイナスの誘引(忌避)も受ける必要があります。行動に負の報酬が伴う場合、行動に先行して負の報酬の先駆のようなものが生じれば効率的でしょう。ちょうど、正の報酬に衝動、欲望、欲求などが先行するように。それが先にも触れた恐れや不安や警戒などでしょう。
では、正と負の報酬の予期を同時に受けるということをどう考えるべきでしょうか。お互いが打ち消しあって機能障害を起こすのではないでしょうか。
あるいは、私たちが「好ましいこと」を選び、「このましくないこと」は避けるなら、コストなどの予期を放棄し、行動の好ましさという予期だけを受け入れて判断してしまうことにならないでしょうか。実際、私たちは失敗したことや都合の悪いことを無視しようとします。悲しいことや嫌なことは思い出すのに抵抗があります。しかし、そうなると、予測の機能がデータの不十分さによって阻害されてしまうことになります。
別の例として利他行動があげられます。利他行動へ導く誘引の一つが同情と考えられます。同情というのは他人の悲惨さをわがことのように見ること(共感)を含みますが、悲惨への共感は悲惨さの苦痛を感じるという負の報酬となります。そのような好ましくないことを避けるために共感をやめるということになるのではないでしょうか。
それを防ぐ方法として何が考えられるでしょうか。たとえば、負の報酬であるデータを扱うときは、予期そのものに報酬を与えればいいのかもしれません。つまり、悲しいことや嫌なことを思うことは報酬づけられているのかもしれません。
この辺りは複雑微妙でありすぎるかもしれませんが、行動のメカニズムが単純であるとは決めつけられません。負の報酬がからんでくると行動の解釈はややこしくなります。
正と負の報酬が比較されるためには、負の報酬の予期を排除しようとするのではなく、評価の対象として受け入れる必要があります。そこで、負の報酬の担い手を分けるということが考えられます。負の報酬を受ける主体と、そのような主体を機能させることが正の報酬になっている主体です。
以上は仮説というより憶測にすぎないものですが、このような見通しのもとに論を進めてみましょう。
3 二層性の仮説
(1) 自我と意識
不快なことに執着するということの矛盾を理解するためには、何らかの二重性を想定することが考えられます。この二重性が二つのレベル(ないし部門)によって構成されていると仮定してみましょう。あるレベルでは不快は負の報酬であるが、そのレベルで負の報酬を得ることが別のレベルでは正の報酬になると考えるのです。この二つのレベルに同等の力があるのならジレンマの状況になってしまいますから、レベル間には上下(基礎と派生)の関係がなければならないでしょう。部門で考えるなら、一方が他方を含み込んでいる(それを一部としている)ことになります。
この二つのレベルを「自己」と「自我」と呼ぶことにしましょう。自己とは個体としての機能的統一体のようなものです。自我は自己の機能の一つです。ある状況において自我が負の報酬を受け取ることが、自己にとっての正の報酬となります。言い換えれば、特定の状況に対する自己の反応として、自我が負の報酬を受けるのです。ただし、自我はそのことに気づいておらず、自分が独立しているものだと信じています。
では、自我と自己が機能するレベルが違うというのは実際にはどういうことでしょうか。自我の特徴的な機能として「意識」があります。自我は自分に与えられた負の報酬を意識しますが、(自らを機能させている)自己に対する報酬については意識しません。自我が気づいていないという意味で、自己が報酬を受けるのは無意識の過程です。
ここで無意識を持ち出すことは誤解を生みかねないのですが、意識の関与しない行動があることはもはや自明のことになっています。この二重性の一方を無意識と呼ぶことは、フロイトを連想させることから抵抗もあるでしょうが、フロイト理論の具体的内容とは切り離して無意識という概念を使用することにします。もちろん、フロイトがこの現象に気づいていたことは間違いなく、評価されるのは当然です。
ただし、二重性というよりも、三つの層(ないし次元)として把握する方が理解しやすいようにも思われます。下層は遺伝子(進化的理由)、中層は自己(無意識)、上層は自我(意識)とみなすのです。遺伝子はシステムを構築し、システムの進化によって無意識から意識(自我)が派生した、というのがこれからの論理展開の見通しです。
ところで、意識とは何なのかという議論があります。その問いには統一された答えがありません。意識がなくても個体は機能するのではないかという主張もされています。そのような無意識の行動の主体はゾンビ・システムと呼ばれることもあります。どういうことなのでしょうか。
意識にはいくつもの解くべき問題があります。個体の機能の情報に関して意識がどの程度アクセスしているのか、そのような機能に意識がどの程度介入(参加)しているのか、もし行動に何ら関与していないのなら意識は何のためにあるのか、ということなどは研究が続けられています。一つの考えとして、意識は単なる随伴現象であり、行動も含めた個体の物理的現象には何ら関与しないというものがあります。そのような考えから意識の欠如している存在としてのゾンビ・システムというものが想定されたのです。
ゾンビ・システムは、外から見る限り私たちと区別はつきません。ちゃんと受け答えもしますし、感情も表現します。ただ意識というものがないだけなのですが、ゾンビ・システムを前にした私たちにはそれがゾンビ・システムかどうか分からないのです。
ここでは厳密な議論は避けて、以下のように考えてみます。自我とは意識であり、意識とは短期記憶(ワーキングメモリ)である。短期記憶のなかで認知や中・長期記憶が取り扱われます。認知や中・長期記憶は自己の機能であって、意識も自己の機能の一つとして、それらに関わるのです。意識は認知や中・長期記憶の全てにアクセス可能なわけではありません。いわば、自己からそれらの一部を与えられるのです。意識は自己の全てを知り得ているのではないのです。
自己は本来自我というレベルなしで行動しうるはずです。自己には認知や記憶の機能が備わっているし、動因となる衝動・欲望・欲求などの機能もあります。遺伝的に受け継がれた行動パターンを実行するのに、自我が役割を果たす余地はほとんどありません。
ではなぜ自我という機能が必要とされるのでしょうか。自我が派生したのは自己からであり、自己の機能の一部が特化したものと考えられます。より独立した機能が必要とされたからであり、いわば、スピンアウトしたと考えられます。
鍵は選択にあります。可能な行動が複数あり、しかもその成果が異なる場合、何が適切かを判断しなければなりません。試行錯誤ということが毎回許されるならば、いろいろやってみて適切な方法を見出すことも可能でしょう。しかし、そのような余裕がないときは、最適行動を選び出す能力が生存に影響を与えることになります。
進化の過程で、好ましいものは追及し、好ましくないものは避けるという行動のパターンが形成されたことは確かでしょう。本来、好ましいか好ましくないかの判断は行動の結果の評価によってなされるはずです。しかし、一定の行動が一定の結果をもたらすことが繰り返されれば、結果を待たずとも行動そのものを評価できます。好ましい結果をもたらす(であろう)行動を好み、好ましくない結果をもたらす(であろう)行動を避けようとすることで、行動は迅速になり、競争において有利になります。ここまでは自我の出る幕はありません。
私たちの行動の多くは生得的に報酬づけられています。しかし、行動の成果は状況によって変化します。状況に対応して行動の一部を変えることが成果の大きさや成果を得る確率に影響を及ぼすでしょう。試行錯誤が可能なほど状況が安定的であれば(しかし、遺伝的に取り込まれるほどには安定的でなければ)、学習によって一定の行動が好まれるようになります。この場合、行動は「後天的に」報酬づけられたと言えるのかもしれません。
学習においては記憶が関与していることは間違いありません。ここまでは自己のシステムでも可能です。しかし、試行錯誤はコストがかかり、しかも特殊な条件が必要とされます。そのため、推論が用いられるようになったと思われます。実際に試すことなく、仮想として経過をたどり、結果を予想するのです。そして、諸結果の予想を比較します。これは当然過去の経験が手掛かりになるでしょうが、過去がそのまま繰り返されるのではなく、部分的に分解したり、新たな要素を加えたりして、改変される必要があります。
自我は現在という時点から離れて、「いま・ここ」にない状況に身を置きます。もし自己がそのようなことをしたならば、状況の把握を失って、危険な状態に陥るでしょう。自己は機能の一部として、自我にそれさせていると考えられます。
では、なぜ自我は意識なのでしょうか。自我は自己から切り離されていなければなりません。自我が自己の機能に影響を与えることは混乱を生じます。自己は自我を意識に閉じ込めることで介入を防いでいるのではないでしょうか。
さて、諸結果の予想の比較のためには、過去の経験時に得られた結果が重要度によって識別されて記憶される必要があるでしょう。すべての記憶を想起しようとすることは非効率であり、記憶容量にも限界があります。短期記憶から中・長期記憶に移行する段階で選別され、さらに中・長期記憶も不必要ならば捨て去られて行きます。その重要度は経験における報酬とコストの認知が実感的に勘案されていると考えられます。その実感を与えるのが意識ではないでしょうか。その結果、記憶の想起は単に知識の閲覧ではなく、その実感が再起されることになるのです。
自我(意識)に感じられる報酬というのは、自我を機能させるときに自己に与えられるものとは異なっているはずです。自我が自己と同じ報酬を受け取っているなら、自我という機能は必要ないでしょう。自我が感じるのは、自我の機能する範囲に限られます。
自我としての私は、私の属するもの(自己)についてあまりよく知らないのです。しかし、自我は自分がすべての主体であると信じています。なぜでしょうか。自我が自己の一機能でしかないとしたら、自我はそのことを認識してしかるべきではないでしょうか。
自我は短期記憶として、経験を認知します。経験の連なりが私たちが生きていることの実体のように意識されることになります。そういうことの関連から、何らかの統一的部分があるならば、それは主体の全て(ただし、意識の知りうる限りの)を意識している自我に違いないと推理しているのでしょう。
自我の特性の一つは、自らについて意識するということです。しかし、自我は自己の全てを意識するようには進化してきませんでした。自我は自己の一機能としての能力しかありません。ですから、自我としての私たちが自らが何であるかを知ろうとしても、自我の外には出られないのです。
(2)快と不快
先に、自己にとって行動そのものが報酬になっているとみなしましたが、そうであるならば、自我によって予期するのと、それを待たずにすぐ行動するのとを、自己はどのように選択するのでしょうか。
一つには、行動にかかるコストよりも自我を働かせるコストの方が小さいということがあげられるでしょう。行動の面倒さに比べれば自我を働かせる方が楽なのです。もちろん、行動を先延ばしすることで生じる機会損失は自我機能のコストになります。それを自我が自己に警告することもあるでしょう。
自己に与えられる報酬は自我によって意識されることになるので、それを「快」と呼びましょう。ただし、自己は自我の快によって直接行動に駆られるのではありません。自我は自己の受ける(であろう)報酬を快として感じるのにすぎません。
たとえば、性行動には強い感覚刺激が伴うので、それを快として追及するのは当然だと受け取られてきました。しかし、こうも考えられるのではないでしょうか。性行動が自我にとって強い快であるのは、行動の選択において優位にあるべきためである、と。摂食行動や性行動は何よりも優先されなければなりません。選択の機能として自我があるのなら、自我はそれらに強い快という評価を与えるようになっているはずです。
多くの場合、自己の行動と自我の快の関係は固定的ではありません。自我は経験を積むのです。経験によって行動の適格性の見極めの精度をあげるのです。学習すると言い換えてもいいでしょう。
それゆえ、行動は次のように描写されるでしょう。ある状況において、行動とその結果の可能性が認知されるとそれが期待となります。しかし、行動を実行しようとすると、乗り越えねばならないいろいろな障害があり、それらを排除するためにはコストがかかります。他に選択肢がなければ自己はコストを無視して行動するかもしれません。
しかし、行動に選択が可能であり、それゆえ必要であるようになれば、様々な要素が検討の対象となります。いつそれを行うのか、どのようにするのか、成果の大きさや可能性とその実現のためのコストを比較したらどうなるか、等々です。重要なのはコストの見積もりです。単なる負の報酬であるならば、それを避けることで回避できます。しかし、報酬を得るために支払わなければならないコストであるならば、それを受け入れざるを得ません。コストの見積もり、それが自我にとっての「不快」です。
自己は選択の機能がなくても行動することだけで報酬を受けられますが、どの行動をすればよいかについては場当たり的になってしまうでしょう。目の前にある機会に触発されるだけで済ませられればそれでいいのかもしれません。しかし、複数の機会の選択が可能になる段階では、自我のような機能を使える個体が勝ち抜くことになるでしょう。
自我は諸行動の報酬とコストを予測し、それを比較するという機能を担っているのです。生存と生殖において有利になるならば、進化はそのような機能を発達させるでしょう。そして、その機能を自己が使うことが報酬づけられていることになります。
私たちが不快を扱う不思議な現象は、自我の不快に自己が報酬づけられているからです。快の状態を再現するだけでなく、不快の状態の再現にも耐えるためには、それが必要だったのです。
(3) 意識の自由
意識のことを考える上において重要なことがあります。意識は常に稼働しているということです。意識がなくなるのは、睡眠のとき、失神してしまうとき、そして死亡のときです。これらの状態は身体の自動的な反応であって、自己が勝手に操作はできません(薬を呑むとか自殺をするとかのきっかけは作れても)。逆に言えば、自己は自我を自由に起動させてたり休止させたりすることはできないのです。自己は行動可能な状態にあるかぎり自我を稼働させておかねばならないのです。必要なときに自我を立ち上げ、不要なときは機能を停止させるというやりかたはうまくいかないでしょう。必要かどうかの判断は自我を使わなければできないでしょうから。
意識は常に何かを意識しなければなりません。さしせまった行動の機会がない場合でも意識は自らの機能を働かせていなければなりません。いわば遊んでいなければならないのです。
意識の遊びは意識の自由を証拠立てているのかもしれません。意識が記憶と戯れたり溺れたりするということがあります。また、奔放な想像や妄想に身を任せるということもあります。そのようなことはそれ自身として意識の内容になっているのではないでしょうか。つまり、それらを構成する要素は、自己を経由した外界からの由来かもしれないが、それらの組み合わせは意識の自由な操作にゆだねられているのではないでしょうか。
自由な物思いというというのは、意識の非拘束性を現わしているように思えます。あれこれと考え、従来とは違った見方を得るということも経験します。過去の記憶が全く違った様相で理解できるようになることもあります。未来が違った経路を示してくれることも。悟りとか、転機とか、目覚めとか、意識が自力で(あるいは何らかの示唆の助けで)世界の見方を変え、行動を変えることがあるはずです。
しかし、私たちはどうでもいいようなことまで考えがちです。自分とは直接関係ない、たとえば歴史上のことがらも思考の素材になります。そのことは、生存の有利不利ということから思考が離れてしまっていることを示しています。
回顧や想像などを含めた意識の作用を、思考に代表させて検討してみましょう。
私たちが思考を働かせるように進化してきたとしても、思考使用が生存や生殖に有利な帰結に直接つながらないような場面や思考を使う必要のない場面も多くあります。それでも思考が使われることがあります。たとえば私たちは謎解きやパズルや理屈づけに惹きつけられます。実践的には何の役にもたたなくとも、私たちは「頭を使う」ことに熱中するのです。
課題が解けたときの喜び、未知のことが既知になったときの喜び、使用の巧みさ(たとえば機知)の喜びというものがあります。逆に謎が謎のままで終わってしまったとき、まずい使い方による失敗などは苦通となります。それらの快・不快は自我機能へのいわばオマケのようなものと解釈できるでしょう。
思考とは内的整合性のある体系を形成する試みとしておきましょう。これが意識の特別な機能なのかは不明です。ただし、記憶が構成要素として重要であることから、短期記憶としての意識が関わっていることは間違いないでしょう。
思考の内的整合性を確認するのは状況です。思考により選択された行動が、思考の主体に成果をもたらすことで、思考の内的整合性が証されます。しかし、思考のための思考は、状況とは遊離して存在することができます。そこに自由な思考というものが成立する余地があるかもしれません。科学の発達は、実用性から距離を置いたところでなされます。思想というのも同様です。
しかし、一方で、思考に頼ることで状況の判断を誤ることがあります。たとえば、断片的なデータで因果関係を確定してしまうことがあります。因果関係が不明な場合や、主たる関係が見出せないため偶然としかいいようがない場合でも、強引に原因を特定してしまうのです。整合性、つまり秩序を形成することが、混沌のままにしておくよりも望ましいのです。思考は整合性を求める欲求といってもいいでしょう。
思考において典型的なように、必要もないのに意識は働こうとします。ちょうど、ガソリン車が一時停止しているときでもエンジンはアイドリングしているようなものです。意識の自由を示しているような現象も、自由ではなく捕らわれとみなすことができます。意識は方向の定まらぬ浮遊状態を自由として感じるかもしれませんが、実はそこから脱け出せないでいるのです。
4 感情
(1)感情の合理性
感情的になることに対して私たちは否定的な評価を下しがちです。判断の適切さをゆがめてしまうというのがその理由です。非感情的、言い換えれば冷静で知的な判断が望まれるのに、感情が邪魔をするというのです。そうだとしたら、なぜ感情という機能が私たちに備わっているのでしょう。
考えられる一つの理由は、知性がまだ進化していない状況で感情が発達したということです。もう一つは、ではなぜ感情が今なお保持され続けているのかという疑問の答えにもなるのですが、知性では感情を代替ができないからではないかということです。具体的には以下のことが挙げられます。
第一に、知性には選択肢を揃えるという時間が必要です。とっさの判断には間に合いません。
第二に、知性の展望は記憶の範囲に縛られてしまいます。個人的経験にしろ、集団的伝承にしろ、遺伝子的な長期性を見通すことは困難です。
第三に、選択肢の評価にこだわるゆえに、知性は状況の変化に振り回されてしまいます。あまりに敏感な指標が役立たないように、知性は動揺が激しすぎるのです。
典型的な例が恐怖です。ある危険の認知、たとえば捕食者が近くにいるのを発見したとき、とにかく逃げなければなりません。危険の程度や可能性を検討する時間的余裕はありません。
しかしながら、危険の認知が即行動を引き起こしてしまえば、誤認も含めて、しょっちゅう逃げ回っていなければなりません。それを避けようとすれば、大雑把にでも危険の程度を見計る機能が必要となります。恐怖という感情は危険の計測値であり、認知と行動の間にある種の選択を挿入可能にしていると考えられます。いわば知性の萌芽のようなものでしょうか。
短期的な判断では不適切とされる行動選択も、長期的には適切だったということがありうるということについては、よく知られた例として怒りを取り上げてみましょう。体力に優れた相手があなたの手に入れた獲物を横取りしようとする場合を考えてみます。合理的に判断すれば、相手に逆らって痛い目をみたり、場合によっては死傷するくらいなら、素直に獲物を手渡す方がよいでしょう。その場ではあなたの行動は適切であったかもしれません。しかし、いったんそうしたら、相手は機会があるごとにあなたから横取りするでしょう。
さて、最初の場面でも、どこかの段階でもいいのですが、あなたが怒りを感じて、当面の有利不利など考慮せずに、相手に反抗したらどうなるでしょうか。あなたは殴り倒されて、けがをするかもしれないし、ヘタをすると死んでしまうかもしれません。死んだらそれで話は終わりですが、あなたが生き延びた場合、あなたから獲物を取り上げた相手が、再びそういう機会を見出した時、どうするでしょうか。
あなたが怒りの感情を持っていることを知っていたなら、相手はあなたが捨て身の反撃をすることを予想するでしょう。あなたを打ち倒すのはたやすいとしても、あなたの反抗は好ましいことではありません。確率は非常に低いとしてもあなたが勝つことはありうるし、そうでなくともあなたの反抗を排除するにはコストがかります。相手はちゅうちょするかもしれません。横取りする獲物の価値が低ければあきらめるかもしれません。どういうことになるかは事前の予想では確かではありません。しかし、人間に怒りの感情が備わっていることが、怒りによる行動が生存・生殖に不利ではなかったことを証明していると考えられます。
ところで、強い者が必ず弱いものを支配し、弱い者は必ず強い者に従うという世界であれば、怒りは何の役にも立たないことになります。実際、世界はそのようなものに見えます。強弱が逆転することのない世界、怒りが無用である世界において、どうやって怒りが発生したのかが謎となります。
「弱肉強食」と「食うか食われるか」は同じことではありません。捕食する側と捕食される側は決まっており、それが逆転することはありません。ですから、選択は「食うか食われるか」ではなく、「食うか食えないか」および「食われるか食われないか」というものなのです。そこには、食う方に怒りはなく、食われる方にも警戒や恐怖はあっても怒りはありません。食われる方はひたすら逃げるのみです。食われようとする際には抵抗するかもしれませんが、それは必死の努力であって、怒りからのものではないでしょう。
さらに、怒りが知性的判断の限界を超えようとするものならば、怒りという感情は知性の後から発生したことになるでしょう。食物連鎖の中で、捕食すべき相手、もしくは捕食されないように警戒すべき相手は何なのか知るにはある程度の認知力が必要です。それを知性と呼べるのなら、彼らは知性的に行動しています。その知性的行動を怒りという感情によって修正する必要が彼らにあるでしょうか。「窮鼠猫を噛む」的に反撃しても成功率はほぼゼロに等しければ、そのような感情を持った個体が子孫を残せることはないでしょう。
怒りという感情が食物連鎖の中に見出せないとしたら、どこを探せばいいでしょうか。「生存競争」という言葉がヒントになります。競争というのは違う立場の相手との間には生じません。「食うもの」と「食われるもの」との間には競争関係はありません。むしろ「食うもの」の一方的依存関係なのです。競争関係は「食うもの」どうし、「食われるもの」どうしの間にあります。つまり、他の同種の個体より多く食えるか、他の同種の個体のようには食われずに済むかが問題なのです。そして、より重要なのは、他の同種の個体よりも確実に生殖を実行できるかどうかです。
つまり、怒りが作用するとすれば、同種の個体間の争いにおいてです。縄張りや生殖相手をめぐる争いです。圧倒的に強い者に対しては選択の余地のない世界でも、やや強い者からの攻撃に対しては反撃は効果があったはずです。怒りは細かい状況判断を無視してとにかく反撃するという行動の選択なのです。いわば、怒りはリスクを取るという機能なのです。人間に怒りという感情が備わっているのは、人間は、同種との競争においてリスクを取る傾向があり、リスクを取ることによって生存を有利にしてきたということの現れなのでしょう。
いったん怒りという感情が成立すれば、相手が強大であろうが怒りは起こります。怒りの性質がそうなのですから。しかし、どんな相手にも立ち向かっていくという行動はやはり無謀です。怒りはある状況下では無条件に起こらなければならないのですが、全ての状況で無条件で行動を起こすのは避ける必要があります。そこには矛盾があるのです。
そのようなジレンマを解消するために生じたと考えられるのが、一つは怒りの誇示(表出)である威嚇です。攻撃を受ける前に相手に反撃の大きさの予想を持たせることができれば、攻撃者はひるむこともあるでしょう。
もう一つは、この威嚇の行動によって生じる時間差の利用です。怒りを感じるというのは、即座に行動するときには起こらないのではないでしょうか。怒りを感じることによる遅れは行動の有効性を低めることになるでしょう。しかし、怒りを感じるということ(つまり、自分が怒っていることを知ること)は、怒りによる行動を選択肢の一つとして扱うことを可能にするのかもしれません。反撃が適切ではないとはっきりと判断できれば、怒りによる行動を抑制する努力が可能かもしれません。ただし、これが難しいのは、そもそも怒りが細かい状況判断を欠いている機能だからです。
他に感情として悲しみや喜びがあげられます。これらの感情が行動に結びつくとしたら、悲しみは行動を控えて休息を促す、喜びは行動を加速させるというような解釈が可能かもしれません。だとすれば、感情は衝動や欲望や欲求と同じように、行動のトリガーであるのでしょうか。そうだとしても感情が一つのグループとして把握されていることの説明が必要でしょう。考えられるのは、感情はそれが表現されるという点で共通しているということです。
(2)感情表出
感情は自らが感じるだけではなく、自らの感情を何らかの形で表現することも伴います。感情の表出は感情が起こっていることを他者に知らせることになります。感情表出によって、他者は私たちの感情を認知ないし推察することができるのです。では、なぜ他者に自らの感情を知らせる必要があるのでしょうか。
感情の表出は自己の状態を周囲の人に知らせてその人の行動に影響を及ぼすという機能があると考えられます。感情表出が他者の行動に作用するのは、感情表出がそれに引き続く主体の行動を示唆するからです。その行動を予測して他者はそれに対応する行動をします。
感情は表出によって(だけで)他者の行動をコントロールするために発生したとまでは言えないでしょう。それは二次的な作用で、一次的には感情はその主体に行動を起こさせるのです。そうでなければ、感情表出は力を持ちません。感情表出が次に起こる主体の行動と密接に結びついていなければ、他者はそれを無視してしまうでしょう。
それでも、感情表出だけで他者に影響を与えることができるなら、行動の節約になります。また、感情表出をある程度コントロールすることで他者への影響力を増すことができるのであれば、感情そのものを操作するように進化したかもしれません。
感情が集団生活と密接に関係しているならば、感情表出はすぐにでも出現したでしょう。人間集団においてはコミュニケーションが重要であり、感情表出は有効な手段だったからです。さらに、感情表出は感情からいくぶん遊離するまでになったのではないでしょうか。私たち感情を多少はコントロールできるでしょうが、自由には起こせません。しかし、感情が起きたように見せることはできます。感情表出が他者に作用するという特性を利用して、感情を偽って他者をコントロールしようとする、いわば三次的な作用が可能です。うそ泣きが典型例です。
しかし、感情表出は偽装までには発達しませんでした。感情表出を演技することはできますが、感情表出を自在に操ることはできません。それは受け取る側が他者の感情表出を警戒しているからです。感情表出によって他者をコントロールしようとする意図が察せられるなら、他者はそれに対抗してそのような感情表出をする者を信用しなくなるでしょう。逆に、行動の予測に使われてしまうのを防ぐために、行動主体が感情表出を抑制しようとする傾向もあったでしょう。しかし、選択的に感情表出の抑制をするのは機能的に難しかったと思われます。できるのは感情表出一般の抑制でしょう。そうなると、感情表出の持つメリットも失われてしまいます。感情表出の少ない人は、冷たい人、計算高い人、共感できない人として敬遠されることになります。
たとえ感情表出の偽装や抑制が部分的に可能であっても、感情表出は機能を失いませんでした。嘘つきが完全に淘汰されなくとも信頼が機能を失わなかったように。感情表出は発展し多様化が進行しました。感情のもたらす行動(の必然性)よりも、行動の予告としての感情表出そのものが注目される傾向があったからでしょう。
(3)否定的な感情
怒りは人間関係に対立や憎悪を生み出してしまいますが、ある種の均衡を成立させる機能があるとみなせます。義憤、公憤という言葉があるように、正義の遂行に必要とされる場合もあります。反対に、私憤という言葉には利己的であるという否定的な意味合いがありますが、私的な人間関係でも怒りが正当化されることはあります。
ところで、最も卑しい感情とされるのが「うらやむ」ではないでしょうか。嫉妬や羨望と言い換えてもいいでしょう。似ているような言葉に「うらむ」があります。これは怒りの潜伏状態のような感情ですが、怒りよりも陰湿な感じです。犯罪の三大動機として盗み、痴情、怨恨が挙げられますが、痴情と怨恨には羨みや恨みが関係しています。怒りは暴力沙汰をもたらしがちですが、計画的な犯罪の動機にはなりにくいでしょう。怒りは瞬発的であり、持続力はないのです。ただし、怒りが抑えられて恨みになると、引き伸ばされた怒りとして計画的な犯罪に結びつきます。その意味で、集団と記憶という条件下では、恨みも怒りと同じ機能を持っているようです。
では羨みという感情はなぜ存在するのでしょうか。この感情は市場主義経済の運行を阻害するものとして嫌われています。自発的交換という公平な仕組みによって獲得されたものに差が生じることに不満を持つ理由はないはず、というわけです(ただし、この論議には、最初に持っているものの差という観点が欠けています)。同じように、能力や容貌などの生得的な性質に差があることは誰の責任でもないのだから、不満を持っても仕方がないと言われます(ただし、教育という大問題があります)。
他人の優れている点を羨むのがなぜ非難されるのでしょうか。羨むのは憧れることの裏面です。図式的に言えば、羨みは他人を引きずり下ろそうとする感情であり、憧れは自分を高めようとする感情ということになるでしょう。それだけなら大したことではありません。羨みはそれを持つ人を苦しめ、憧れはそれを抱く人を喜ばせるだけでしょうから。問題になるのは、感情は行動を呼び起こすからです。
羨みという感情を私たちが持っているのは、その感情を持った人間が進化の過程を生き延びてきたということです。羨むという感情は、自分よりよい境遇にある他人を好ましくないと思い、境遇を平均化することで差を埋めようとする行動へ導きます。結果的に相手の境遇を引き下げることになります。分配の要求がその一つでしょう。あるいは、何も得られなくとも、相手の境遇を破壊するだけでもいいわけです。
なぜそのようなことが淘汰されなかったのでしょうか。生存と生殖の競争において、競争相手の有利な点を削ぐというのは一つの戦略です。しかも、集団においては、不遇な者たちが共同することで、境遇のよい者に対抗することができたでしょう。平等欲求というのもここから生まれてきたのかもしれません。
当然、境遇のよい者も対抗措置を考えねばなりません。力による反撃というのもあるでしょう。しかし、集団の他のメンバーを排除することは、集団生活のメリットを失うことになりますから、何らかの妥協を強いられることになるでしょう。分配の要求にある程度応じることになったはずです。優れた点を持った人がそれを集団の他のメンバーのために役立たせれば、他のメンバーはある程度の格差を容認して、羨むことをやめるということもあり得たでしょう。
これらはあくまで推測にすぎませんが、私たちが羨みの感情を失うことがないのは、それが過去に機能していた結果であることは間違いありません。羨むことを卑しいことだと非難し、平等欲求を怠け者の卑しい根性だと批判したところで、何の解決にもなりません。羨みの感情はいまでも機能しているのかもしれないのですから。
(4)共感と反感
私たちは他人の感情に単に反応するだけでなく、共感します。ある結びつきのある他人(「ひいき」という一方的関係でもいいのですが)が喜んでいるとき、私たちも喜びます。その人が悲しんでいるとき、私たちも悲しみます。その人が怒っているとき、私たちも怒ります。
親しい関係にある人には、ともに喜び、ともに悲しみ、ともに怒るということが、結びつきを維持し強化することになるでしょう。相手の喜びはその喜びを分かちあうという期待を生みます。相手の悲しみはその悲しみを軽くするように力を貸すという要請をもたらします。相手の怒りは共通の敵に共同で立ち向かうよう促します。ここで集団選択の可否については問わないとしても、互恵関係がその説明になるでしょう。
逆に、敵対的関係にある人に対しては、共感とは別の反応が起こります。その人物が喜んでいれば怒りを感じたり、悲しんでいれば喜びを感じたり、怒っていれば恐怖を感じたりするのです。嫉妬や羨望、他人の不幸を喜ぶ感情、他人に怖れを感じる気持ちなどの否定的な感情は、中立的な関係にある他者についても起こりますが、敵対的な関係では一層その度を増すでしょう。
その人が自分とどういう関係にあるかによって、他人の感情は私たちに異なる反応を呼び起こすことがあるのです。他者の感情表出に対しては、同じ感情表出であっても、共感か反感かのどちらかを「選ぶ」ことになります。同じ感情を抱くという単純な反応ではないのです。
ただし、相手に対する関係を考慮した上で相手の感情表出に反応するという面倒なことを、進化は選ぶはずがありません。もっと手っ取り早い方法があるのです。あらかじめ同感するものと反感するものを決めておけばいいのです。好ましい相手には共感を、好ましくない相手には反感を、いわば自動的に割り振るのです。より適切なのは、好ましかろうとなかろうと、相手の状況と感情が自分にとってどういう影響を与えるかをいちいち判断すべきでしょうが、それには手間がかかりすぎるでしょう。
世界を好ましいものと好ましくないものに二分するならば、私たちにとって本来無関心であっていいものも、どちらかの領域に含めてしまうことになります。何の影響も受けず、また、影響を与えることはないはずのものも、ただ認知し得るというだけで、好きか嫌いかに振り分けてしまうのです。そうすれば、何に共感すべきか何に反感すべきかは即座に決められます。何の利害関係もないのに、なぜ他人の感情に私たちが影響されるのかという理由は、そのように考えられます。
そのような分類がいったん形成されるとほとんど変化することはありません。その分類を疑わせる事実を知らされても、それを無視したり、勝手に改変して整合性を保とうとします。ただし、全く変化しないということでもありません。そのような分類と整合しないような経験の繰り返しによって、その分類にひびが入り、やがては瓦解させてしまうこともあります。ただし、新たな分類が、従来の好悪を反転させたにすぎず、枠組み自体は維持されてしまうこともあります。
ところで、他人の感情に反応するのは、その感情がその他人の状況を反映しているからです。他人の状況が分れば、他人の行動が予測でき、それに対応する自分の行動を決めることができるからです。
そこで一つの問題が生じます。私たちが反応するのは他人の感情に対してでしょうか、それとも他人の状況に対してでしょうか。両者は結びついているはずですが、認知できるのは片方だけということがあります。何で泣いているのだろうかと疑問に思ったり、こんな状況でどんな気持ちになっているのかと思い迷うことがあります。このことは、私たちに共感なり反感が起こるためには、他人の感情とその状況がセットになっている必要があるということです。もちろん、一方だけの認知から他方を推測することは可能です。だとしても、やはり状況と感情のセットが必要なわけです。
もう一つの問題もあります。他者との関係と他者における状況・感情セットのどちらが先に私たちに認知されるのでしょう。まず他者の状況・感情セットを認知し、それからその他者との関係を確認してから、同感か反感を選ぶのでしょうか。それとも、他者との関係を先に確認し、それから他者の状況・感情セットを認知して、同感か反感を選ぶのでしょうか。この場合も、両者が同時に起こると考えるのが妥当のようです。
5 過去の教訓
(1)教訓としての後悔
後悔が無駄なことは誰もが知っています。「後悔先に立たず」「覆水盆に返らず」「こぼれたミルクを嘆いてみても仕方がない」。けれども、そういう教訓があることは、人が後悔にどれほど悩まされているかを告白しているようなものです。それゆえ、人が重大な決定をするとき、後悔をしないことを基準にするほどです。映画などで登場人物に決断を促すときには、それをしないと(あるいは、すると)「一生後悔することになる」と言い聞かせるのが決まり文句になっています。「後悔するぞ」は脅し文句にさえなっています。つまり、後悔は無駄なだけではなく、苦しいことなのです。
もちろん、後悔には機能があるとされています。過去を教訓とすること。「同じ轍を踏まぬ」、つまり過去の失敗を繰り返さないようにするために、後悔は過去にこだわらせるというのです。後悔をするのは、予期しなかった悪い結果が起こった場合です。ただし、その結果は私たちの行動によって引き起こされたものでなければなりません。私たちの行動に関わりなく起こる結果については、後悔は起こりようがありません(ただし、原因と結果の関係は恣意的な側面がありますが)。つまり、後悔は失敗した行動の記憶であり、違った行動をしたならば避けられたという反省なのです。
過ぎ去ったことについては結果が確定しています。結果の評価がまだ定まらず、暫定的であるとみなされることもあるでしょうが、とりあえず事実関係は定まっています。その結果に至る経過はほぼ分かっており、その結果を避けるためには何をすればよかったか(あるいは、何をしなければよかったか)もほぼ分かっているでしょう。また、望ましい結果を得るためには(あるいは望ましくない結果を避けるためには)何をすべきであったか(あるいは何をすべきでなかったか)についても、その行動を起こす前に比べれば有益な情報量は増えています。ですから、もし行動する前に戻れたならば、そのときはより賢明な行動ができるであろうと考えるのは当然です。
ただし、私たちが過去の教訓を生かして行動するときは後悔はしていないはずです。むしろ、失敗を回避できることの喜びを感じるはずです。ということは、後悔はそれが必要でないときに起こり、必要なときは後悔ではなくなっているということになります。
再三起こることについての失敗は何度か後悔すれば改善されるので、後悔は役立ち、後悔に悩まされることはないでしょう。しかし、めったに起こらないことへの教訓としての後悔は、同じような出来事に遭遇するまで長期間継続する必要があります。後悔がそういうものであるときには、そのコストに見合うだけのメリットがあるのかという疑問が生じます。もしかすると後悔による教訓は一度も生かせないのかもしれないのですから。
その解答は、論理的にではなく経験的に与えられているのでしょう。常に後悔する個体がそうでない個体より生き延びる確率がわずかでも高ければ、生き延びた個体の子孫として私たちは常に後悔するようになっているはずです。
後悔というのは快いものではないけれど、人はそれをやめられません。不快であるから、あるいは非生産的であるから後悔しない(意識を向けない)ことができれば、誰も後悔に悩まされることはないのです。「我、ことにおいて後悔せず」という境地は理想です。しかし、私たちはそうはなれません。私たちは後悔するようになっているのです。
ところで、教訓として過去を意識させるだけなら、後悔という形態を取る必要があるのでしょうか。失敗したという認識だけでよいはずです。そこに懲罰的な要素を付加することに何の意味があるでしょうか。失敗の結果、痛みや苦しみを受けているとしたら、教訓としてはそれだけで十分ではないでしょうか。後悔はさらに苦痛を追加するだけではないでしょうか。
後悔が痛みや苦しみとして感じられるのは、肉体的な痛みと並行する議論です。肉体に何らかの損傷を受けたとき、人は痛みを感じます。損傷があることを個体に認知せしめ、それへの対応を迫るためと考えられます。しかし、痛みはいたずらに人を苦しめることがあります。痛みの機能が単に肉体の損傷を知らしめて対応させるものであるのなら、痛みという形態を取らずに、損傷を認知させる何らかの感覚であってもいいはずです。しかし、損傷が苦痛ではなかったなら、人はそのことの重大さを認識しえずに、肉体をいたわることなく、損傷を悪化させてしまう可能性が大きいのは間違いありません。
人間というのはそういうものなのです。単なる認識だけでは動かないのです。たとえ利害得失が認識されたとしても、その重要性を感じなければそれだけのことになります。後悔の痛みは愚かな人間の注意を過去の失敗に向けさせ、何度も思い起こさせて記憶を保持させるものなのでしょう。
(2)後悔は無駄か
後悔が常に教訓としての機能を果たしているのであれば、私たちは後悔を有用とみなし、その不快に耐えることの必要性に悩むことはないはずです。しかし、教訓にはなり得ない後悔というものもあります。これは痛みについても言えることでしょう。痛みが肉体的損傷の存在を知らせてくれるとしても、その原因に対して適切な対処が難しい場合、私たちはとにかく痛みから逃れようとするしかありません。逆に、その不在(たとえば痛みの伴わない癌の進行)に不満を感じることもあります。私たちにしてみれば、痛みのあり方が不適切に思われるのです。後悔も機能する範囲を細かく限定するのは難しいのです。
後悔の機能不全としては、教訓として役立つ機会がほとんどないことの他に、失敗の原因が必ずしも確定できないこともあげられます。後悔は失敗を避けられたかもしれない要因を私たちに探させようとするのですが、それがどの程度コントロール可能なのかまでは示してくれません。原因がどうあれ(当事者の過失ではなくとも)、その状況を避けられた可能性はいくらでも見つけられます。ほんの少し時間や場所がずれていたならば、そのことは起こらなかったかもしれません。因果の連鎖をどこまでもたどれば、断ち切るべきであったところは無数にあり、後悔の種をいくらでも見つけられます。ああすればよかった、こうすればよかったと自己を苛むのに事欠かきません。私たちは仮想することができるので、あり得たであろう状態を棄てきることができないのです。しかし、偶然は予見ができないのですから、避けることはできず、結局は必然となります。必然であることを後悔しても何の役にも立ちません。非対称的なことに、ひょっとするともっと悪い状態になっていたかもしれない、災厄がこの程度ですんだのは幸運だったかもしれない、とはなかなか思えないのですけれど。
後悔のための記憶が時間とともに薄れていかず、積み重なる後悔が人を過度に消極的にさせてしまえば(たとえば行動の範囲が限られるようになったりすると)、適応能力を低めてしまうからでしょう。同じような状況がめったに起こらないのであれば、過度な警戒心(「羹に懲りて膾を吹く」)は無用です。記憶の保持にもコストがかかります。必要のない記憶は消去されてしかるべきです。しかし、記憶が時間とともに減衰するのと同じ作用が後悔にも働くのなら、後悔という機能は失われてしまうことになります。
要は確率の問題なのでしょう。災厄が起きないように警戒することで、災厄を完全に防ぐことはできないとしても、災厄の被害の確率は下げることができます。小さな災厄ですんでいたかもしれない状況が、偶然に要素が揃うことで大きくなると考えれば、小さな災厄(あるいはニアミス、いわゆるヒヤリ・ハット)は大きな災厄を潜在させている可能性があります。小さな災厄を教訓として気をつければ、大きな災厄の確率を減らせます。小さな災厄を繰り返していながら後悔しなければ、大きな災厄を起こす確率は高まります。ですから、決定論的には無駄であると思われても、後悔は必要なのかもしれません。
(3) 記憶の想起
後悔のためには経験が記憶され、適切な時にその記憶が想起されねばなりません。記憶が想起されるとき、インデックスのようなもので拾い出されると考えてみましょう。インデックスとしては、まず言葉が考えられます。言葉の作用は複雑ですが、人名、地名、物の名などが主に使われるでしょう。また、視覚的イメージや音もインデックスとして使われているでしょう。それらのインデックスの一つとして快・不快があげられるのではないでしょうか。
過去の経験の記憶は事象(できごと)としてまとめられた単位となっていると思われます。経験は集積され続けるのですべてを記録しようとすると膨大な量になります。また、経験の記憶を経験と同じ形にすることは時間的に非効率です。私たちの記憶容量が限定的であるのは、記憶容量をむやみに拡大することが進化の上で必ずしも有効ではないということを表しているとも考えられます。
では、経験はどのようにして記憶されるべきでしょうか。どうでもいいような経験の記憶は早い段階で消去(忘却)されるでしょう。ある程度重要な経験は短期記憶から中長期記憶にいたる過程で選択されて記憶されると考えられます。その選択において、快・不快が一つの基準として使われるということが考えられるでしょう。経験は時系列で整理されているのではなく、何らかの共通性といったようなゆるい関連を相互に持ちながら、ごちゃまぜになっているのではないでしょうか。私たちは記憶を想起するとき、同時に快・不快をも経験します。記憶に快・不快が張り付いているのであれば、記憶の想起にも快・不快が使われているのかもしれません。しかし、この辺りは憶測でしかありません。
そのような難しい問題はあるとしても、少なくとも記憶のための出来事の選択に快・不快が関与していると仮定してみましょう。その選択の基準はどのようなものになるでしょうか。考えられるのは、激しさや大きさといったような量的な基準です。快・不快の大きな動きは出来事の重大性を表しているように思えます。もう一つは意外性ではないでしょうか。「思いがけない」「突然」「予想外」といった言葉で形容される出来事が快・不快の判断を強く動かすと思われます。
ただし、後悔というのは想起された出来事の中での反応ではなく、想起された出来事への反応です。出来事の中でも後悔は起こったでしょうが、後悔のありさまは出来事が想起される度に変化しているようです。思い出というのも、想起された時点での評価に影響されるものです。悲しいはずの出来事がなつかしく思い出されることもあるのです。
(4)社会の変化
過度の後悔は近代社会に特有なものではないか、という考えもあります。同じような状況がめったに起こらない複雑な社会生活においては、後悔が役立たないことは多いのではないでしょうか。論理的には、たとえば、二度と会うことがない人との接触とか、めったに起こらない選択の機会などにおける失敗は、その場限りのものとして扱うことができるはずです(「旅の恥はかき捨て」)。しかし、そのような場合でも後悔が起こるとすれば、余計な(必要のない)負担になってしまいます。しかも、そのような場合が頻繁に起こるのが近代社会です。これが後悔が重荷となってしまうもう一つの理由ではないでしょうか。
私たちの祖先が長期にわたって暮らしていた世界が、状況がより単純であり、選択の失敗が常に生命の危険に直結していたと想定すれば、失敗してもからくも生きのびた人間が、二度と同じ過ちを繰り返さないようにと後悔することは、自己にとっても遺伝子にとっても機能的であったろうと思われます。しかし、状況が複雑で失敗する機会が増え、しかもその失敗が命にかかわるようなことはめったにない世界では、後悔してくよくよするより、失敗はすんだこととして忘れてしまう方が、自己にとっては機能的ではないでしょうか。
むろん、これは憶測でしかありません。狩猟採集社会が単純な社会であるとは限らないでしょう。その時代から後悔は自己にとってやっかいものだったかもしれないのです。
6 未来の選択
(1)未知の未来
未来は希望の拠り所ですが、その裏返しとして不安の源でもあります。よくないことがおこるかもしれないという気持ちは何からもたらされるのでしょうか。
一つは不運とみなされる経過です。運・不運は予測できません。規則的には起こりませんし、私たちの努力に見合うような起こり方もしません。不運の予測が可能であればそれに備えることができるでしょう。しかし、その場合でも、それがいつ起こるかのかが分からなければ常時備えざるを得ず、そのコストは高すぎるでしょう。あるいは、起こればどうしようもない不運というものもあります。私たちはそれが起こらないことを願うだけなのです。
もう一つは、起こるかもしれない事態への対処を適切にできるかどうか、自身への信頼が不確かである場合です。行動が「本能」的であるとか習慣的であるならやることは決まっていて、間違うことはほぼありません。環境が安定的で予測がほぼ可能であるならば、行動も定型的でかまわないのです。しかし、環境が多様であるとか変化がある場合、課題が想定外になることがあります。事前の見込みが立たず、やってみなければ結果の見当がつきません。やらねば成果は得られないが、成功の可能性がかなり低そうであれば断念せざるを得ません。
しかし、出来そうもないことをしないだけなら、不安は生じないでしょう。やり方によっては出来そうだけれども、どのやり方が有効かなのかが分からないとき、不安が生じます。出来たかもしれない方法を見逃し、出来ない(ありは不十分な)方法を選んでしまうことへの不安です。これは機会を見逃すという恐れでもあります。
このことは私たちに選択の機会があることの証に他なりません。私たちが未来を気にするのは、どのような行動をとるべきかの選択を迫られるからです。選択のメカニズムは以下のようでしょう。自分の行動がもたらす結果と、その行動にかかるコストを比較し、その行動の価値を見積もります。それとは違う行動が可能ならば、その行動についても同じように見積もります。出来るはずのない行動(体力、知力、技術などの不足により)は当然除外されます。そして、可能な行動のうち最も高い価値が見込めるものを選べばいいわけです。私たちは日常的にそうしています。
多くの場合、欲求(衝動・欲望)や感情が選択の問題を解決してくれているように思えます。その場合は選択肢があるように見えても、選択という問題はないはずです。どれが好ましいかを即座に決めることができるからです。
しかし、何が好ましいかが分かっていても、それを得るためのコストや可能性の考慮が必要になります。不確定な要素が多いと、ことはそう簡単ではありません。期待される結果をもたらすには様々な条件が必要ですし、その条件を見極めることも難しいのです。結果が不確実である場合や、行動の差がどのように結果の差に反映するのかが不明瞭である場合には、私たちは惑うのです。そして、何度も検討して最適な行動を探るのです。惑いは、私たちが柔軟な行動をとるためには必要なことであり、その意味で役立っていると言えます。
後悔を取り上げた際に触れましたが、現にあるのとは違った事態を事態を想定する能力が私たちにはあります。想像、予想、推測、仮想、幻想、妄想などと呼ばれているものを生成する能力です。未来に関する行動のせんたくについてもこの能力が使われます。この能力をシミュレーション能力と呼ぶことにしましょう。
これからなされるであろう行動のシミュレーションはどういうものでしょうか。行動の選択における指標は単なる概念では駄目なのです。つまり、ある選択が有利であると数値や言葉で示しても、それだけでは決断には至りません。ある結果が望ましいことを示すには、その経過と結果を仮想して疑似体験的な評価を得るようにしなければなりません。そして、ある行動を選ぶことが、そのときだけの結果ではすまず、将来に影響を与えるのであれば、そのことも考慮されねばなりません。長期的な時間の次元が入ってきます。
ほとんどのルーチン的行動はそのような選択をしないで(あるいは瞬時にすませて)、意識に昇るほどのことはありません。また、激しい怒りとか恐怖は他のオプションを検討することなく行動を引き起こすでしょう。シミュレーションの対象となるのは、予想される結果が明確でないとき、ある意図が妨げられて再検討を迫られたとき、結果が重大なので慎重にならざるを得ないとき、状況が新しくて予想の手がかりが見つけにくいとき、などが考えられます。困難な選択のときほど、シミュレーションの出番が多くなります。しかし、そのような場合には評価しやすい形でオプションを提供しにくいのです。選択においてシミュレーションが無力に思われがちなのはそのせいもあります。だからといって、シミュレーションが無用なわけではありません。シミュレーションが関与した方がわずかでも有利でありさえすれば、進化はその能力を発達させるでしょう。
(2)未来の実感
シミュレーションを使って判断する機能を知性と呼ぶことにします。知性という言葉には多くの意味が含まれていますので、この定義を厳密に守るのは難しいのですが。
様々なシミュレーションの中から、知性は適切ないくつかをオプションとして取り上げます。知性が提示するオプションが知性的なものであるのではありません。オプションの中から最適なものを選ぶのが知性的であるのです。では、最適なものとは何でしょう。それは私たちが一番望ましいものであり、やはり感覚、感情、欲求などと関連する次元のものなのです。
ところでオプションが提示されるのは行動の前です。行動の結果はまだ現実に手に入れてはいないので、その価値が明確には分かりません。価値を実感するのは知性の役割ではありません。であれば、実現されたときの状況が実感されるようにオプションが提示される必要があるでしょう。たとえば、いま実感している状況をそのまま続けるか、将来の状況のために断念するかの選択をしなければならないとき、将来の状況が今の状況と同程度に実感できなければ、常に現在の状況が選択されてしまうでしょう。
それゆえ、オプションとして私たちが想起する状況は、実感的なシミュレーションでなければなりません。シミュレーションにはいわば感情的色どりがついていると言えましょう。期待は記憶と同じように感情を伴っているのです。
ただし、望ましいものを得るためのコストも考慮されなければなりません。いくら価値が高いものであっても、それを得るために様々なコストがかかるのであれば、差し引きの利益はさほどではなくなります。コストには不確実性や享受の遅延も含まれます。であり、将来の不確実性とは別に考慮されねばならないでしょう。むろん、かかるであろう労力や耐えねばならない苦痛などはコストの中核となります。つまり手間ひまがかかるという実感がシミュレーションの中に組み込まれねばならないのです。それはどのようなシミュレーション体験でしょうか。あまり複雑なものであっては実際的ではありません。私の仮説として、それは「めんどくさい」「おっくう」「大変」などという感情ではないかと思われます。そういう感情が勝れば、そのオプションは採用されないことになります。
私たちにとって選択は重荷といえます。つまり選択にもコストがかかるのです。慣習に従ってルーチンワークをすることで選択のコストを回避することができます。しかし、選択の機会を放棄してしまうことは、進化的に不利となります。好奇心というのは、選択のコストを相殺する機能があるのかもしれません。
ところで、シミュレーションの機能は危険な要素も含んでいます。それが実現する前に実感をもたらすのであれば、あえて実現の努力をしなくとも、シミュレーションだけですませてしまうのではないでしょうか。空腹のときに御馳走を思い浮かべるだけでは腹の足しにはならなりませんが、何らかの慰めにはなります。好きな異性と一緒にいることを想像するのは、かなりの満足を与えてくれます。しかも、実際にお目当ての異性が当方に少しも興味を示してくれない場合には、想像は現実以上の満足をもたらしてくれます。実現が困難だと判断されても(それゆえ一層?)、想像は快いものとなります。想像は行動を導かずに、非行動で満足させてしまいます。これは遺伝子が目指すものではありません。ここでも私たちは遺伝子からちょろまかしているのです。シミュレーション体験が欲求の対象となるのです。
また、シミュレーションはいまあり得ていなことを想起することですから、あり得ないことをも想像することは可能です。たとえば、道具を使わないで空を飛ぶことも想像できます。その想像の中では、移動や俯瞰などの叙述的なものだけではなく、それらの与える情感も知覚できます。そのような想像をオプションにしてしまったら、選択を誤ることになるでしょう。
その意味では、シミュレーションに一定の制限を設けた方がより機能的であるように思えます。しかしそのような機構は難しそうです。現実的な制限を設けることはシミュレーションの機能を損なってしまうからです。
シミュレーションというのは不確かです。将来が確実であったら、シミュレーションというものは必要ありません。シミュレーションのどこまでを現実的とみなすかは難しく、あいまいな境界は残ります。人は希望を棄てきれません。そして希望が人を生かすこともあります。幻想もまたそうです。幻想がつらい現実を耐えやすくすることもあります。
私たちが楽観的な予想を抱きがちなのも、不快な予想よりも快い予想の方が好ましいからです。情報にしても、不利な、それゆえ不快な情報は避け、有利な、それゆえ快い情報を受け入れようとします。
これは遺伝子とってジレンマです。シミュレーションに実感を備えつけさせなければ、未実現のオプションは採用されることはないでしょう。しかし、シミュレーションの実感が満足を与えるのであれば、シミュレーションだけで満足してしまう可能性があります。それどころか、いっそうの実感を求めて実現可能性のないシミュレーションに溺れてしまうおそれだってあるのです。
遺伝子とってこの解決は実行にまかすしかありませんでした。シミュレーション能力が十分ではなかったり、逆に過剰である個体は、生存の可能性が低いはずです。生き残った個体は、適当なシミュレーション能力を備えているでしょう。むろん、確率の問題ですから、ある程度の範囲に収束するであろうし、時には特異な個体も出現するかもしれません。
そして、これは芸術や娯楽にも関連してきます。人生におけるそれらの役割の重要性については異論はなさそうです。しかし、ある人々はそれらを有害なものとして排除しようとします。生きることにおいてそれらが必須であるかどうかは分かりません。それらのない人生は味気ないかもしれませんが、生存することにおいて不利とは言えないでしょう。それらは甘味料のようなものかもしれません。取り過ぎは悪いのは明白ですが、全くとらなくても寿命が縮むということにはならないでしょう。適度にとるということが健康に与える影響は不明としか言いようがありません。ただ、楽しみが増えるということなのです。
(3)選択の自由
私たちが行動を選択するとき、私たちのことを私たちと同じように知っている誰かがいたら、彼は私たちの選択を予想することができるでしょう。私たちは自由な選択をしたつもりですが、他人がそれを予想できるということは、それがある種の「必然」であることを意味しているのではないでしょうか。可能なことは何でもできると私たちは思い込んでいますが、それは幻想なのかもしれません。
たとえば、あなたがどこかの町へ行くために道を歩いていたとします。しばらく行くと道が日本に分かれていました。どちらの道を選ぶべきでしょうか。あなたが既にその道のことを知っていたり、そこに道標があって行き先を示していたりしたら、あなたは迷うことなく行くべき道を選べます。しかし、あなたにとってそこが未知の地域であり、目的の町を示す手がかりが何もなかったとしたら(もちろん、地図やスマホも持っていません)あなたは選択を迫られることになります。あなたはどちらの道でも選べます。その選択において自由です。
むろん、現実のあなたは手がかりを探すでしょう。方向や道の状態を検討し、適切な道を知っていそうな人がいないかと見渡します。有効な手がかりが何もないとしたら、何の根拠もなくあなたは道を選ばねばなりません。逆に言えば、その選択はあなたの意思のみによってなされるわけです。
選択の諸対象(複数のオプション)のあいだに価値の差を見つけられないとき、私たちは迷います。可能なものの中から何を選んでもいいというのは、選択の自由があるということですが、決めることが難しいということでもあるのです。
どちらにしてもいいし、どちらにするかはまさに私たちの意思にかかっています。それこそ自由意思が機能している証拠であるように思えます。しかし、この迷いこそが自由意思の無力を表しているのです。どちらにするか決められないのです。どちらでもいいというのが私たちが自由意思を感じるときです。
ビュリダンのロバという哲学上の問題提起があります。二つの同じような干草の中間にいるロバは、どちらの干草を食べていいか決断を下せず、ついには餓死してしまうのではないかという問いかけです。どちらでもいい選択に困惑する私たちは、このロバと同じ立場にあるわけです。
このような場合、決定を他の何かに委ねることもできます。たとえば、サイコロ投げによって決めるのです。賽の目という偶然に決定をまかせることによって、選択の責任から免れることができます。人の手によらない(人間の意思が介入しない)という意味で、偶然というのを天意とみなすこともできるかもしれません。
つまり、オプション間で評価の差が付けられないとき、あるいは、オプションが一つしかないときという両極端の場合は、あなたの選択はあなたの意思に関係しません。
自由な意思による選択が問題になるのは、あなたの選択が他者によって妨げられるときなのです。
8 利己主義
(1)自分のことが第一
人間の本質は善なのか悪なのか、この問いは歴史を通じて投げかけられ続けてきました。それに答える様々な考えも表明されています。単純な分類をすれば、一方に性善説(人間の本質は善であるという考え)、他方に性悪説(人間の本質は悪であるという考え)があり、中間に、常識的な考えとして、人間は善でも悪でもありうるというものがあります。
むろん、人間の本質と善悪の関係を考えるというのは、単に自己自身を理解したいという知的な欲求を満たすため(だけ)ではなく、人間に善をなさしめるにはどうすればよいかという実践的な課題のためです。ただし、人間の行動に対する実際の規制は、悪を抑えることに焦点を当てています。なぜなら、善がなされるならばそれは放っておけばいいことであるのに対し、悪を放置することは共同体の危機になるからです。もちろん、善を奨励することも重要なこととされていますが、そのための施策としてはほとんど言葉によるものに限られます。善行に物的な報酬を与えることは善の性質に反するとみなされているからです。子供に対して何が善であるかを教えるために物的報酬が用いられることはありますが、成人であれば善悪判断に利害関係を絡ませることは過ちとされます。
ところで、人間本質善悪論には善悪判断は自明のことであるという前提があります。善悪が状況によって変わってしまうのであれば、善行も悪行も人間の本質とは言えなくなるでしょうから。では、善悪とは具体的何を指しているのでしょうか。
個々の行為についての判断については意見が分かれるでしょうが、一般的には、利己的な行為は悪、利他的な行為は善とされます。利己的な行為にこだわることは利己主義とみなされ、非難の対象となります。人間本質善悪論は、人間は本質的に利己的であるのかどうかという問いと同じであると言えます。
利己主義については次の二点が合意されるべきだと思われますが、一般的には必ずしも明確にされていないようです。
①自分のことを第一に考えるというだけでは利己主義とみなされない。
②利己主義とは他人に損害(損失)を与えることを気にせずに自己の利益を追求することである。
まず①について考えてみましょう。自分の利害を優先するのはヒトが生きていくうえで重要ですから、そのこと自体だけでは悪とはみなされません。たとえば、孤島で一人で生活している人を考えてみてください。彼が好きなように生きていくことについて、(文化的背景を無視するなら)善悪の判断を下すのは彼以外にはいません。彼にとって都合のいいものが善であり、彼にとって都合の悪いものが悪とされるでしょう。この態度は明らかに自己中心的ですが、彼を利己主義者とはいえないでしょう。善悪を好悪とは別のものと考えるのなら、彼には善悪の区別はないとも言えます。つまり、利己性というのは他人の存在があってこそ規定されるものなのです。
そこで②の規定が必要になります。これを逆の言い方にすれば、他人に利益を与えなくとも、それは利己主義ではないということになります。他人に利益を与えるかどうかに関係なく、損害さえ与えなければ、利己主義ではないのです。つまり、私たちが通常行うことのほとんどは利己主義ではないのです。そのように考えることは私たちが社会生活を営むうえで適切であり、必要でもあるでしょう。
では、利他主義はどう考えられるでしょうか。単に他人に利益を与えるだけでは利他主義とはみなされません。そのことで損失を引き受けるでもなく、ましてや自分も利益を得ているのであれば、特に評価されることではありませんから。利他主義とみなされるのは、自分が損失を担う場合です。極端に言えば、結果として他人の利益にならなくとも、他人のために損失を引き受けることは利他主義とみなされます。
つまり、私たちの行為は、利己的なものと利他的なもの以外に、自分の利益と同時に他人にも利益になる、あるいは、自分の利益にはなるが他人には影響を与えないというものがあるのです。もちろん、行為は意図したとおりの結果をもたらすとは限りません。意図せざる結果を考慮にいれると、話はさらに複雑になります。
さて、とりあえずは意図された行為に限るとして、私たちの行為は利他的な行為とそれ以外の行為に分類され、後者は自分の利益を目指すものですが、その一部に利己的な行為が含まれるということになるでしょう。利他的な行為を除くなら、私たちの行為は自分の利益を追求するためになされると言うことができます。そして、人間は自分の利益を求める存在であるが、そのことが直ちに利己的であることを意味するのではないということになります。
そういうことから、悪とは利己的である(自分の利益のために他人に損害を与える)ことであり、悪を避けることが善であるという道徳があり得ます。つまり、利他的である(他人の利益のために自分が損失を被る)ことを積極的に求めず、利他的でないからというだけでは悪にはならないということです。他人に損失を与えないようにしさえすれば、善人とされるのです。その背景には、市場の発達によって自助努力による生活維持の可能性が拡大したことがあると思われます。資本主義に伴って発展してきた市民的道徳はその典型でしょう。
(2)利他性はあり得るか
利己的行為についてはいろいろ問題が生じます。たとえば、「他人の損失」とはどの範囲までを言うのでしょうか。あなたが価値の高いもの持っていたり手に入れたりして、他人に嫉妬や羨望を抱かせることは、「他人の損失」になるのでしょうか。あるいは、多くの人が欲していて、しかも数が限られている貴重なものを、あなたが正当な手続きで手に入れて、結果として他人にそれを獲得できないようにしてしまった場合、そのことを「他人の損失」に含めるべきなのでしょうか。
そういう疑問を封じるためには、「嫉妬や羨望」は不道徳的なものであるとして考慮の外へ追いやる必要があります。そうなると、市民的道徳はそれほど単純なものとは言えなくなってきます。なぜなら、自分のことを優先するのが自然であるなら(市民的道徳の基礎にはそういう考えがあります)、「嫉妬や羨望」もまた自然なことであると言えるかもしれないのです。いずれにせよ、どこかで線引きをしなければなりません。
利他性偏重への批判として、積極的な自己利益追求の擁護論があります。18世紀前後に、資本主義経済の発展を目の前にして、何人かの人は、自明とされた善悪判断そのものが問題視されなければならないということに気づきました。そこから出てきた考え――経済学に発展するもの――は衝撃的なものでした。その考えによれば、経済的行為において自分の利益のみを追求することは、結果として社会に善をもたらすので、非難すべきことではなく、むしろ推奨されるべきだというのです。
より穏健な擁護論では、資本主義経済の基礎をなす自発的交換は、当事者双方の利益になることであるから非難されるべきではないというものです。経済取引が搾取的なものであるならば人は自発的に応じるはずはなく、自発的であることが搾取的ではないことの証明である、ということになります。
一方、積極的な擁護論は、経済取引は当事者だけではなく、経済を発展させることによりその社会に属する全員の利益になることであるから、悪ではないばかりでなく、利他的でさえあると主張します。経済取引には正の外部性があるというのです。経済取引は、当事者以外の人にも利益になることでありながら、当事者が自己が損害を被る必要はないのです。自己の損害の上に成り立つ利他性というものはもはや求められることはなくなるのです。
さらに、追い打ちをかけるように、近年の遺伝的進化論はそもそも利他性というものはあり得ないと主張します。遺伝的進化論は人間というのは「自分のことを優先する」存在であるとみなす考えです。その考えのもとでは、「自分のことを優先する」ことを利己主義としてしまえば、「人間というのは利己主義的存在である」ということになります。だとすれば、そもそも利他性ということを独立して取り上げる意味がなくなってしまいます。「自分のことを優先する」のであれば、自己の損失を受け入れることはできないはずですから。
もし、「自分のことを優先する」のが人間の本性であるなら、人間が純粋に利他的であることは不可能になります。人間が利他的行為をするのは、その人自身の思いとは関係なしに、その行為が自分自身の利益になっているからなのです。たとえば、すぐに見返りはなくとも、将来的に利益が見込めるために、当面の損失を容認するという解釈になるでしょう。つまり、利他主義の利己主義的解釈です。
しかし、そのような解釈で全てを説明しきれるかは疑問です。たとえば、利他的行為が賞賛されるのは、他人のそういう行為によって当事者でない私たちにも利益になるからだという解釈があります。しかし、自分の利益になるかどうかが確実でもないのに、他人を指嗾するというコストをかけようとするでしょうか。利他的行為が賞賛されるのは、そういうことが現実に起こる可能性がそんなに低くないからではないでしょうか。確かに、他人の利他的行為にただ乗りすることは利益になります。だからといって、その利他的行為が単に使嗾によるものだとは限らないでしょう。利他的行為があり得るからこそ、それを利用しようとすることが起こります。つまり、利他的行為が賞賛されるのは、利他的行為というものがあり得るという思いがあるからなのではないでしょうか。その思い自体が「自己欺瞞」であるとされるかもしれません。本当にそうでしょうか。
(3)マナー
利他性そのものを検討する前に、社会における利他性と利己性の扱いについて触れておきましょう。
人が困っているのを知り、かつ、その人を助ける能力がある場合、その人の困窮を見過ごすことは利己的ではないのでしょうか。例えば、車いすやベビーカーが段差を乗り越えられないでいるとき、知らぬ顔して通り過ぎることはどうでしょうか。
周りの状況が援助可能者の行為に影響を与えることが予想されます。もし、困っている人と通りかかった人しかそこにいない場合、多くの(あるいは一部の)人はそのまま通り過ぎることにさほど抵抗は感じないでしょう。しかし、困っている人の傍にいるのは援助可能者だけですが、やや離れたところに何人かの人がいて、援助可能者の行動を見ている場合、通り過ぎてしまうことにためらう人は増えると思われます。さらに、困っている人の傍を多くの人が通っていれば、平気で通り過ぎる人は非常に多いかもしれません。誰かが助けるだろうから、自分が助ける必要はない、という気持ちが正当化されやすいのです。
個人的な差異を無視するとすれば、他者の存在は利他的行為に影響を及ぼします。さほど大きな犠牲を伴わない利他的行為は、一般的に期待されるのです。特に弱者とみなされる人たちに対する援助は、するのが当然とされます。それは強制されるものではないけれども、それをあえてしない人の評価は低くなります。つまり、利他的行為をしなければインフォーマルな罰が課せられるのです。法律と同じように、それには決まりがあります。それがマナーなのです。もちろん、マナーは集団によって違います。
払われる犠牲が大きくなれば、困っている人を援助しないことへのサンクションは弱くなります。たとえば、プラットフォームから線路へ人が落ちた場合、列車がせまって来ているのであれば、その人を助けるために線路に降りなくとも、非難は受けないでしょう。現に、そういう状況で命を落とした人もいます。そういう場合でも人を助けようとした人は、強く称賛されます。しかし、彼らが賞賛されるのは、彼らが特別な人だからです。マナーを越えるような状況では、利他的行為は賛美されますが、しなくてもインフォーマルに非難されず、むろんフォーマルに罰せられることもありません。
むろん、マナーだからという理由ではなく、困っている人を助けたいという気持ちから利他行動をする人は少なくありません。たとえば寄付などは他人に知られることがなくても実行されます。むしろ、他人に知らせることは売名行為ではないかと疑われます。ただし、政治的寄付などは、自らの立場を有利にする政策とか、自らの理念の実現などを望むために行うのですから、利他的とは言えない面があります。
また、ある集団内でその集団のメンバーの誰かを援助するということが行われます。これは相互扶助というものです。確かに援助するメンバーは費用を負担しますが、見返りが期待できるのです。自分が困ったときには、今度は他のメンバーから助けてもらえるのですから。これは保険と同じシステムです。これは利他的行為とは言い難いでしょう。
では、国家が困窮者を援助するのも相互扶助でしょうか。社会保険などにはその性格があります。しかし、国民の間には所得格差があり、費用を負担できる能力にも差があります。国家は富めるものから多くを徴収し、貧しいものに移転します。所得の再分配をするのです。これは公的な利他行為であり、その動機(為政者の意志なり、国民の総意)には利他心もあるでしょうが、国家のまとまりを維持し、発展を阻害しないという現実的な目的意識も大きいでしょう。
一方、利己的な行為は一般に犯罪として罰せられます。しかし、その行為による損害が小さく、しかも罰するコストがその損害に比して高すぎれば、見逃されます。
たとえば、大勢の人が限られた入口を通ろうとするとき、行列などが形成されることがありますが、後から来た人がそれを無視して先に入ろうとしたら(横入り)、それを咎める人はどのくらいいるでしょうか。横入りによる損失(入場などの遅れ)は、咎め立てして反撃されたら受ける損害よりも少ないでしょうから、黙って見過ごす人は多いでしょう。
もし、多くの人が咎めようとするなら、そのような人も同調するでしょう。しかし、横入りする人が多くなったら、その人もきちんと並ぶのをやめて横入りしようとするかもしれません。そうなると行列は崩れ、人々は入口に殺到するでしょう。
また、よく見られるのがゴミのポイ捨てです。ゴミが公共の場所のそこら中に散乱すれば、景観や衛生に悪影響を与えます。それを迷惑に感じる人は多いでしょうが、各人が独自にそれを防ごうとするのは負担が大き過ぎます。たまたまゴミを捨てる人を見かけたとしても、それを注意するには勇気がいります。不当な反撃にあったり、無視されたりしたら、肉体的ないし精神的に傷つくおそれがあります。捨てた人がゴミをそのままにして去ったならば、注意をした人がそのままにしておくことは難しくなります。ゴミを放置しておくことは、ゴミを捨てた人と同じ立場に自分を置くことになってしまうからです。結局その人はそのゴミを自ら片づけざるを得なくなるでしょう。
ゴミが散乱した地域では、ポイ捨てへの注意は空しくなります。新たなゴミが追加されようと、それを阻止しようと、ほとんど変化は起こらないからです。逆に、きれいな地域ではゴミを捨てることをためらわせるでしょう。地域のゴミの状況の違いは、マナーの違いを現していて、そのマナーの水準から外れることはサンクションを受ける可能性が高くなります。
フォーマルな法は重大な利己的行為とみなされるものは罰しようとしますが、その範囲を慎重に限ります。範囲を広げたとしても、それを罰する能力(資源)がなければ、法に対する一般的な信頼を損なってしまうからです。社会がある程度の利己的行為に耐えられるのであれば、為政者はそれを放っておくでしょう。
法を補完するのがルールとしてのマナーです。マナーをあえて無視して(小さな)利己的行為をする人は、悪い評価を受けることになります。
つまり、利己的でも利他的でもない行為の両側には、若干利己的である行為と若干利他的である行為という二つの帯が、許容されるものとしてくっついているのです。そこでは自然発生的とでもいえるルールにより、利己性を抑え利他性を喚起しようとする傾向が見られます。
9 利他性
(1)法と道徳
さて、これまで検討してきた利己性と利他性の関係をまとめてみましょう。行為においては意図されたもの(実現前)と結果(実現)は必ずしも一致しませんが、意図から見た行為は次のように分類できるでしょう。
A:強い利己的行為(禁止される)
B:弱い利己的行為(マナーによって抑制される)
C:利己的でも利他的でもない行為
D:弱い利他的行為(マナーによって指示される)
E:強い利他的行為(賛美されるが強制されない)
Cには自己にも他人にも同時に利益を与えること(いわゆるwin-winの関係)も含まれます。このように分類すれば、多くの行為が、少なくとも意図的には、利己的でも利他的でもないということで、Cに含まれるでしょう。Cに分類される行為は、自己の利益にのみ注目すれば利己的とされ、他人への影響という観点から利他的とされることもあります。これが事態をややこしくさせてしまうので、ここでは、利己的・利他的という言葉を、上記の分類の意味で使うことにします。
もちろん、結果の判定というのは難しいことです。その時点では影響は見られなくとも、長期でみれば、あるいは因果の系列を長くたどれば、何がしかを確認できるかもしれません。また、嫉妬のような感情が起こることを損失とみなせることもできるでしょう。その辺りは常識的に判断するしかありません。
よき意図のもとに悪い結果をもたらしてしまうことを利己的と言うことは、悪い意図のもとによい結果を招くことを利他的と言うのと同じに、道徳的観点を混乱させます。前者は愚かであり、後者は幸運だったということに過ぎません。もちろん、愚かであることは重大な欠点です。結果は行為の善し悪しの判断の対象となります。そして責任追及の基礎となります。しかし、結果からだけでは意図の善し悪しを推し量ることはできません。あくまで意図が問題視されるのです。
さて、利己性が嫌われ利他性が好まれる理由は明白でしょう。他人が利己的であると私たちは損害を被るから嫌うのであり、他人が利他的であれば私たちは利益を得るから好むのです。しかし、自分自身が利己的であれば利益を得るし、利他的であれば損をします。このことにどう折り合いをつけるのでしょうか。
集団という、他人とともに暮らす環境では、利己的な行為のみを制限することが一つの方法です。つまり、利己的な行為は禁じるが、利他的な行為をしないからといって罰は与えないというルールを作るのです。それが刑法に当たるでしょう。刑法はAをその範囲とします。
Cについては、当事者に任せればいいのですが、そこには見解の相違からくるトラブルが発生する恐れがあります。共通の基準としての取り決めが必要であり、それが民法や商法に当たるでしょう。民法や商法はいわば手続き的なルールであり、Cをその範囲としますが、BやDも含まれるのかもしれません。
実はこのようなシステムはアダム・スミスの道徳論に親和的なのです。アダム・スミスは、法の根拠となる「正義」は社会を支える柱であるから必須ではあるが、「慈恵」は建物の飾りでしかないから、なければ華やかさに欠けるけれども、社会が崩壊することはない、とみなしました。スミスの言う正義とは、他者を侵害するべきではないということに限られます。つまり、利己的行為(A)の禁止です。それ以外の行為については当事者の自主性にまかせるのです。
Cの領域では、自己が欲する行為は他人に無害であるか有益であるのですから、抑圧される必要も奨励される必要もありません。
一方、DやEの領域は同感という感情によって自然発生的に生まれることが期待されます。そのメカニズムは次のようになります。困窮している人の悲しみや喜んでいる人の喜びを見ると、同じ感情が起こります(同感)。同感された悲しみは不快なので人はそれを減少しようとし、同感された喜びは快なので人はそれを増加させようとします。つまり他人の感情を変化させるために他人の状況に干渉しようとするわけです。それが利他的行為です。
ただし、当事者の自主性にまかせるとしても、各人の立場や考え方の違いから、不公平が生じる可能性があります。スミスは「中立的な観察者」というものを想定し、それを各人が心の中に持つべきだと主張しました。しかし各人の心の中の普遍的な「中立的な観察者」とは、理念とか原理、あるいはマナーといったものであり、スミスが依る道徳感情論とはそぐわないと思えます。そもそも、スミスが正義の基礎としたのも、侵害した人に対する侵害された人の憤慨への(第三者としての)同感であり、それが侵害した人への罰を生み出すのです。もし、正義が理念や原理として機能するならば、同感という感情は必要なくなります。
ところで、スミスはEの領域を扱いかねています。利他的な行為はそれがもたらす喜びによって行為者に利益になるゆえになされる、というのがスミスの主張です。喜びの内容は、主に被援助者の喜びへの同感ですが、被援助者からの感謝、他者からの賛美、自己自身の努力に対する満足などが加味されます。スミスは利他的行為の本質は利己的行為であるとしているので、当然、利他的とされる行為による利益(喜び)はそのコストを上回らなければなりません。しかし、自らを滅ぼすほどのコストを担ってまで利他的行為をする人がいるのも事実です。そこまで行かなくとも、感情的な満足では補えないようなコストを担う例は少なくありません。その人たちを突き動かしているのが理念や原理であるとしたら、道徳感情論はそのような理念や原理による行為は道徳的ではないと主張すべきでしょう。あるいは、そのような理念や原理が感情を喚起するのであれば、感情そのものをもっと分析すべきでしょう。
(2)理性と道徳
Eを道徳の中に組み込むためには、利己心を抑える機能を私たちの中に見出すという方法もあります。カントに典型的に見られるように、それが理念なり原理とされるものです。理念や原理は理性によって見出されます。
カントは道徳を義務的なものとして捕えました。道徳が社会の調整機能を果たすなら、それは義務ではなくて便利な道具であり、負担とはならないはずです。なぜそれが義務でなければならないのでしょうか。
カントは、主体の行為が、それが及ぼす影響下にある人全て(主体を含めた)にとって、公平な結果をもたらすべきであると考えました。もちろん、その行為が道徳的であるためには、結果は利益をもたらすもの(損失を減少させる場合も含めて)でなければなりません。少なくとも、他人に害を及ぼすものであってはならないのです。そういう条件下においても、行為の選択肢がいくつかあり、その中には結果が偏るようなものもあります。極端な例では、他人には益にも害にもならないが、行為の主体にだけ利益をもたらすような行為が考えられます。カントは、特定の人間(たとえ行為の主体ではなくとも)の立場を優先する視点をとることは、道徳的ではないと考えました。行為に影響を受ける全ての人の視点に立つことで、特定の人を優先することから免れているべきだとしたのです。
つまり、たとえ他人に害をもたらさないとしても、自分の利益を優先することは道徳的ではないことになりますので、道徳的であることは利益を上げられるかもしれない機会を放棄することに他なりません。道徳は社会の全ての成員に利益を与えることを目的としますが、特定の機会における特定の個人の利益については認めないことが、人々に義務(費用負担)感を持たせるのです。
しかし、そのことが理性によって直接導き出されるとは言えないでしょう。少なくとも他人に害を与えなければ、自己の利益を追求することはゆるされるという道徳も成り立ちうるからです。そのような道徳からカントの道徳まで、利益の分配についてあらゆるパターンが考えられます。そのうちのどれを選ぶかは、理性によっては決められません。
そもそも、なぜ他人の利益を考慮しなければならないのでしょうか。他人に害を及ぼせば協同は成り立たず、その結果協同による利益が失われるということは理解できます。しかし、協同でない行為から得られる利益を、自己だけのものとせずに、他人にも分かち与えるべきなのはなぜでしょうか。自由主義的な考えからは、自発的な交換によって得た利益は当事者に属するものであり、所得再分配をすべき正当な理由などないのです。
では、自由主義者に対する反論を考えてみましょう。まず、嫉妬による悪影響が思いつきます。しかし、嫉妬は理性的ではありません。理性的でないものを無視するのは理性的ではないのですが、ここでは理性は理性のみを相手にすると考えましょう。唯一打ち出せる理由は、人間の行為は全て(たとえ独力で成し遂げたと見えていても)協同的であるということです。この理由は理性を十分に納得させるものではありません。ただし、社会的な行為を全て交換に還元できないことは、自由主義者でさえ認めるでしょう。ですから、問題は、どこまでが協同行為であり、どこからが商売(自発的交換)にできるかということです。そのことを決めるルールを作ることが理性の役割ということになります。ルールが明確にされれば道徳は必要なくなるでしょう、ただし、ルールが常に守られるのであれば。ルールが守られねばならないのは、そうでなければルールが崩壊し、社会が成り立っていかないからです。そのことを理解していれば、ルールは守られるでしょう。理性はそう期待します。
しかし、ルールでさえ守らせるには理性では足りません。強奪や詐欺を防ぐには、強制力が必要になります。それは理性が不足しているからでしょうか。しかし、ルールを破れば(短期的かもしれないが)利益を得られる機会があるときに、それを見送るためには理性だけでは十分ではないようです。
理性や合理性はそのような利己的なものではないという意見もあるでしょう。理性や合理性はそのような目の前の損得計算に汲々とするものではなく、長期的・総合的・全体的な視野に立って物事を判断するものであり、ある種の尊厳を備えているものである、そう言いたいのかもしれません。理性を道徳の根本にすえたい人たちの願いがそこにあります。理性にさまざまなハクをつけることが、理性主義者たちの仕事になります。あるべき理性を祭り上げ、そこにできるだけ近づくことを人間の責務とするのです。
しかし、理性や合理性は所詮は手段に過ぎないのです。手続きとしての制約は与えてくれますが、目的までは与えてくれないのです。
社会的な観点から言えば、道徳とは他人を害する行為をいかに抑制するかということに主眼があります。利他性には違う根拠が必要なようです。
(3)集団と道徳
荒っぽい定義をすると、道徳とは社会生活を円滑に営むための約束事です。その約束を守るために成員各自は相応のコスト(利益の断念を含む)を支払うことを余儀なくされますが、それによってそれ以上の利益を得ることができるとされます。ここには利他性を含む必要がありません。確かに、私たちは、特定の個人ではない、いわゆる社会と呼ばれるものに対して負担を引き受けるのではありますが、社会の中には自らも含まれているので、他人事ではないのです。負担はそれ以上の見返りが期待されるのです。
このように定義された道徳であるならば、理性的に理解できますし、利己性を捨て去る必要もありません。
さて、このように定義された道徳には、何か欠けたところがあるでしょうか。道徳的な人とは、自らのことを第一にするのではなく、他人に尽くすことを信条としている人、というようなイメージがあります。実感としても、道徳を守るということには、他人の利害に配慮して自分の欲望を抑えることのように思えます。しかし、そのことが道徳が一義的に利他性と結びついていることを示しているわけではありません。道徳が守られることによって何らかの利益を得ているなら、純粋な利他的行為とは言えないのですから。そのことを意識しているかどうかは別の問題となりますが。
道徳に利他性を含ませるには、集団を成り立たせることにおいて各成員が相応の役割を果たしており、彼ないし彼女が欠けることは集団の損失になる、という見方を導入する必要があります。成員の一部が困難な状況に陥ってその役割を果たせないとき、彼らを助けて少なくとも元の状態に戻そうとすることは、集団の他のメンバーにとって利益となります。共同体は協働体であるゆえに、互助が合理的であるということになります。
しかし、社会を成り立たせているのは協働ではなく、個々人の行為の集積でしかないという考え方もあります。自発的交換によって結びつけられた集団の成員は、お互いに助け合おうとしているのではなく、自己の利益の追求が相手の利益にもなるという関係によって集団を維持しているにすぎないのです。そこで防がねばならないことは、何らかの強制的な力によって交換の自発性を歪めることです。そのために集団の成員は協力して抑止力を組織します。公的な機関はそれが役割であり、それ以上のこと(たとえば所得再分配)をするのは越権行為なのです。結果としての差異は、努力や能力や運などに左右されますが、それを個人の責任とすることはできないので、是正する理由にはなりません。これはスミスなどから始まる自由主義思想の考えで、たとえばロバート・ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』(1974年)に典型的な表現がなされています。
一方で、全体という視点を必要とせずに(利己心のみを使って)、所得再分配を説明しようとする試みもあります。行為の結果は各自の責任になりますが、災害や病気や失業などで困窮する人が出てきます。このような不運は誰にでも起きる可能性があり、それに対して集団的な相互扶助の仕組みが形成されることもあります。これは社会保険の一種であり、各メンバーが保険料に相当する負担を担いますが、低い確率でも困窮に陥ったときには援助という受益を得ることができます。このような考えを理論化したのが、ジョン・ロールズの『正義論』(1971年)です。ロールズは「無知のベール」というものを想定して、未来の自分の状況は不可知であるから、少なくとも最低の状況にある人への援助を制度化することにより、そのような状況に陥ったときの保険にするのが合理的であるとしました。
ところで、個人の成果を個人のものとして認めた場合でも、その影響が波及することが問題になります。行為の結果が累積して個人間に格差が生じ、その格差が世代によって累積されると階層が形成されます。階層間の軋轢が生じると、社会の分裂や崩壊を招きかねません。そのため、富めるものから貧しい者への再分配が制度化されることもあります。これはまさに利他的な行為ですが、社会の安定は富める者にとっては受益になるのですから、一種の取引と言えるでしょう。
このように、個人的にしろ社会的にしろ、利他的行為を説明ないし基礎づけようとする試みはいくつもあるのですが、Eの領域は取り残されています。Eについてはフォーマルなものにしろインフォーマルなものにしろ、ルールは適用されません。
なぜ、人は、強制されるわけではないのに、利他的に行為することがあるのでしょう。なぜ、人は、自分に直接利害の関わりがないのに、他人の利己的な行為や利他的な行為に反応するのでしょう。
もし、利他性に、よいことをしたという満足、他人から称賛されるという喜びなどの心的な報酬が期待されるならば、それが動機となりうるでしょう。しかし、そのようなものを期待して利他的行為をするなら、利他的行為と他の行為とを区別するのはできないことになります。
(4)利他的遺伝子
カントが道徳的行為から喜びを追放しようとした気持ちは分かります。喜びのようなあやふやなものを道徳的行為の基礎になどできないからです。行為に喜びか伴わなくとも、なされるべきことはなされねばならないのです。それどころか、喜びのようなものが伴うことで道徳判断がゆがめられないように、一切の道徳的行為は喜びを度外視しなければならないのです。そればかりでなく、道徳的行為が尊ばれるものであるならば、その遂行には困難が伴うはずです。誰でも手軽にできるのなら、尊重する必要などないのですから。
しかし、シラーが皮肉ったように、私たちは友達を助けるのに、いやいやするのではなく、喜んでするのです。むしろ、いやいやながらよりも、喜んでする方が道徳的に称賛されるべきではないでしょうか。
事態を複雑にしているのは、先に述べたように、行為それ自体が報酬を伴うという視点です。全ての人間的行為が心的報酬を求めてなされるのであれば、動因という点では、利己的行為も利他的行為も同じになります。
行為が報酬づけられているということは、その行為が遺伝子にとって好都合だからなのですが、私たちには必ずしもその好ましさが理解できるとは限らないのです。その行為が私たちには損失と見えていても、遺伝子にとっては利益である場合、私たちはやらざるを得ないのです。利他的な行為は後悔などと同じような構造を備えているのです。
整理してみましょう。自己保存の観点からは、生物は自己の利益を目指すはずです。そういう意味では人間の行為は全て自己の利益を求めるという意味で合理的であるはずです。結果として得られなくとも、意図としては利益を見込んでいたのなら、やり方が合理的ではなかったとしても、行為自体は合理的であったのです。短期的には損失と見える行為も、長期的に利益を得られる見込みがあるのであれば、合理的です。それゆえ、行為はすべて合理的=利益追求的な行為であるはずです。
しかし、自我(意識)が利益とみなしていることが、遺伝子の求めている利益と同じとは限りません。前者は後者の媒介項でしかないかもしれないのです。
本来は自己利益追求である行為が利他的とみなされるということの説明の一つが自己欺瞞という考え方です。
遺伝的進化論の主流の理論は徹底的に個人的です。ある人が他の人を援助するだけで見返りを求めていないとき、実は見返りは時間をずらして行われているのだとみなします。援助は時間をかけた交換(取引)であるわけです。援助を受けた者は債務を負うことになり、援助をした者は債権を取得します。負債はいつかは弁済されねばなりません。弁済できない者、しようとしない者は、このサイクルから排除されて、援助を必要とするときに援助を受けられなくなります。つまり、利他的行為に見えてはいるが、実は交換の片方にすぎないことになります(互恵的利他主義)。
このようなメカニズムがあれば、集団選択論は必要ないことになります。集団選択論とは、お互いに助け合う傾向がある集団は、そうでない集団よりも生き延びる確率が高いので、後者が淘汰されて前者における傾向が普遍化した、というものです。集団選択論への批判は、そのような集団にはフリーライダー(援助は受けるが援助はしない)が発生し、彼らの方が効率がいいので彼らのやり方が支配的になってしまう、というものです。
しかし、私たちが人を助けようとするとき、ほとんどの場合、お返しを期待したりしません。むしろ、お返しを期待することはやましいこととみなされます。そのことを互恵的利他主義論者はどう説明するのでしょうか。それが自己欺瞞説です。人間関係において、自己利益追求の行為を相手に利他的と見せるためには、行為者自身が利他的であると信じるのが効果的である、というのです。
しかし、自分で自分を騙すというメカニズムは自己の多元性を前提にしなければならないでしょう。多元性を前提にするならば、私たちの次元(自我)では利他性の真の利益は知りえないとする方がシンプルな説明となります。つまり、利他的行為は遺伝子によって報酬づけられているけれども、その理由を私たちは知らない、と考える方が妥当ではないでしょうか。
では、遺伝子は利他行為をなぜ報酬づけるのでしょうか。それを考えてみることにしましょう。
私たちが行為する際には、好ましさのようなものがそこにはあることを認めましょう。「喜び」とか「快」という言葉は適切ではないので、「報酬(づける)」という言葉を使うことはすでに述べました。行為が心的に報酬づけられているとみなすのです。逆に言えば、報酬づけられた行為しか、私たちは取れません。さらに、この報酬づけが意識される必要はありません。ある行為が喜びであるか苦痛であるか、それともそのどちらでもないのかという判断も、機能的に報酬づけられているのです。こう考えると、カントとシラーに折り合いをつけることができるでしょう。
さて、私が提案しているのは、他人を助けるという行為が報酬づけられているとしても、その行為自体にではなく、行為を引き起こす誘因(トリガー)が報酬づけられているのである、という解釈です。
行為と報酬の関係をもっと詳しく見てみましょう。まず考えられるのは、行為による結果として何らかの利益がもたらされ、行為はその利益を目的として起こる、というものです。この場合、行為がなされる際にはまだその利益は得られていません。もし、行為が起こされるためには利益が必要ならば、まだ得られていない利益の代わりのものがなければならないでしょう。では、利益の予想によって行為は取られるのでしょうか。そうは考えにくいのです。衝動や欲望といった動機は、予想のような中立的なものではありません。そこにはすでに行為の萌芽が含まれているのです。
別の考えとして、行為の結果ではなく、行為そのものに報酬が伴っている、というものがあります。しかし、行為自体が報酬づけられているとしても、行為を起こす前にはまだ報酬は得られないという事情は変わりありません。行為の決定と行為の間にはすき間が残っています。この隙間を埋めない限り、行為は起きません。このことはどう説明されるのでしょうか。
その前に、もし行為に報酬が伴うのであれば、その報酬は行為の種類によって異なるのかどうかを考えてみましょう。行為一般ではなく、特定の行為が求められるのであれば、報酬の違いが行為を選択する手掛かりとなります。
報酬が行為の結果の反映であるのなら、様々な行為によって得られる結果の違いが報酬の違いをもたらすとみなすことに問題はありません。しかし、その違いは量的なものと質的なものという二つが考えられます。その報酬が質的であるとするならば、行為ごとに報酬が異なっていなければならないでしょう。しかし、行為ごとに違った種類の報酬が結び付けられているとは考えにくいのです。進化がそのような面倒な仕組みを採用するとは思えません。報酬はどの行為でもみな同じと考えた方が適切だとすれば、報酬の違いは量的なものということになります。
しかし、報酬の量の大小で行為が選ばれるのであれば、利他的行為の報酬がなぜそれほど大きくなり得るかという疑問が起こります。利他的行為の結果としての報酬は援助者には属さないのですから、そのコストを埋めるだけではなく、他の行為より優先されるほどの報酬がその行為自体に必要となるはずです。単に報酬の大小だけで行為が選択されるなら、報酬がそれほど大きい利他的行為が頻繁に選ばれないのはなぜでしょうか。
であれば、どの行為をとるべきかは、単に行為が報酬づけられているということだけでは決められません。行為の選択は状況が手掛かりになるはずです。つまり、行為主体が状況を認知し、それがトリガーとなって特定の行為に結びつく、そう考えるべきでしょう。さらに、行為が起こるためには、トリガーは行為を指し示すだけではなく、その行為への報酬を前払いしていると考えるべきです。状況の認知がトリガーを発動させ、適切な行為につながるように報酬を先取りさせるのです。
ただし、そう考えると、報酬の支給先がトリガーから行為へと移転するという想定をする必要はなくなります。行為がなされている間も同じ報酬づけが続くなら、報酬の支給関係が変わるという面倒なメカニズムではなく、同じ支給関係のままが採用されやすいでしょう。つまり、行為に伴う報酬は、行為自体に結び付けられているのではなく、特定の状況に適切に対応した行為が取られることに対して与えられるのです。
では、利他的行為にこのことを当てはめてみましょう。利他的行為の場合のトリガー状況とは何でしょうか。それは、対象が「困っている」ことです。困っている対象に対して利他的行為はなされるのです。これは当たり前のことかもしれませんが、利他的行為を自己利益の追求から切り離す重要な点です。したがって、利他的行為の直接的結果としては費用(コスト)を支払うことになります。
「直接的」という制限をつけたのは、むろん、進化論的にはそんなことはあり得ないという批判を避けるためです。自己利益追求の主体がコストを引き受けっぱなしの行為をするはずがなく、いつか何らかの見返りが期待されているはずなのですから。「情けは人のためならず」というわけです。これは互恵的利他主義でも取られている視点ですが、私はその有効性は限られているとみなします。利他的行為に報酬があるとしても、その機序の起源ははるかな過去にあり、説明はそこに求められるべきと考えます(詳細は後述します)。
トリガーという概念を使ったのは、それが複雑な要因を含まないことを意味したかったからです。利他的行為のトリガー状況は、単に「困っている」という状態であり、対象が誰であるかは含みません。身内であろうが、知人であろうが、見知らぬ人であろうが区別しません。それどころか、人間である必要もなく、動物であることすら必要ではないのです。当面の敵でさえも、他のトリガーとの競合に勝てば、助けるのです。さらに驚くべきことは、利他的行為は行為主体の死すらもたらすことです。
なぜ利他行為はもっと慎重ではありえないのでしょうか。考えられるのは、利他性を必要とする状況は切迫したものであり、状況を構成する多くの要素をいちいち検討しているヒマはないから、というものです。もっとも重要とされる要素は、困っている(助力を必要としている)ことです。他の要素は時間的な余裕があれば検討の対象となるでしょう。人間の限られた能力では、それらを、緊急性を要する利他性に含ませることはできなかったのです。この過程は長期にわたる遺伝的継承によって形成されたと推測されます。
利他性を互恵的利他主義で説明しようとすると、援助する対象の困窮の度合いは少ない方が好ましくなります。なぜなら、あまりに困窮している相手は、たとえ一時的に助けることができたとしても、お返しをする能力がない可能性が高いからです。また、援助のコストが高すぎると、援助者自身が困窮してしまいます。好ましいのは、強力な相手が一時的に困っているときです。彼らに恩を着せることができれば、見返りは大きいのです(しかし、弱小の相手にお返しをする必要を強者が感じるのというのは、互恵的利他主義では謎でしょう。踏み倒してしまえばいいのですから)。最も好ましいのは、困っていない相手を助けようとすることです。援助のコストは低いし、被援助者のお返しの能力も損なわれていません。しかし、そのようなお節介を被援助者は快く受け入れません(おべっかとして受け取るのなら別ですが)。「恩着せがましい」「恩を売る」というのがそのような態度に対する評価となります。いずれにせよ、互恵的利他主義者が援助をするのは、適度な能力なものが適度に困っているときに限られるでしょう。
さて、もう一つ付け加えねばならないのは、困窮が「一時的」であるという要件です。これはある意味で残酷なことなのですが、進化論的には欠かすことができません。私たちの利他的行為の後に被援助者の回復が望める場合にだけ、利他性のトリガーが働くのです。
そのことについても私の仮説を述べます。利他性の対象となる困窮が一時的であるのは、私たちが協働することにそれが根差しているからと思われます。協働がなされるのは、各自が単独で活動して得るよりも、協働して得たものを分配する方が有利であるからです。協働の方が生産性が高いのです。もし、協働しているあるメンバーがケガなどで一時的に脱落した場合、彼を援助せずに死なせてしまえば、協働の規模が縮小し、生産性を下げてしまいます。もちろん、援助しなければ、援助という損失は避けられます。しかし、一時的に、低い生産性の下にあっても我慢して彼を援助すれば、彼の復帰によって元の生産性を回復できます。どちらが有利でしょう。進化は利他性を選んだようです。
この仮説は集団選択論を改良したものです。集団選択論はフリーライダーの存在を根拠に反駁されています。フリーライダーを防ぐには規制による排除も考えられますが、効果的ではなさそうです。私の仮説は、生産性と、「一時的」な「困窮」という条件によって、フリーライダーを排除しようとするのです。フリーライダーは援助をしないことで当面のコストは免れますが、その属する集団は長期的な生産性の低下によって打撃を受けます。また、「困窮」と「一時的」という条件はフリーライダーが援助を受けっぱなしではいられなくさせます。
ただし、実際の利他的行為は困窮が永続的であっても対象とします。回復が見込めないような困窮者を助け続けることには、何か別の要因が必要です。そのことについてはここでは検討しませんが、私たちの利他性は持続性が弱いのは事実です。そのことは、利他性の対象の要件が「一時的な困窮」であることを現わしているのではないでしょうか。
もう一つ問題になるのは、協働を利他性の基礎とするのであれば、助ける相手は限定されるということです。これは互恵的利他主義においても言えることです。見返りを期待するには、非援助者とのつながりを確保しなければなりません。関係の継続性が重要です。
はるか昔の小集団の生活では、日常接する人は限られていて、集団のメンバーであることをいちいち確認する必要はなかったでしょう。ですから、援助者と被援助者の関係は常に継続的であったのです。そのことと、前述のトリガーの制限という条件があって、利他的行為が遺伝化されたと考えられます。
(5)超道徳
しかしながら、利他的行為の進化論的起源が過去のものであり、利他的行為は行為主体に結果的に利益をもたらすことがほとんどないとしたら(その行為が他人に知られることは結果的に利益をもたらすのは事実ですが、多くは他人に知られることなく、あるいは他人に知られることを当てにせずになされます)、なぜ人は利他的行為をやめないのでしょう。その「個人的」理由は、それが報酬づけられているからです。私たちは利他的行為の結果ではなく、利他的行為そのものを追求します。だとすれば、遺伝子の目的と自己(個体)の目的が異なっていてもおかしくありません。だから、性的行為と同じようなことが利他的行為にも言えると私は思います。
道徳というのは多かれ少なかれ利他的な要素を含んでいるように見えます。他人のために自分自身を抑えよ、利得の機会をあきらめ、場合によっては犠牲になることを覚悟せよ、そう呼びかけないような道徳があるでしょうか。一方で、そこにあるように思われる利他性は見せかけで、実は仮装された利己性にすぎない、というような説明がなされます。私はそのような説明に全面的に反対するのではありませんが、それだけでは不十分だと思います。利他的行為と性的行為が、行為として本質的に同じであるとすれば、私たちには利他的行為が必要だった、と主張することにはおかしなところはないはずです。つまり、利他的行為が「したいこと」であって不思議はありません。そして、私たちが「したいこと」に熱中するあまり、遺伝子の目的からそれてしまうことだってありえます。遺伝子と私たちとの協働関係において、私たちが利益追求的すぎるゆえに、遺伝子的見地からは利他的になってしまうことが考えられるのです。
寓話的に言うのならば、遺伝子は遠い過去から私たちを操作しようとしているのですが、その方法がずさんなので、私たちは遺伝子の方法から報酬をかすめ取っているのです。あたかも遺伝子より利己的であるかのように。
遺伝子によって自己保存的にされている私たちに、利他的行為のような自己に不利な行為がなぜ可能なのか、ここで述べてきたことはその理解のためのささやかな試みです。ただし、それは科学的な証明ではなく、いわば思考実験のようなものです(むろん、科学の成果、特に脳科学による最近の知見はここでの論理展開の基礎になっていますが)。その道筋が、私たちが実際にたどってきたものなのか、それとも私の強引な論理展開によって作りあげられた仮構にすぎないのか、その検証はあなた方に委ねたいと思います。