ボクはこうして愛を学んだ
1
前期試験前の最後の講義の一つが終わった。大教室の小さな出口の前で、外へ出ようとする学生たちが停滞している。早くもスマホを出して見ている者もいる。耕希は混雑が解消されるまですわって待っていた。以前なら依存症者のようにスマホにすがりつくというみっともないことはしなかったのだが、耕希もスマホを出してチェックした。明乃からの連絡はなかった。あるはずはないのに、いまだに期待する気持ちがある。
ほとんど学生がいなくなってしまってから、耕希は教室を出た。コンクリートの地面や校舎の白い壁に真夏の正午の光が反射している。影さえも消えてしまったようで暑い。午後はもう講義はない。学食で昼食を食べてから帰ることにする。この半年ほど明乃との閉鎖的な生活を続けていたので、ただでさえ狭い交際範囲をさらに縮めてしまっていた。
いまだに、いわば明乃モードとでもいうような状態にある自分を、耕希は情けなく思った。キャンパスの中にいる若い女性を見間違えることはないが、街で明乃に似た女性を見かけるとドキリとする。すぐに別人だと分かるが、ときには近くに寄って見極めねばならないこともある。後ろ姿を追って近づいていくのは、まるでくじでも引くような緊張感がある。そして、くじと同じように当たることはない。
世界はいま不幸のただ中にある。それを考えると、耕希の今の状態が他人の不幸を思いやる手がかりになるとか、あるいは、自分の不幸が相対化されて他人の不幸との区別がつかなくなってもいいはずだった。だが、そんなことはなかった。他人の不幸はあくまで他人のものだし、自分の不幸を耐えるのは自分だけだ。世界がどんなに大きな不幸に苦しんでいようとも、自分は自分のちっぽけな不幸にこだわり続けてしまう。
試験前のキャンパスは学生が多く、食堂も混んでいた。食事を終わって食器を洗い場に返してから、耕希は自販機で缶コーヒーを買って飲んだ。アパートに帰って試験に備えるべきだった。明乃に夢中になって授業をサボってしまったので、進級が危うくなっている。しかし、まだ帰りたくなかった。アパートの部屋はあまりにも明乃の思い出に満ちている。試験が終わったら帰郷の日程を決めようと耕希は思った。夏休みの間、この地を離れられるのは幸いだ。ここにいては明乃のことを忘れることはできない。
耕希はわずかな木陰のある中庭を食堂の窓からぼんやりと眺めていた。
2
耕希が初めて明乃に会ったのは、アパートの部屋の修繕の件で不動産屋に寄った日だった。不動産屋の所在地は彼のアパートのある駅から二駅離れていた。ここへ来るのは不動産屋に用事があるときだけで、それもめったになく、来てもすぐに帰ってしまうので、近辺に何があるかは知らなかった。
耕希はその近くを歩いてみる気になった(なぜそういう気持ちになったのか、後になって不思議な思いで何度も記憶を探ってみたが、分からなかった)。都市中心部と郊外を結ぶ私鉄が海と山に挟まれた狭い地域の山際を走っていた。不動産屋は駅の傍の小さなビルの一階にあった。そこを出て駅を通り過ぎると、坂になった道に突き当たる。道を下った方には服や装飾品や食品などを売る洒落た店が並んでいる。上る方は線路を踏切で越えて住宅街に入っていく。角に小さな木の標識が立っていて、梅林の所在を示していた。標識に従って耕希は道を上った。道は不規則に曲がりながら徐々に傾斜を増す。家々は斜面に段々になって立てられている。梅林らしきものが見当たらないので、適当なところで脇道にそれてみた。女の人が向こうから来たので、耕希は声をかけた。
「すいません。梅林はどこにあるのでしょうか」
女の人は暖かそうな灰色をした厚手の毛糸の上着にベージュ色のスラックス姿で、中味でふくらんだ布地のエコバッグを片手にさげていた。長い髪を後ろでまとめているので露わになった額とくっきりした目鼻立ちが、背が高くすらりとした肢体と相まって、南方系を思わせた(南方系というのが具体的に何を指しているのか、あいまいだったが)。ものすごい美人とは言えないが、きれいな人だ。年齢は耕希には中年としか見当はつかなかった。
「梅林?」
女の人は微笑みを浮かべた。耕希の問いの意外さを面白がっているようだった。
「梅林はねえ、反対よ。あっちの方角よ。えーと、この道を行くと十字路があって、そこを右に行くと川があるわ。梅林はその川の向こう側なんだけど、橋が離れているんでちょっと山側に行かなければならないの。橋を渡ったら左に折れて‥‥」
女の人はそこで言葉をとめた。少しの間、理解の印を探すかのように耕希の顔を見ていたが、言葉を変えた。
「方向が同じだから、途中まで行きましょう。その方が説明するより早いわ」
耕希の返事も待たず女の人は歩き出した。耕希はその後について行った。
「花はどうかしらね。今年はまだ早いかもしれないわね」
「そうですね」
それだけの会話で、後は黙って二人は歩いた。コンクリートでおおわれた溝のような急傾斜の川を渡ったところで、女の人は梅林までの道順をもう一度耕希に教えた。耕希あいまいにうなずいて言った。
「行けばわかるでしょう」
女の人は子どものすることが心配な感じで耕希を見た(同じくらいの子どもがいるのかもしれないと耕希は思った)。
「一緒に行きましょう。ここしばらく花どころではなかったから、ちょうどいいわ」
「すみません」
いつもの耕希なら遠慮していただろう。年配の人間と会話するのはおっくうだったし、ましてや見知らぬ他人ならなおさらだ。でもそのときは世話焼きのおばさんに素直に甘えてみる気になった。そこから梅林までは、一カ所曲がり角が分かりにくいだけで、さほどややこしくはなかった。途中に案内標示もあった。よっぽど理解力に乏しいと思われたのかなと耕希はおかしかった。梅林は公園になっていて、山の端の急斜面に木が十数本あるだけだった。ほとんどはまだつぼみだったが、わずかに花を咲かせている木が何本かあった。公園の階段を登りながら女の人は弁解するように言った。
「この辺は昔は梅で有名だったけど、ずっと前に梅の木はなくなってしまったのよ。ここはその名を惜しんで復活させたところ。ニセモノなの。わざわざ見に来るほどでもなかったでしょう」
「でも、いいところですね」
「あなた、梅の花がお好きなの?」
耕希は答えるのに一瞬ちゅうちょした。そもそも耕希は花に興味はなかった。花屋や花壇にある花を見て、色の華やかさを認めても、美しいと感動することはなかった。桜の花などはなおさらだった。人々がなぜあんな薄汚れたような色の塊を見て騒ぐのか分からなかった。梅にしても何だか中途半端な感じしか受けなかった。ただ、以前見たことのある、赤黒い花の、派手とも地味ともつかぬ色合いと、つややかでもあり柔らかでもありそうな質感が強く印象に残っていて、そういう花がまた見られたらという期待があった。
「ええ、まあ」
「若い人には珍しいのじゃない。うちの子なんか、二人とも女の子なんだけど、花なんかに全然興味を示そうとしないわ」
散策路を一周するのはすぐだった。公園の入口に戻ると、耕希の機先を制して女の人は言った。
「ちょっと疲れたでしょ。坂ばかりだったから。うちに寄ってお茶でも飲んでいかない?すぐ近くだから」
今度も耕希は素直に従った。女の人の家まで十分ほど歩いた。その間に、耕希が近くの大学の学生であること、親元を離れてアパートに住んでいること、ここには不動産屋の用事で来たことなどを、手際よく聞き出されてしまった。二人が下りていく斜面は住宅がおおっていた。斜面の上の方の家は敷地が広く、下るにつれて小さくなっていく。元の広い敷地が分割されて複数の家が建てられつつあるところがあった。人通りはなく静かな中に工事の音だけが遠くまで響いていた。女の人の家は土地にあまり余裕を残さずに建てられた比較的新しい二階屋だった。玄関の前の駐車場にはミニが停めてあった。女の人は玄関の鍵を開けて、耕希を招じ入れた。
「こっちの方がくつろげるでしょ」
女の人はダイニングキッチンのテーブルに耕希をすわらせ、コンロにケトルをかけてから、袋の中のものを出して冷蔵庫に入れた。それから部屋を出て戻ってきたときには上衣を脱いでいた。耕希は何となくそれを見ていた。女の人は耕希に見られていることを承知しているようだった。女の人は耕希を見返して言った。
「コーヒーでいい?」
耕希はうなずいた。ダイニングキッチンの中は、主婦の有能さを現すように、機能的で清潔に片づき、飾り付けは貧相にならない程度に最小限に抑えられていた。窓は一つあったが磨りガラスになっていて外は見えなかった。お湯はすぐに沸いたので、女の人はコーヒーをカップ二つに入れ、砂糖とフレッシュとともにテーブルに置いた。
「おまたせ」
「いただきます」
「待って、買ってきたものがあるから」
女の人は冷蔵庫からシュークリームを二つ出してきて皿に載せてテーブルに置き、耕希の対面にすわった。
「甘いものは駄目じゃないでしょうね。まさか、もう辛党?」
「いいえ」
「この店のはおいしいのよ」
二人はコーヒーを飲み、シュークリームを食べた。耕希は話すことがないので黙っていた。女の人も何も言わなかったが、耕希は気づまりではなかった。さっき会ったばかりというのに妙な親しみを感じていた。
テーブルの端に本があったので耕希は取り上げた。『アフリカの日々』という本だった。
「それ、図書館で借りたのよ」
「面白いですか?」
「ええ、読むのが楽しかったわ。あなたは読んだことある?」
「いいえ」
「あなた、小説は読む?」
「あまり読まないですね」
「うちの子もそうよ。読ませたいのだけれど」
耕希は本をめくって、適当なところを読んだ。興味を示したいところだが、何を言っていいか分からなかった。女の人は耕希が何も言わないので、言った。
「その人の他の作品も読んでみたいけど、市立図書館にはないみたい」
「うちの大学の図書館にはあるかな。調べてみます」
耕希はスマホで大学のサイトに入り、図書の検索をした。ディネーセンという作家の本は、『アフリカの日々』の他に三冊あった。
「借りてきてあげましょうか?」
「かまわないの?」
「期限さえ守ればかまわないですよ」
「迷惑じゃない?」
「お茶をいただいたお礼です」
「じゃ、お頼みしようかしら」
「どうします。お届けしましょうか?」
「急がないから、本が借りられたら連絡してくれる?」
耕希は女の人とメールアドレスの交換をした。それからすぐに耕希は女の人(名前は明乃だと教えてくれた)の家を出た。駅までの道順を教えるときに、耕希が迷うのではないかと彼女は笑った。耕希は彼女の教えてくれた道を忠実には守らず、線路沿いに駅を探せばいいのだからと線路に出るまで適当に坂を下った。
ほんの気まぐれから、何か貴重な可能性を秘めた出会いにまでたどり着いた。これは偶然の結果なのだろうか、それとも運命といったような何かの必然性に導かれたものだろうか。今日の出来事について、自分は何か重要な決定をしたのだろうかと耕希は思いをめぐらした。
3
大学の図書館で明乃に頼まれた本を探し当て、借り出しのためにカウンターに向かって本棚の間を歩いていたときに、耕希は美香に会った。美香は何冊かの本をかかえて、本棚に戻しに行く途中のようだった。講義はほぼ終わっていて図書館はすいていたが、声を低めて美香は聞いた。
「もう帰るの?」
耕希は黙ってうなずいた。
「ちょっと待ってて。私も帰るから」
耕希は本を借りる手続きをすませ、図書館を出て前の通路で美香を待った。美香と付き合いだしてからもうすぐ一年になる。学部と学年は違うが同じ大学の学生としてキャンパスで知り合ったのだ。友達のガールフレンドの友達というようなところから始まり、友人と恋人の中間ぐらいの親密さが続いている。耕希はもっと関係を深めようと試みたが、いつも美香にはぐらかされてしまう。軽く抱き合うか手を取るぐらいまでが限度で、キスさえもゆるそうとしない。女性の協力がなければ、男性としては欲望を露わにして迫る以外に方法はない。そんなことをすれば美香が逃げ出してしまうのは明らかだ。思い切ってこちらから離れてしまってもいいのだが、せっかく築いた美香との関係を放棄するのはもったいないとも思う。一番いいのは美香を留保したまま他の候補を漁ることだ。しかし、耕希の周りの人間は耕希と美香とのことを知っているから、そういう虫のいいことは難しかった。
美香が出て来たので、一緒に校門の方へ歩いた。美香はグレーのブルゾンにジーンズ、小柄な体には大きめのショルダーバッグをかついでいる。短い髪に化粧っけのない顔は少年のようにも見える。かわいいけれども幼い感じだ。美香は耕希のかかえている本に手をのばして題名を見た。
「アイザック・ディネーセンなんか読むの?」
「ああ、読んじゃ悪いかい」
「からまないでよ。こういう本に興味があるなんて知らなかったから」
「たまにはね」
「『アフリカの日々』が『ライ麦畑でつかまえて』の中に出てくるの知ってる?」
「知らないな」
「ホールデンが図書館で借りて読むのよ。サリンジャーは読んだことない?」
「読んだことない」
「ヘミングウェイも『移動祝祭日』の中に書いているわ」
「わりと有名なんだな」
「面白い?」
「どうだろう。まだ読んでいないから」
美香は不審のまなざしで耕希を見た。耕希に何か隠し事があるのを感じているらしい。耕希は話をそらそうとして言った。
「どうする。お茶でも飲む?」
「歯医者に行かなくちゃならないの。また悪くなって。一所懸命に歯磨きしてるんだけど、体質なのかしら?遺伝だとしたら不公平ね。努力が報われないんだから」
「それは、歯だけじゃないさ」
美香と別れた後、耕希は明乃にメールを打ち、本を借りたことを知らせた。よければこれから持っていくとも伝えた。折り返し明乃から返事があった。来れるならすぐ来て、お昼を食べないで来て、というメッセージだった。
耕希が着くと、明乃はパスタを作り終えているところだった。
「あまり料理は得意じゃないんだけど」
耕希をすわらせたテーブルの上に皿を置きながら明乃は言った。耕希は持ってきた本をテーブルに置いた。
「これ、本です」
「ありがと」
「この本を書いた人、かなり有名な人なんですね。サリンジャーやヘミングウェイの中にも出てくるそうですよ」
「そうなの」
耕希はそれ以上話題を続けられなかった。明乃はにこやかに耕希を見ていたが、間が開いたので言った。
「ビールでも飲む?」
耕希がうなずくと、明乃は冷蔵庫から缶ビールを二つ出したが、テーブルには置かずに言った。
「あなた、二十歳になってる?」
「なってます。厳しいんですね」
「そうよ。帰るとき車やバイクに乗らないでしょうね?」
「乗りません。免許は持ってません」
「あら、まだ取ってないの?」
「取るつもりはありません」
食器の配置をすませて明乃もテーブルについた。
「どうぞ食べて。そうお。近頃の若い人が車に興味ないっていうのは本当なのね」
「いただきます。都会で暮らすなら車なんて必要ないですから。かえって邪魔だし、おカネもかかる」
「合理的なのね。車は確かに必要ないといえばないけど。でもね、車に乗るのは単に移動するだけではないのよ。車には不思議な作用があるの。楽しいとか、気持ちいいとか、それだけでなくて、何て言うか、車に乗って走っていると救われることもあるのよ」
「何から救われるんですか」
「つっこむわね。これだけ生きていると、いろいろあるのよ。味はどう」
「おいしいです」
「よかった。もっとも、あなたの年頃なら、何を出しても食べちゃうでしょうけど」
耕希は話題を探したが、見つかったのはどうでもいい、つまらないことだった。
「お宅の車はミニですね」
「そう。でも、もうミニじゃないけど。以前の小さかったミニが好きだったわ」
「いまでもときどき見かけますね」
「それぐらいは分かるのね」
「車が好きな友達もいますから」
明乃はそのことで話をつなぐつもりはないらしく、しばらく黙って耕希を見つめ、そして言った。
「あなたのこと聞かせて」
「ボクのことって、家族とか、出身地とかですか」
「ううん、そんなことはいいの。あなたの夢は何」
「夢ですか?」
「質問があいまい過ぎた?じゃ、変えるわ。将来何になるつもりなの」
「まだはっきりは決めていません」
「いま何を勉強してるの。待って、当ててみるから。理工系ではなさそうね。法学部、いや経済学部でしょう?」
「文学部には見えませんか」
「文学部なの」
「いや、経済学部ですけど」
「やっぱり」
「どうしてそう思ったんです」
「そうねえ。あなたは何だか手堅い感じがするの」
「手堅い?」
「何ていうか、自分が分かっているといった感じ。おかわりどう」
「いただきます。経済学部は親に勧められたからなんです」
明乃は空になった耕希の皿を持って立ち上がり、キッチンカウンターのコンロの上の鍋から残りのパスタを移した。
「そうなの。違う学部に行きたかったの?」
「どこでもよかったんです」
「おやおや、あまり手堅くもなさそうね」
新たな皿を平らげる耕希を明乃は眺めた。自分の皿の少ない量は既に終えていた。
「あなたたち若い人のことを思うと、何だか可哀想ね。温暖化や少子高齢化で、この先どうなるのかしら?うちの子なんか、将来のことなど何も考えていないみたいだけど、心配だわ」
「そうですね。でも、何とかなるんじゃないですか。今度はボクに聞かせてください」
「ええ、何を?」
「お子さんは?」
「娘が二人。二人とも中学生」
「ご主人のお仕事は?」
「電器メーカーに勤めているわ。そんなこと、どうだっていいでしょう?もっと他のこと聞いて」
「趣味は?」
「平凡だけど、読書と旅行」
「あなたの夢は何ですか」
「そうねえ。子供たちが大きくなったら、家事なんかいっさいやめて、だらしない生活をすることかな」
「つつましいんですね」
「めんどくさいことが嫌いなの。花のある庭なんて素敵だけど、手入れは苦手ね。旅行もホテルの手配などがわずらわしい。旅行するなら、バイクに乗って、あてもなく走らせて、野宿して、川で水浴びして、たき火でフライパン料理する、そういうのがいいわ」
「バイクの免許も持ってるんですか」
「持ってない」
「なあんだ。ボクが持っていれば、後ろに乗せてあげるんですけどね」
「じゃあ、免許をとって、いつか連れて行ってくれる?」
「いいですよ。約束します」
二人は互いの顔を見つめた。この会話がお愛想に過ぎないのか、それとも実のあるものを含んだものなのか、探り合うかのように。明乃は視線をそらして言った。
「ビールはどう。それともコーヒーにする?」
「コーヒーをお願いします」
明乃は耕希のためにコーヒーを入れると、シンクで食器を洗い出した。
「あなたと話をするのは楽しいわ。主人や子供たちとはこんな話はしないから」
耕希は飲みかけのコーヒーをテーブルに置いて立ち上がり、明乃の背後に立った。
「手伝いましょうか?」
明乃は振り向き、「ありがとう、いいからすわってて」と言って再びシンクに向かった。耕希はそのままでいた。二人は黙ってしまった。耕希は明乃の背中に体を寄せ、手を前にまわして抱いた。明乃は動かしていた手を止めたが、そのままの姿勢でいた。
「ダメ。そんなことしないで。もう、会えなくなるから」
耕希はさらに体をすりつけ、手をまさぐらせた。明乃は耕希から逃れるように体を動かし、耕希を柔らかく押しのけた。
「ダメよ」
耕希は逆らわなかった。
「ごめんなさい。ボクが嫌いになりました?」
「いいえ、そんなことないわ。男の子のいる人から、ポルノやオナニーの話を聞いているわ。男の子は仕方がないのよね」
「ボクはそんなんじゃないです。あなたがきれいだから。あなたが好きだから」
「およしなさい。あなたにはもっと若い人がふさわしいのよ」
「歳なんか関係ないです。ボクのことを気に入ってくれたのじゃないんですか」
「私には男の子がいなかったから、あなたが息子だったらと、そういう気持ちになったのね。誤解を与えてしまったらごめんなさい」
「これからも会ってくれますか?」
「会うわよ。お行儀よくしてくれるなら」
「努力します」
それは巧妙な答えだった。政治家や官僚が問いつめられたときに使うのと同じだった。出来ないという正直な返事は明乃を困らせてしまうだろう。かといって、そうするという返事は偽りであっても言質を取られてしまう。微妙な含みを持たせた言葉は断念したのでないことを明乃に伝えたはずだ。しかし、欲するものを目の前にしながら得られないというフラストレーションが耕希をやや不機嫌にさせた。それを隠せるほど彼は老獪ではなかった。
「もう帰ります」
耕希の気分がどうなのかなど明乃は気にしていないようだった。
「本を読み終わったらメールするわ」
明乃の家を出て駅へ向かいながら、耕希は考えた。明乃が二人の関係を親子に擬すのはお笑いだ。二人を近づけているのは異性としての吸引力であることを二人とも承知している。あるいは明乃は分かろうとすることを拒否しているかもしれないが、彼女を動かしているのは彼女ではないのだ。それは耕希も同じことだった。明乃と知り合ってから彼女以外の女性に対する興味が急に失せてしまった。これは恋だろうか。
明乃の心の中にある隙間のようなもの、何かが欠けていると感じていることを、耕希は敏感にかぎ当てたのだ。不満として意識に上ってきたならば抑えることができただろう。少なくとも隠そうとはしただろう。しかし、それは明乃の気がつかぬままに、フェロモンのように体からしみ出していた。それは明乃のとまどったような表情、なげやりな感じの漂う動作などから発散していた。
耕希は明乃との関係をやましいと感じることはなかった。配偶者のいる女性に、隙をうかがって接近するというのは、浅ましいことなのかもしれない。だが、それを避けようとはしなかった。むしろ、そういう機会を放棄することの方に抵抗があった。今どきのボクらが性欲を抑制できないのは当たり前なのだ。明乃が言ったように、男の子は仕方がないのだ。
4
意外に早く、二日後に明乃から本を返すというメールが入った。耕希は自分のアパートへ来てくれるようにと明乃にメールした。耕希は見え透いた都合を言い立てたが、それを承知で明乃が来ることを望んだ。逡巡を思わせる時間を置いて、明乃は承諾の返事をよこした。
翌日に駅で待ち合わせた。明乃は茶色のコート姿で、顔を隠すようにマフラーをしていた。人に見られるのが嫌だと、明乃は並んで歩こうとはせず、アパートまで耕希の後を離れてついて来た。部屋へ入ると明るい口調で明乃は言った。
「お昼まだでしょ?何か作ってあげようと思ったけど、めんどくさいからハンバーガー買ってきた。食べる?」
「ええ、コーヒーを入れましょう」
入口の傍の小さな台所設備で耕希は湯を沸かした。明乃はテーブルの上にハンバーガーを入れた紙包みを置き、二つしかない椅子の一つにすわって、ワンルームの部屋を見回した。テーブルとベッドとタンスと本棚だけで一杯だが、きれいに片づいていた。
耕希はコーヒーカップを二つテーブルまで持ってきて、明乃に向かい合ってすわった。明乃は紙袋から本を出した。
「ありがとう」
「早かったですね。どうでした、面白かったですか」
「そうね、全部は読んでいないのよ。ちょっと読んでみたけど、思っていたような内容じゃなくて」
「そうですか」
耕希はせっかくの手配が無駄になったようで少し気落ちした。耕希の気持ちを察してか。明乃は明るく言った。
「食べましょ」
二人はハンバーガーを食べ始めた。
「ふだん、何を食べてるの」
「朝はパン。昼は学食で、夜はスーパーで買います。三食ちゃんと食べていますよ」
「きっちりしてるのね」
そのとき耕希は気づいた。明乃が本を読まなかったのは、読み終えるまで時間がかかってしまうと耕希に会うのが遅くなるからではないか。たとえ体裁をつけるためだけであっても、本を読んでしまうだけの時間が待ちきれなかったのだ。そう思うと耕希は自信を持った。
食べ終わって話が途切れたので、明乃は立ち上がって本棚のところへ行ってどんな本があるのかを見た。
「勉強の本ばかりね」
「他の本を読んでる暇がないんですよ」
かかがみこんでいる明乃の背後に耕希は立った。明乃が振り向くと、耕希は明乃を抱き寄せキスをした。明乃が抵抗しなかったので、耕希は唇を密着させた。耕希が明乃を離すと彼女が言った。
「うまいのね」
耕希は明乃の手を取ってベッドへ連れて行こうとした。明乃は動かなかった。
「ダメ」
「キスだけ」
耕希はそう言って明乃を強く引っ張った。明乃はひきずられるようにして従った。ベッドに二人並んですわると、耕希は再びキスを始め、そのまま明乃をベッドに倒した。明乃はされるがままになった。耕希は体を押しつけて明乃の足の間に入ろうとした。明乃が抗い出したのでうまくいかない。耕希はキスをやめ、明乃をおさえつけたまま右手で明乃の体をまさぐった。
「ダメ。ダメと言ったでしょう」
耕希は明乃の言葉は無視して、何とか服の下の肌に触れようとした。明乃は激しく動いてそれをさせまいとする。明乃が逃れようとするのを防ぐのが耕希には精一杯だった。二人は無言のままベッドの上でしばらく争った。
明乃の抵抗の激しさが耕希を興ざめさせた。耕希は明乃が憎らしくなり、力を抜いた。明乃は耕希を押しのけてベッドから離れて立った。耕希はベッドにうつぶせになったままで明乃の方を見なかった。乱れた服装を直しながら明乃が言った。
「帰るわ」
耕希は黙ったままだった。明乃がバッグを取り上げて玄関に行き靴をはくときになって耕希が言った。
「帰るんだったら、もう二度と会わないから」
明乃は靴をはきドアのロックを外しノブを回した。だがドアは開けなかった。明乃はドアに向かって立ったままでいた。明乃が動かないので耕希はベッドから明乃の後ろ姿に言った。
「あなたが好きなんです。好きなのに何もできないのはつらすぎる。こんなにつらい思いをするなら、いっそ会わない方がいい」
明乃は依然として動かない。耕希は待った。とうとう明乃は振り向き、靴を脱ぎ、うつむいたままテーブルのところまで来て椅子に座った。耕希はベッドから出て明乃の傍に立ち、手で明乃の顔を上げてキスをした。明乃の服に手をかけた耕希を止めて明乃は言った。
「自分で脱ぐわ」
耕希は急いで自分の服を脱ぎ裸になってベッドに横たわった。明乃は服を脱ぎだした。途中で心変わりをしないかと耕希はひやひやする思いで見ていたが、明乃は手を止めることはなかった。ただ、何かが起こって事態の進行が止まることを期待する気持ちを棄てきれないかのように動作は緩慢だった。ようやく裸になってベッドに来た明乃は、あせる耕希に言った。
「コンドームはあるの?」
「あります」
「つけてね」
明乃は耕希の好きなようにさせたが、何の反応も示さなかった。耕希が自分の体を使って済ますのを義務的な気持ちで待っているようだった。そういう明乃の態度のせいか、すぐに耕希は終わってしまった。耕希の気持ちは一挙にしぼんだ。
「ごめんなさい」
謝ったのは、明乃に無理強いしたからか、彼女を満足させられなかったからか、耕希にも分からなかった。両方なのかもしれない。かぶさっていた耕希がどくと、明乃は何もいわずにベッドから出て服を着け始めた。耕希がシャワーを浴びるように勧めても首を横に振るだけだった。耕希は動く気がせずに明乃を見ていた。素早く服を着終わって、身繕いの点検をしている明乃に耕希は言った。
「今度、いつ会える?」
「メールするわ」
送っていくという耕希を断り、ベッドに裸のまま置き去りにして、明乃は一人で部屋を出て行った。
5
耕希は明乃との一度の関係を権利の発生のように言い立てるつもりはなかった。それでも、耕希は明乃からの連絡は待っていた。明乃と親しくなるまでが大した努力も抵抗もなくすべるように展開していったので、二人が知り合ったことがとても自然に思え、それが継続しない理由は見当たらない。二度目にはもう少しうまくできるはずだと、耕希は自尊心の回復も願わないことはなかった。
もしかすると明乃のことは諦めねばならないのではないかと不安に思ったほど長い間隔が空いてから、彼女が電話をかけてきた。名乗らないが明乃の声だと分かったので、耕希は何を言っていいか分からずに黙って待った。明乃も黙ったままで、しばらくの間沈黙が続いた。とうとう耕希は行った。
「この間はどうも。とても素敵でした。ずっと会いたくて、連絡を待っていたんです」
明乃はすぐには答えず間を空け、聞こえてきた声は耕希の予想していたのとは違って沈んだ調子だった。
「あんなことはしたくなかった」
「怒っているんですか」
「怒ってはいないけど、でも」
明乃は声を途切らせた。保とうとしていた冷静さが失われた。抑えきれずに言葉が吹き出す。
「でも‥‥あなたがもう会わないって言うから‥‥あなたに会えなくなるから‥‥だから、仕方なく‥‥」
明乃の泣き声が電話を通じてはっきり聞こえる。それは号泣と形容すべきものだった。
「私がどんな気持ちでいたか‥‥主人や子供の顔をまともに見ることができない‥‥」
大人がこんな風に泣くなんて、しかも自分を相手にして、そんなことは耕希には初めての体験だった。あのことが明乃にとってそんなに重大な意味を持っていたのは意外だった。耕希はあわててしまった。明乃を泣きやませなければならないことだけしか考えられなかった。
「ごめんなさい。もうしません。あんなことはもうしません。ただ会うだけでいいです。何もしません。会ってくれるだけでいいですから。泣かないで下さい」
明乃の泣き声はやんだ。発作のようなものだったのだろう。耕希は明乃をどう扱えばいいのか分からなかった。電話で話しているだけではどうしようもない。耕希は明乃に呼びかけた。
「とにかく、会いましょう。会って話をしましょう」
二人が会う場所としては耕希の部屋以外にはない。明乃はためらいつつも来ることを承知した。
明乃を迎えてテーブルに向い合ってすわるなり、耕希は言った。
「ごめんなさい。嫌な思いをさせてしまって」
「もう、いいのよ。あなたとああなったことが嫌だったのではないの。私だってあなたのことが好きだから。男と女が互いに好きになったなら、ああなることは自然であるのは分かっている。私の知ってる人で、夫のいる人が、そういうことをしているのを聞いたこともある。でも、私には平気でそういうことはできないの。夫や子供達を裏切ることになるから」
「そうですね。ボクらはこんなことになるべきではなかったですね。どこかで引き返すべきだった。こうなってしまうことは分かっていた。でも、ボクはそれを望んでいて、引き返すことなどできなかった」
「あなたが悪いんじゃない。私が悪かったのね。私にも分かっていた。私がそれを望まないのであれば、私の方が避けるようにすべきだった。でも、あなたを失いたくなかった。だから、いずれ、いつか、あなたを自然に受け入れるようになれるなら、それでいいと思った。そういう気持ちになってからなら。でも、いまはまだダメなの」
「ボクのことが嫌いになりました?」
「いいえ。あなたを好きな気持ちは変わらない」
「これからも会えますか?」
「会いたいわ」
「でも、セックスはダメ?」
明乃は答えなかった。耕希の言い方に不安を感じたからだ。ねだるような、脅すような響きが感じられたからだ。
耕希はさらに言った。
「ボクには我慢ができそうにないです。会ってるだけでは。あのとき言った気持ちは変わりません。会うだけなんてつらすぎるから、いっそ会わない方がいいと思います」
明乃には耕希の思惑が見え透いていた。この子が欲しいのは私の体だけだ。この子に引かれている私の気持ちを人質にして、自分の欲望を満たそうとしている。私が折れると分かっているのだ。私が断るはずがないとタカをくくっているのだ。私が嫌だと言ったらどうするだろう。当面は要求を引っ込めるかもしれない。それでも常に機会を狙って思いを遂げようとするだろう。いや、もしかすると、そんな面倒なことをするくらいなら、さっさと私など棄ててしまうだろう。この子なら相手にできる女の子がたくさんいるだろう。それでいいのかもしれない。この子にはこの子にふさわしい相手がいる。私の出る幕ではないのだ。
耕希が机の上を手をすべらせて明乃の手に重ねた。明乃は耕希の手を握り返した。耕希は明乃の手を引き明乃の体を引き寄せて抱いてキスした。
明乃はまだ迷っていた。はっきりと拒絶しなければならないと思いつつ、厳しい態度をとるのはできそうになかった。自分が望んでいるのは耕希との性交ではない。では、男と女がひそかに会うのは、何をするためだろう。息子を愛するように耕希を愛するというような弁解は、自分自身に対しても疑わしい。夫以外の男にひそかに会うことが、性交をしなかったということでゆるされるのだろうか。心引かれるということ自体で既に裏切っていることになるのではないか。だとすれば、性交をしようとしまいと、会うことはゆるされないはずだ。
逆に、会うことだけで裏切ることになるならば、性交をしようとしまいとどうでもいいではないか。そうは思っても、やはり割り切れなかった。性交は越えてはならない一線であり、そこにさえ踏み込まなければ、何かが守られそうな気がする。耕希が我慢さえしてくれれば、何かが恐ろしい形をなす一歩手前で立ち止まれるのに。
耕希にそれを求めるのは無理だと明乃には分かっていた。決断しなければならないのは私なのだ。私が決断すれば、こんなことは芽のうちに終わらせて、もとの平穏な生活に戻れるのだ。耕希との最初の性交の後、明乃は決断を延ばすことで、自然に解決するのではないかと期待した。耕希に連絡しないで日が過ぎていけば、彼は私への興味を失い、そうなれば耕希に対する自分の執着も薄れるのではないか。
しかし、耕希と連絡を断っている間、明乃は耕希のことばかりを考えていた。耕希は不審に思っているだろう。私のことを諦めるだろうか。もしかして、性交なしでもいいから、会いたいと言ってきてくれるのではないだろうか。そんなことはない。私の冷淡な態度にあきれて、二度と会うつもりはないと怒っているのだろう。愛想を尽かして、別れの電話を入れてくるのではないか。そのときはどう返事をするべきか。明乃は耕希の気持ちをいろいろ想像して気をもんだ。耕希からの連絡はなかった。明乃は自分が耕希からの連絡を待ち望んでいるのに気が付いた。耕希と別れるなんて、一度たりとも本気に考えたことはなかったのだ。結局、明乃の方から連絡してしまった。
耕希は明乃をベッドへ誘った。もはや明乃は抵抗しなかった。ためらいはあったが、同じことを繰り返したりすれば、今度こそ本当に耕希を失ってしまうだろう。これは耕希を傍に留めておくために支払わなければならないことなのだ。何かを得るためには代償が必要なのだ。耕希は前回のことを教訓にしたらしく、あわてず慎重にことを進めた。明乃も耕希の努力に応えようとしたが、全面的にのめり込むことはできなかった。それでも、耕希は今回の成果に満足したようだった。返事は分かり切っていながら、耕希は聞かずにはおれなかった。
「ボクのこと好きですか」
「好きよ」
耕希はその言葉を何度でも聞きたかった。
それから、三、四日に一度のペースで明乃は耕希のアパートに来るようになった。明乃の罪悪感は消えることはなかったが、急速に衰えた。習慣化した行為は反省を棚上げしてしまう。明乃は同じように夫を裏切る行為をしていると噂されている女性を知っていたし、彼女たちと会話をすることもあった。明乃には彼女たちに変わったところは見出せなかった。何が彼女たちにそんな思い切ったことをさせているのか、そんなことができる彼女たちに何が備わっているのか、明乃には理解できなかった。そういう行為は自分にはできないし、してみたいと思うこともない。もし、そんな誘惑があっても、即座にはねのける自信があった。そういう「お堅い」自分を誇りに思うことはあっても、恥じたり悔いたりすることなどなかった。それがどうだろう。家族に多少不満があるというだけで、それもこんなことをする理由になどなりはしないのに、いとも簡単に堕落してしまったのだ。自分の中にこんなに恐ろしい気持ちが潜んでいたなんて。自分はこんなに欲望に弱かったのか。でも、まだ明乃には全面的に屈服したのではないという気があった。アルコールや薬物の依存者が、いつでもやめられると思いつつ続けてしまうように。
毎日でも会いたいとせがむ耕希を明乃はたしなめた。
「私の立場も分かって。誰にも見つからないように慎重にしてほしいの。知られてしまったらと思うと、怖くて仕方がないわ」
明乃が危ういことしていることは分かっているが、その恐怖は耕希には感じることができないものだった。もっと大胆になれないのかと明乃をふがいなく思った。二人は日に何度もメールをし合った。二人とも、会えない日々のつまらなさと、早く会いたいという気持ちを伝えた。満足に会えないことは、結果として二人の結びつきを強くした。あっという間に、お互いになくてはならなくなっていた。
6
明乃が耕希の部屋を訪れるときは、十一時頃に来て二時頃までいた。明乃の来る日は耕希は大学をサボった。食べる時間さえ惜しいので、お昼は簡単に食べられるものを明乃が買ってくるか、耕希が買い込んでおいた。
明乃が来てから帰るまで、二人はずっと裸のままだった。耕希が女性の裸をまじまじと見ることができたのは初めてだった。耕希は自分が未経験であることを明乃に知られたくなかったが、明乃の体に対する興味を抑えることはできなかった。そういう耕希を明乃がわずらわしがることはなかった。最初、明乃は恥ずかしがったが、すぐに気にしなくなった。耕希が見たいと言えば、どこでも見せた。触りたいと言えばどこでも触らせた。
明乃が耕希の言いなりだったのは、明乃にしても二人が踏み入ったのが未知の世界だったからだ。そこで何をするのか、何をすべきなのか、何をしてはいけないのか、全くわからなかった。明乃は、大胆だったというより、自分の大胆さに呆然自失していた。そいうことをしてもいいということ、自分にそんなことができることを、追認していくだけだった。
二人は狭いベッドに体を密着させて横たわり、性交の合間には、お互いの体を撫で合いながら話をした。明乃は家族との生活については触れたがらなかったし、耕希が提供できるのは学生生活のことだけだったので、日常について話すことはあまりなかった。二人の会話は言葉によってもお互いを愛撫しているかのようだった。
「ずっとむかし、まだ若かったころ、映画で、恋人たちが好きになるとすぐにセックスをするのに違和感があったの。恋というのはそういうこととはちょっと違う、精神的に深く結びつくことで、肉体の結びつきはその後のこと、いわばおまけ、もっと厳しく言えば、義務のようなもの、そんな風に思っていた。肉体はかえって恋の邪魔をするのではないか、と。だって、顔やスタイルがいいというだけで好きになるのは浅はかでしょう?」
「明乃はきれいだよ」
「ありがとう。あなたのおかげで、ようやく分かったわ。好きになるのはこういうことだって。体と体を思いきり抱き合って、皮膚であなたを感じること。あなたになでられて、私自身を感じること。あなたをなでて、あなたが感じているのを感じること。あなたの体で私を満たすこと。私の体であなたを満たすこと。あなたがいなければ、こんな感じは決して得られない。心が体を求め、体が心を燃やす。心と体は一体。セックスがこんなものだとは、知らなかった」
「子どもを二人も産んでいるのにかい」
「それは言わないで。もちろん、いままでだってセックスを避けようとしたのではないわ。楽しむことはできた。でも、なくたってどうってことはない。我慢する必要もなかったわ。本当のセックスを知らなかったのね」
明乃は自分の体験がどう位置づけられるものか知りたくなった。他の人はどんな風に感じているのだろう。明乃は性描写で評判になったある女性作家の小説を読んでみた。女主人公の男遍歴を描いたもので、性愛を肯定的に扱っているらしかった。明乃はそういう作品はスルーしていたが、たまたま図書館の棚で見つけて、つい借りてしまった。表紙が女性のヌード写真だったのでカウンターでの手続きが恥ずかしかった。家に置いておくとき家族に見られたくなかったので、包装紙でカバーを作った。
どんなことが書かれているのか見当もつかずに読んでみたのだが、明乃はその小説に感情移入できなかった。主人公の相手の男がどれもこれも好きになれなかったのだ。主人公の性の耽溺描写も大げさすぎて信じられなかった。これが女性にとっての理想の性愛であるのなら、そういう境地に達する女性は限られてくるだろう。
この小説は雑誌に連載されたものなので、男性読者におもねているのだろうか。しかし、男たちは性描写には興味をひかれるだろうけれど、実際にはこういう女性を敬遠するのではないか。そういう意味では、むしろ、作家による男性への挑戦なのかもしれない。
さらに、性愛を純粋に肉体的なものとして描こうとしているように見えるけれども、主人公の男性についての嗜好はむしろメンタルなものであるように明乃には思えた。かえって、性愛における精神的要素の重要さを強調しているように思えた。
たぶん、作者の体験したのは小説に描かれたような性愛ではなかったが、それはそれで十分満足できるものだった。その満足の大きさを表現するために、あのような極端な内容を描いたにすぎないのだ。現実とは次元の異なる、いわばスーパーな性愛として作品化することで、体験の実質を表現しようとしたのだ。
性愛に良い悪いやうまいへたの序列などなく、本当に愛し合うことができる者たちはみなそれぞれに最高の状態にあるのだ。
耕希と会うことがなければ、こういうことを知ることはなかった。こういうことを知らぬままに一生をおえていたのかもしれないのだ。性愛の喜びが欠けているとしたら、それは何とつまらない人生だろう。人生というのはいったい何なのだろう。その本当の意味は誰にでも公平に提示されているのだけれど、そのことに気づくのは一部の幸運な人だけ、ということなのだろうか。
食べることにはあれほど多くのことが言われ、いろいろな料理が作り出され、種々の店が次々に出現するのに、性愛についてはこそこそと語られるだけ。だから、多くの人は性愛の魅力を知らない。それはたぶん、性愛が危険なこととみなされているからだろう。性愛に耽溺することは、アルコールとか薬物とか賭博とかへの依存と同じとみなされて、健全な人間は、そういったものに捕らわれないように気をつけるべきとされているのだ。
けれども、そういう危険が伴うものは、趣味とか、遊びとか、いくらでもある。それらと性愛とどう違うのか。誰にも迷惑をかけていなければ、非難されるようなことは何もない。
性愛を敵視する人々は、自分がそれを得られないものだから、嫉妬と羨望にかられて、邪魔をしようとするのだ。そういう人には気づかれないようにしなければならない。明乃の気がかりはそれだけだった。
7
耕希の母親には姉が二人いた。三人の姉妹は別々の土地で暮らしているが、下の姉は耕希の通う大学があるところの近隣の街に住んでいた。しかし、耕希は大学に来てからそのオバと会ったことはなかった。彼女は夫と子供を棄てて他の男と一緒になったことで親族とは疎遠になっていた。耕希の母や上の姉は彼女の夫の味方となり、何とか事態を収めようとしたのだが、その経過の中で対立が深まり、関係を断絶する結果となった。
しかし、姉妹の関係悪化は表面上ほど深刻なものではなく、他の親族に気を遣ったというところもあり、最近では連絡を取り合うまでに回復していた。そして、上の姉の娘が入学を希望する大学が下の姉の家の近くにあることから、下宿させてもいいという提案があり、経済的に余裕のない上の姉はそれを受け入れた。娘は入試に合格し、この春からオバの家に下宿して通学していた。むろん耕希はイトコとは顔見知りだったが、それほど親しい間柄ではなかった。オバに対する幼いころからの疎ましさがまだ耕希には残っていたこともあって、近くにいるからといってわざわざ会うことはなかった。
母親がその娘について連絡してきたときも、面倒に思った。娘が大学をやめたがっているので、相談に乗ってやってくれというのである。
「姉さんが困っているのよ。せっかく大学に入れたのに、すぐやめちゃうなんて、もったいないし、第一、理由がはっきりしないのよ。ただやめたいというだけだし。それに、晴美姉さんの好意も無駄にしてしまうことになるでしょう」
「ボクにどうしろというの」
「同じ大学生なんだから、私たちより事情が分かるでしょ。ひょっとしたら、いじめにあっているとか、変な男に関わってしまったとか、親には言えないことがあるかもしれないでしょ」
「無理だよ。歳が近いからというだけで、本心を話してくれはしないよ」
「とにかくやるだけやってみて。姉さんにも重々頼まれているのよ。今のところ、何かできるのはコウちゃんしかいないんだから」
もとより、母親の意向に逆らうことができないのは分かっていた。会う段取りをつけることは母親たちにまかして、耕希は場所と日時を考えた。以前の彼なら、イトコとはいえ若い女性と会うことには興味は持っただろうが、いまあるのはただ義務感だけだった。
イトコのいる街の駅で待ち合わせることになり、日曜日の午後に耕希は出かけた。電車に乗り、大都市のターミナルで乗り換え、着いたのは三時前だった。改札口を出たところで耕希はたたずんだ。駅前はバス乗り場になっていて、広場を取り囲んで小さなビルが並んでいる。イトコの姿はまだない。耕希はぼんやりと行き交う人を見ていた。明乃のことは常に頭のどこかにあったが、今ごろは家族とともにいるであろう彼女の具体的な姿は想像しなかった。耕希にとって明乃の存在は彼といる一緒にいるときの彼女だけだった。思うとすれば、彼の腕の中にいる彼女だけだった。
イトコの愛良に声をかけられるまで、耕希は彼女に気がつかなかった。
「待たせた?」
「いや、いま来たとこ」
愛良は目立つ娘ではなかったが、思春期の不思議な作用が彼女にも現れていた。やや大柄な体と色白の肌は、少女の頃とは全く別の雰囲気を醸し出している。耕希は気圧されたような気持ちになった。
「ごめんね。お母さんたちのせいで迷惑をかけてしまって」
「いや。近くにいるし。もっと前に会いに来ればよかったのだけど」
耕希はあわて気味に辺りを見回す仕草をした。
「どこで話す?どこか知っているところある?」
「スタバがあるわ。そこでいい?」
耕希が頷いたので、愛良は歩き出した。耕希は少し後をついて行った。つまらないと思っていた愛良との会話に興味が起こってきた。スタバはさほど混んでいなかった。例のごとく、長居しているらしい学生やビジネスパーソンが何人かいた。二人は飲み物を注文して、カウンター席に並んですわった。前置きに何か話すほどの才覚もない耕希は、すぐに話題に入った。
「大学をやめたいんだって?」
「ええ、まあ、そう」
「つまらないのかい?」
「そういうわけではないけど」
「何かトラブルがあるんじゃないかって、母親たちは言っていたけど」
「そういうことはないわ」
「じゃ、なぜ」
「いろいろ考えることがあって」
「それだけでは皆を納得させられないよ」
「それは分かっている」
耕希はそれ以上どう言っていいか分からなかった。耕希自身も自分の気持ちを説明すること、他人に理解してもらうことの困難さやもどかしさは経験していたから、傍からやいやい言うことが無駄であることは分かっていた。もともと自分のやることが余計なお節介であると思っていたから、適当に切り上げてしまいたかった。
しかし、久しぶりに会った愛良の姿に、彼女をこのまま放っておく気にならなくさせる何かを耕希は感じていた。耕希は思ってもいなかったことを口走った。
「何かボクにできることがあれば、するよ。何でもいいから言ってみて」
頑なに見えた愛良の表情がすこし歪んだ。しばらく沈黙が続いた。賢明にも耕希は何も言い出さずに待った。
「出ましょう。ここでは話せないわ」
愛良はそういって席を立ち、店の外へ出た。耕希は後をついて行った。駅前の広場から延びている道路を行き、細い通りに入って何度が曲がると、小さな公園があった。いくつかのベンチとわずかな遊具しかない公園には誰もいなかった。木陰になったところのベンチに愛良はすわった。耕希もその横にすわった。愛良は黙っていた。耕希も何かに教えられたように賢明さを保ち続け、愛良が言い出すのを待った。ようやく愛良が話し出した。
「私、大学はやめたくないの‥‥でも、やめないとどうにもならないの‥‥私、怖いの」
耕希はどう反応していいか分からなかったので黙っていた。
「このことは誰にも言わないでね。あなたにだけ知ってもらえればいいのだから。他の人に知られたら、みんなに迷惑をかけることになるから」
「分かった。約束する」
「私がオバさんの家に下宿しているのはもちろん知ってるわね。こっちの大学に行くことで親にはかなりの負担をかけているから、それは助かっているの。借りているのはいい部屋だし、環境もいいし、いま住んでいるのはオバさんとその旦那さんだけで、二人とも親切にしてくれるし、不満なんか何もないわ。家はそんなに新しくないので多少の不便はあるけれども、そんなこと何ともない」
「じゃあ、問題は大学?」
「いいえ、大学にも不満なんかないわ。友達もできたし、まあ、面白くない講義もあるけど、勉強ってそんなもんでしょ」
「ひょっとすると、ストーカーか何かかい」
愛良は一瞬間をおいて、かすかにうなずいた。
「それならみんなに言わなきゃ。場合によっては警察に届ければいい」
「そうじゃないのよ。そんなんじゃないの」
「よく分からないな」
愛良は立ち上がり、ベンチから数歩離れ、細かな手の仕草をしばらくしてから、またベンチに戻った。
「じゃあ、言うわね。さっきの約束は守ってね。実は、下着をいじられてるの」
「痴漢か」
「そうじゃないのよ。クローゼットに入れてある下着がいじられているの」
「下着泥棒?」
「盗られたんじゃない。いじられているだけなの」
「誰に」
「たぶん、オバさんの旦那さん」
耕希は戸惑った。
「オバさんの夫がそうしているのを見たわけ」
「見たわけじゃない」
「じゃあ、どうしてそれが分かるの」
「順番に話すわね。私の部屋にはクローゼットがあるので、それを使わせてもらって、下着は引き出しに入れてあった。洗った後、たたんで重ねて、いくつかの列に並べてある。六月ごろ、気がついたのだけれど、私がしまったのとは、ほんの少しだけれど、位置がずれていることがあった。気のせいかと思ったけれど、よく注意してみると、そういうことが何べんかあった。それで確かめてみることにした。たたみ方を細工して、偶然できたような無駄な折込みを作っておいたの。そしたら、その折込みがなくなっていた。確かに誰かが下着をいじって、元通りに直していたのよ。そんなことをするのは、オバさんの旦那さん以外には考えられない」
「外部から侵入してきた可能性はないか」
「私の部屋に入ろうとすれば他の部屋を通らなくてはならないわ。一度ぐらいならできるでしょうけど、何度もは無理よ」
「そのことをオバさんたちに確かめてみなかったの」
「そんなことできるわけないでしょ。オバさんの旦那さんを疑おうというのよ」
「それで黙っていた」
「下着はみんな棄ててしまおうかと思った。けれど、そんなことをしたら、気がついたことが分かってしまう。そうなったら、どういう風にしていけばいいか分からない。それで、引き出しの中はそのままにして、新しいのを買って使っているの。引き出しの中のは使わないけど、定期的に入れ替えておくようにしている」
「いまでもされているの?」
「怖いから確かめていないわ。部屋は内側から鍵がかかるのだけど、寝ているときも不安でしょうがないの」
「そんなら、そんなとこから出ればいいじゃないか」
「それができるくらいなら、とっくにしているわ。家にはこれ以上負担はかけられないから、奨学金やバイトで何とかすることも考えたわ。けれど、オバさんの家を出るちゃんとした理由がないと。何か不満があって出て行くように見られたら、せっかくのオバさんの好意を踏みにじるようなことになって、お母さんに申し訳がないもの」
「それで、大学をやめることにしたのか」
「このままでは耐えられない。他にどうしようもないわ」
耕希は考え込んだ。
「要するに、オバさんのとこを出る理由があればいいんだな。それなら、向こうから出てくれというように仕向ければいい。何か迷惑なことをするとか。例えば、外泊を繰り返すとか。そうすれば、君のことにはもう責任を持てないということになるんじゃないかな」
「そんなことはできないわ」
「友達に頼めばいい。泊めてもらうんだ」
「そうじゃなくて、そんな振りをするのは無理。オバさんと仲悪くなるのは嫌。みんなにも迷惑かけるし」
「気を遣いすぎだよ。周りのことばかり考えて、自分のしたいことをあきらめてしまうのかい」
「しかたないでしょ。他に方法はないんだから」
話している間に耕希は思いついたことがあった。
「一つだけ方法がありそうだ。オバさんの旦那はどんな人だい」
「上品そうな人よ。でも、何だかわけのわからないところがあって。最近は薄気味悪くなったわ」
「どこかの会社の重役だったかな。ヤクザかなんかじゃないね」
「小さな会社らしいけど。時間に自由がきくらしくて、私が学校にいっているときに家にいることもあるの。オバさんが出かければ一人になる。そんなとき、私の部屋へ入っているのではないかしら」
「じゃあ、そいつを脅して、君が家を出るのを認めさせればいい。そして、そいつにオバさんたちを説得させるんだ」
「無理。そんなこと怖くてできない」
「君にはさせないよ。ボクがやってやる」
8
愛良は最初は反対し、耕希が説得するとためらい、結局は賛成した。うまくいかなくても、彼女と耕希とオバの夫の三人だけの秘密で終わり、他に知られなければ、影響はないだろう。もちろん、いずれにしてもオバの家は出なければならなくなるが、大学だけは続けるべきだという耕希の主張を愛良は受け入れた。それが彼女の一番の望みであるのは間違いないのだから。愛良は踏ん切りがついたようだった。耕希の来訪はそれだけの効果をあげたのだった。
愛良と相談して、耕希は計画を立てた。オバの夫と連絡するには手紙を使う。ケータイの電話番号やメールアドレスが分からないからではあるが、事前にこちらの正体を明かさないようにするにはそれが最適と思われた。手紙の内容は「愛良のことで話したいことがある」とだけにし、日時と場所を指定する。相手の都合は聞かない。無視されたり、都合が悪くて来れなかった場合は、また方法を考える。オバの夫が問いただそうとしても、愛良は何も知らないと答える。
耕希が交渉で目指す目的は、愛良が彼の家から穏便に出ることを認めさせること。彼が愛良の下着に手をつけていることを取引材料とし、こちらの要求を呑めばそのことは口外しないことを約束する。
筋書ではうまくいくはずだという自信が耕希にはあった。
しかし、オバの夫がしらばくれて、それは濡れ衣だと強弁する可能性も排除できない。愛良が自分の正しさを証明する手立てはないし、周りの人間たちも愛良よりオバの夫を信じるだろう。たとえどちらの言い分が正しいかの判断がつかなくても、愛良の側に立とうとはしまい。
決定的な証拠が必要だということは耕希にも分かっていた。指紋を取ったり、隠しカメラを使うという方法はあるけれども、具体的な実行は耕希と愛良には困難だった。できることは、決定的な証拠があるように装うことだ。スキャンダルのリスクを考えれば、相手は折れてくるはずだ。
それでも、それは賭けだった。耕希には経験が不足していたので、こちらの思惑通りには人が動かないということがよく分かっていなかったのだ。
耕希は後藤(オバの夫)あての手紙を出した。日を日曜に指定し、場所は愛良のときと同じ駅前にした。目印を白い帽子と赤いザックにした。ちょっとしたミステリ物語だ、と耕希は笑ってしまった。
当日、駅前に立っていた耕希に年配の男が近づいてきた。男は白い薄手のジャケットと淡いベージュ色のズボン姿だった。ネクタイはしていない。背は高く、細身だった。顔は整ってはいるが、歳相応に老けそこねたようにも見える。伊藤は小さな会社の重役だと聞いていたが、威圧的な感じはなかった。男は耕希の前に立つと、言った。
「君が手紙をくれた人か」
年長者の物言いだった。耕希は甘く見られないように不愛想に答えた。
「そうです。後藤さんですね」
「君はあの子とどういう関係なのかね」
「今からお話しする件に関しては、代理人です」
「ボーイフレンドなのか」
「それは、ご想像におまかせします」
「まあ、いい。いまどきの子にボーイフレンドがいるのは当然だ。だが、私には監督責任のようなものがあるからね」
「お話ししたいのはそのことについてです」
「どういうことだね」
「ここではお話しできません。人に聞かれないところでしましょう」
「どこかね」
「公園はどうでしょうか」
後藤は耕希の提案を無視して言った。
「いいところを知っている。案内するよ」
歩き出した後藤に耕希は従った。主導権を握られてしまったように耕希は感じ、そうはさせるかと気を引き締めた。後藤が案内したのは駅から少し離れた通りにあるカフェバーのような店だった。客が一組いた。後藤は常連らしく、カウンターの中の男に話しかけ、一つだけある個室を使う了承を得た。
席について飲み物の注文をした。
「ここならいいだろう。話を聞こう」
「お話ししたいのは、愛良さんとあなたに関することなのです」
「あの子が直接私に言えないことなのか」
「そうです」
「それは残念だ。私たちなりに気を遣ってきたつもりなのだが。なれてくれていたように見えたが、言いにくい雰囲気だったのかな」
「ことの内容が内容ですから、若い女の子が言えるようなことではありません」
「どういうことだね。妊娠でもしたというのかね」
「なるほど。そういう話かもしれないと思ったんですね。愛良さんを妊娠させた男が、その後始末を頼みに来た、と。違うんですよ。あなたと愛良さんに関することと申し上げたでしょう」
「分からないな。ほのめかしてばかりしないで、はっきり言いたまえ」
「では、言いましょう。愛良さんはあなたの家を出たいと望んでいます。それを認めてほしいのです」
「‥‥君と同棲するのか」
「そうではないですが、そんなことは関係ありません」
「そうだな。何をしようとあの子の自由だ。勝手にすればいい」
「なぜ家を出たいのか、その理由を知りたくはないのですか」
「あの子にはあの子の言い分があるのだろう。それをどうこうとは思わない。こんな回りくどいことをせずに、直接言ってくれれば話が早かったんだ」
「その原因はあなたにあるんですよ」
「私に?」
「あなたが愛良さんの下着に興味をもっているからです」
後藤は耕希の言葉に動揺したような様子は見せなかった。
「何のことを言っているか分からないのだが」
奇襲が成果をあげなかったので、さらに攻めるしかないと耕希は思った。
「当然、あなたは認めようとしないでしょうね。けれど、こちらには証拠があります。あなたは愛良さんの部屋に無断で入り、クローゼットの中の下着をさわっている。そのために、愛良さんは家を出たいのです」
「何を言い出すやら。とんだ言いがかりだ」
「証拠があります」
「どんな証拠があるというのだ」
「それは言えません。あなたがあくまでも事実無根だと主張されるなら、それでもかまいませんが」
「捏造するということもあるからな」
「そう思われるなら、それでも結構です」
後藤は耕希の顔を探るように見つめた。耕希は自信ありげな表情を作って見返した。沈黙がしばらく続いた。後藤が話を打ち切ってしまうおそれはないようだった。後藤が会話を再開した。
「君の言っていることは理解できない。私はそんなことをしたことはない。君たちが何かをたくらんでいるのでなければ、誤解しているとしか思えない。だが、君たちを説得できそうにはないな。私としては、濡れ衣であっても、スキャンダルは避けたい。あの子が家を出たいのなら、騒ぎ立てずに静かに出て行ってほしい。妨害する気などない。それとも、君たちは私を脅迫して、カネでも要求しようというのかね」
「愛良さんの立場を考えてください。愛良さんだって騒動にはしたくない。けれど、理由を告げることができずに恩義あるオバさんの家を出ることは大変なことなのです。彼女は大学をやめて帰郷するしかないと思いつめているのですよ。だから、円満に愛良さんがあなたの家を出ることができるように、お骨折りをお願いしたいのです」
「虫のいいことを言うもんだな。私にいわれのない罪をおっかぶせて、責任を取れというのか。ま、いいだろう。君たちが変なことを言い出したら、平穏な生活が台無しになってしまう。あの子がうちにいることで騒動になるなら、出て行ってもらうのは大いに歓迎だ。そのことで痛くもない腹をさぐられるのも業腹だから、適当な理由を作ってやってもいい。それで満足かね」
耕希はほっとしたが、顔には出さないように気つけた。
「ええ、そうしていただければありがたいです」
「あの子のうちは十分な学費を出すのが難しいと聞いていたのだが、それはいいのかね」
「愛良さんが自分で何とかするそうです。バイトとかで」
「そうか。それならその点は何とかしてやろう。家賃ぐらいは出してやってもいい」
「そこまで要求はしてませんよ」
「間違えないでくれよ。君たちの脅しを認めたわけではないぞ。あの子がどういうつもりか知らんが、大学をやめるとまで悩んでいるのなら、放ってはおけないからだ。妻の立場もあるからね。こちらの都合で出て行ってもらうという形にするなら、補償をするのが当然だろう」
「愛良さんがそれを受け入れるかどうかはわかりませんが。伝えておきます」
「では、話はついたな。今後、こんなことで私を煩わせることはしないでくれ」
「分かりました。約束します。ただし、このことで愛良さんを問い詰めたりしないでください。愛良さんとは何もなかったように振舞ってください。もし、あなたの方が約束を破ったなら、公表せざるをえなくなりますから」
「私としては、釈然としないが、穏便にすまされるのなら、それが一番だ。ただし、このことで変な噂でも立ったなら、君たちをただではおかないぞ」
「誰にも口外しません。三人だけの秘密です」
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愛良のことは順調に進み、以前から必要とされていたリフォームをするためという名目のもとで、彼女はオバの家を出て、ワンルームマンションに引っ越した。耕希は母親には愛良が大学を続けるように説得したとだけ報告していた。母親は彼女の姉から感謝されたということを耕希に伝えて、あなたでも役に立つことがあるのねと嬉しそうだった。
明乃には愛良のことは黙っていた。後藤との約束や愛良の気持ちを考えてのことだが、明乃に自分のことを全て話そうとは思わなかった。明乃に教える必要のないこと、教えたところで理解できないことがあると思っていた。
大学生として当然のことだが、耕希にはエリート意識があった。選抜試験を勝ち抜いてきて、高度な学問を学び、将来は社会の重要な位置につくことになっている。自分が特別な者だということをいささかも疑うことはなかった。明乃はそれを察していた。
性愛以外のことでは、元から耕希は高飛車な態度だった。何かにつけて批判的な見解を取ることにこだわった。新しい知識を得たことで世界がいままで教えられていたのとは違っていることが分かり、再解釈できることを悟ったのだ。そして、明乃を含めて、従来の見方に捕われている他の人間を低く見ていた。
彼はまだ若かった。経験は限られていた。いわゆる「世の荒波」にまだもまれていない被扶養者なのだ。若さが極端に走らせるものであること、経験のなさが他人を軽く見ることをゆるしてしまうこと、それは明乃も通ったことのある道だ。しかし、耕希はまだしばらく若いままであり続けるだろうから、彼が熟すのを明乃は待てないだろう。耕希と付き合うことは、彼の若さと付き合うことである。明乃が望んだのは耕希の若さではなかった。若さであるとしても、その鮮やかさの方であり、その独善の方ではなかった。だが、両者が一体であり分けられないとすれば、明乃は我慢するしかないだろう。
例えば同棲するとかして四六時中一緒にいることになったなら、耕希の狭量さに我慢できるか分からない。しかし、そういうことにはならないだろう。二人のやっていることは幻想の中でのことであり、未来はないのだ。現実が試練となったときには終わるのだ。永続きはしないのだ。いずれは別れることになるのだ。だとしたら幻想が保たれているうちに終わらせるべきではないのか。明乃はそう考えることもあったが、具体的に行動に出る決心はつかなかった。耕希を失うことに耐えられるか自信はなかった。どこかよそから何かのきっかけが来てくれるのを待っていた。
そもそも明乃と耕希がこういう仲になったのも偶然から始まったのである。もしあのとき耕希にたまたま出会うということがなかったなら、明乃はこういうことをすることはなかったろう。だから、また何かが起こって、二人の仲は自然に解消されるのではないかと明乃は期待していた。
それは明乃の自己欺瞞だったろうか。耕希に会うことがなかったとしても、いずれは他の誰かとこういう関係に陥ってしまったのではないか。はっきり意識していないとしても、そういう望みとか欲求がどこかにずっとたまっていて、機会を待っていたのではないか。しかし、明乃が何となく望んでいたのは、こういうことではなかったはずだ。何か分からない疎外感や不安から、誰かに声をかけたい、見知らぬ他人でもいいから結びつきを確かめたい、という気持ちだったのだ。耕希に会ったのは偶然で、明乃は最初の機会に飛びついただけなのだ。
しかし、結局、自分の求めていたのはこれだったのかもしれない。心の奥底に隠されていた自分の本質が露わになっただけなのかもしれない。
耕希の方は、明乃が彼から離れていくことなど考えもしていなかった。耕希は二人の関係を絶対的なものと見たがった。二人の出会いは必然であり、こうなることは二人が生まれる前から決まっていたのだ、と。だから、耕希が必要としたとき明乃が現れたのだ(そこには、彼が必要でなくなったら明乃は消えていくという勝手な論理が含まれているのだが)。明乃はそう思いたい耕希の気持ちをからかわずにはいられなかった。
「すべてが決まっているなんて、おかしいわ」
耕希は仕入れた知識を駆使して、明乃に反駁した。
「おかしかないよ。人間の性格や行動は基本的に遺伝的に決められている。人間は自分で思っているように自分自身をコントロールしているわけじゃない。知らずに既に決まった道を進んでいると考えてもおかしくはないさ」
「じゃあ、人間には自由はないわけ?」
「ボクらが何かをするとき、ある可能性の中から選ぶわけだろ。その選択を自由にしたつもりでも、選んだことには何らかの理由がある。でたらめに選んだとしても、でたらめに選んだ理由がある。その理由をボクらは分からないとしても、全ての要因を認識できる神のような存在から見れば、その選択は必然だったはずだ」
「ということは、ものごとがこうなるというのは決まっていて、ほかにはなりようがなかったわけ?偶然というのはないの?」
「偶然とか確率というのは、ボクらには未来が分からなかったというだけのことじゃないか」
「じゃ、私たちのことも、こうなるように定まっていたわけ?」
「現にこうなっていて、他にはなっていないだろう?」
「最初に会ったとき、どちらかがあの道を通るのがもう一分早いか遅ければ、二人は会わなかったのじゃない?」
「あのとき二人が会うためには、それ以前にどういう出来事が必要だったかについては決定論は何も教えてくれないんだ。あのときボクが違う靴をはいていたらどうだったろう。靴が違うということは何らかの影響があったはずだけど、二人が出会うことにどんな作用を及ぼしたのかボクらには分からない。ボクが一分早くあの道を通ったとしても、あなたが同じく一分早かったら、ボクらは会ったわけだ。あの時刻にあそこにいることが二人が会うために絶対に必要だったのかどうかも分からない。過去だってそうなのだから、未来の予測はボクらにはつけようがない」
「じゃあ、私たちの未来は決まっているけど、私たちはそれを知ることができないの?だったら未来が決まっていようとなかろうと、同じことじゃない」
「それはそうなんだけど、決定論というのは、人間は何にでもなれるし何でもできるという見解に異議を申し立てるのに必要なんだ」
「でも、もし私たちのすることが決まっているなら、自分のしたことに責任を持つ必要はなくなるのではない?例えば犯罪者がそういうことを持ち出してきたなら、どうなるの」
「他人の責任を問うのは、ボクらがそうするようになっているからさ。主観的には、その人にそういう行動を繰り返させない、あるいは他の人にもさせないというために、責任を問うのかもしれないけれど、それはどうでもいいことなのだ」
明乃はそれ以上言うのをためらった。何を言ってもしたたかな耕希に言い負かされてしまいそうだったし、議論に熱を入れすぎると耕希に対して何か気持ちのよくない感情が芽生えてきそうだった。この子はまだ若いのだ。世の中のことがよく分かっていないのだ。生きていくのに理屈だけでは足りないのがそのうち分かるだろう。私たちのことだって、理屈では何も理解できないではないか。
耕希もそれ以上言わなかった。耕希は明乃の唇を自分の唇でふさいだ。あのとき明乃の唇から次に出て来たかも知れない言葉を聞いていたなら、その後のことが違った風になっていたかもしれない。あるいは、そうはならないことは決まっていたのか。
10
急に会いたいと明乃が耕希に連絡してきたが、彼の部屋では困ると言うので、理由は分からぬままに、明乃の運転する車に拾ってもらうという段取りになった。二人が知っているホームセンターの駐車場で待ち合わせることにした。歩いて行くには不便なところだが、知り合いに見られる確率が低いからという明乃の意見を耕希は受け入れた。明乃の切迫さが耕希を不安にさせた。何か二人の仲を危うくすることが起こったのだろうか。
先に来て待っていた耕希が駐車場に入ってきた明乃の車を見つけて乗り込むと、彼女は車を駐車場から出した。耕希の問いに「後で」と答えたなり明乃は黙っていた。坂を上り、山裾の小さな寺の境内に入った。他の車はなく、人影もない。明乃はバッグから封筒を取り出した。
「これを見て」
後期は封筒を受け取った。白い角封筒であて名は明乃の姓だけである。作ったような字体だ。差出人の名はない。切手は貼っていない。開け口から中を見ると写真が入っていた。取り出した写真には、建物から出ようとする明乃が写っていた。引き伸ばしたものらしく、画質は荒いが、明乃であることは分かる。
「あなたのアパートから出るところを撮られたのよ」
「他に何か手紙のようなものは入っていなかったの?」
「その写真だけよ」
「これはどこにあったの」
「郵便受けに入っていた」
「誰に撮られたかは分からない?こんなことをしそうな人間の心当たりはない?」
「分からないわ」
「いつだろうな」
「服装から日にちが分かるかもしれないけど、はっきりは憶えていないわ。こんなことされるなんて、思ってもみなかった。馬鹿だったわ。もっと慎重にすべきだった」
明乃の恐怖は理解できたが、耕希には実感が湧かなかった。こんなもので人を脅かそうとするのは、何か非現実的な気がする。
「手紙が入ってないから、目的が分からないな。警告かな」
「警告?」
「世の中にはお節介な人間がいるから」
「私のしていることを非難しているというの」
「もっと悪意があれば、あなたの夫に渡そうとするはずだけど」
「名前が書いてないから、どっちに届けようとしたかは分からないわ」
「あなたの夫の名前を知らなかったのかもしれないね」
耕希は写真を封筒に戻した。
「これ、ボクが持っておくよ。調べてみる」
耕希はふと思いついて言った。
「あなたの夫じゃないかな」
「まさか」
「あなたの夫は優しい人らしいから、直接あなたに問いただすのができなくて、こうやって、知っていることをほのめかすようなことをしたんじゃないかな」
「そうじゃないと思うわ」
「何で?」
「あの人はそういうことはしないでしょう」
耕希にしても、夫に知られるという事態は面倒なので、想定から外せるならその方がよかった。明乃は言った。
「しばらく会わないようにしましょう」
「どうして?こんな脅しに屈服するの?」
「会うのをやめなければ、もっとひどいことをするかもしれないわ」
「こんなことをしたやつを見つけ出せばいい」
「無理だわ」
「じゃあ、そいつが見つからなければ、このまま別れてしまうことになるわけ?」
明乃は答えなかった。耕希は歯がゆかった。たとえ誰に知られようと、二人の仲を裂くことはできないと、明乃に言ってほしかった。とはいえ、耕希自身はそうは言えなかった。明乃が家にいられなくなったとき、学生の身ではその責任は負えないのだ。耕希は未練たらしく言った。
「もっと用心深くしたら、いいのじゃない?」
明乃の生活のことよりも彼女の体を抱く機会のことを重視している耕希を、明乃は仕方ないと思った。彼にはそれ以上のことを期待できなかった。けれども、ここでは妥協できない。彼に我慢させるしかない。二人の意見が異なるとき、たいていは明乃が先に折れた。しかし、いまの明乃は怯えていて、耕希に気を遣う余裕はなかった。
「駄目。危険すぎる」
耕希は明乃の強固な態度に屈せざるを得なかった。
「分かった。そうしよう。じゃあ、最後だから、今日してくれる?」
明乃は拒みたかった。そんな気には全然なれない。しかし、耕希に言うことを聞かせるためには、その要求を受け入れざるを得なかった。車だから、気をつければ後をつけられることはないだろう。どこかのラブホに行けばいい。明乃はそう判断した。
ラブホを目指してドライブしている間、二人は黙っていた。
明乃はこの状況をどう受け止めていいか分からず、同じことを何度も繰り返して考えていた。耕希とのことは後悔すべきなのか、きっぱりとやめてしまうべきなのか。しかし、耕希を失うことに耐えられるだろうか。何も決められない、どうしていいか分からない。
耕希は、明乃とどういう関係にある人間がこんなことをするのか、考えていた。男だろうか、女だろうか。後をつけたのだろうか、偶然見かけたのだろうか。金銭が目的でないなら、犯罪の通例として「痴情か怨恨」だろう。「嫉妬と羨望」というのもあるかもしれない。ストーカーというのはどうだ。耕希は初めて明乃に、夫と彼以外の男がいる可能性に気づいた。そんなことはいままで全然考えたことはなかった。明乃は夫以外に付き合った男はいないようなことを言っていた。耕希はそれを素直に信じていた。しかし、明乃が全てのことにおいて正直であるとは限らない。都合の悪いことは隠すだろう。それは耕希でも同じだ。耕希がやすやすと明乃と深い仲になれたのも、明乃がそういうことに慣れていたからではないのか。いまは耕希の他に愛人はいなくとも、過去にはいたかもしれない。その男が復縁をたくらんでいたとしたら。あるいは、もしかして、耕希の後に新しい男ができたのではないか。耕希によって抑制が外れ、淫乱な本性が現れたのでは。
ひょっとしたら、明乃は耕希に飽きたのではないか。耕希と別れるために、自作自演の芝居をしているのではないか。明乃のことは夫よりもよく理解していると思っていたのに、実は何も知らず、うまく騙されていたのかもしれない。
いや、そんなことはない。抱き合っているときの明乃は真実を語っているはずだ。
だが、お前は明乃に真実を語っているか。
だとしたら、明乃だってそうかもしれない。
会わないようにするという明乃の気持ちも疑えば疑える。それほど用心深くする必要があるのだろうか。会いたい気持ちが強ければ、多少の危険もいとわないのではないか。
明乃のことが信用できなくなった。
だが、それが明乃への執着を薄れさせることはなかった。自分が見て触って抱いて密着している明乃の体を、他の男が同じようにしているか、したいと渇望していると思うと、欲望が破裂するほどまでに膨らんでくるのだった。
11
耕希が写真を投函した「犯人」に思い当たったのは、愛良が彼を訪ねて来たときだった。愛良は彼女の母親に指示されてお礼の品を持ってきたのだ。耕希は愛良を駅まで迎えに行き、アパートで話をし、帰るときには駅まで送っていった。愛良と話していると、後藤を脅した自分が今度は脅される方の側にいることが、偶然とはいえ、奇妙な因果応報に思えた。しかし、後藤の場合は当然の報いだが、自分たちは悪意の犠牲になっている、と耕希は思い返し、そのとたん、その悪意が誰のものかが分かったのだ。
耕希は後藤に手紙を出した。電話番号もメールアドレスも分からないから、それしか連絡の方法はなかった。前回と同じように駅前で待ち合わせ、同じ店に行った。部屋で二人きりになると、いきなり後藤が言った。
「君はあの子のイトコだそうだな。何で隠していた」
「正体不明の方が効果があると思ったからです。それはあなたも同様でしょう」
「何のことだね」
「これです」
は写真を机の上に置いた。後藤はのぞき込み、手に取った。
「これがどうしたというのだ」
「こんなものでボクを脅そうとするのですか」
「脅す?どういうことか分からないな」
「またしらばくれるんですね。そうはいきませんよ。こんなことされるなら、ボクの方も黙っちゃいませんよ」
後藤は耕希の剣幕をけげんな風に受け流し、黙って写真を見続けた。
「そうか。この写真の女性は君の恋人だが、まともな関係ではない。君よりかなり年上のようだから、夫がいるのだろう。それで、誰かが君を脅している、ということか。ただし、私はそんなことをしていないよ。そんな必要が私にあるか?あの小娘の件で、私が君を恨んでいて、わざわざ君のことを調べた、と言うのかね。何のためにそんなことをする?君を脅して、私に何の得がある?見当違いだよ。君を脅しているのは別の人間だ」
「あなた以外には考えられません」
「やれやれ、困ったものだな。よく考えてみてごらん。君を攻撃しようとする人間はいくらでもいるはずだ。過去に君にひどい目に合わされたとか、大学でのライバルとか、君のご両親の関係かもしれん」
「そんな人間はいませんよ」
「じゃあ、君の相手の関係者はどうかね。たとえば、一番怪しいのは夫だろう」
「そうだとしたら、ボクの方に送ってきたはずです」
「え?これは君が受け取ったのではないのか。だとしたら、脅しの対象は君ではなくて、相手の方だろう」
「それは分かりません」
「そうか。まあ、私にとってはどうでもいいことだ。とにかく、わたしはこの写真については関与していないよ。もう君との間のごたごたは御免だよ」
「あくまでしらばくれるのですか」
「しつこい、いいかげんにしろ、と言いたいところだが、事を荒立てるのはよそう。どうすればいいのかな」
耕起は後藤の言うことをどう判断していいのか迷っていた。疑惑は晴れないが、後藤が嘘を言っているようにも見えない。耕起に嫌がらせをするのなら、真実を話さないまでも、ほのめかすぐらいはするはずだ。耕起の困惑を察したのか、後藤は言った。
「これは囚人のジレンマの一種かな。いや、状況が違うか。とにかく、疑心暗鬼の相手を説得する方法の一つとして、相手に自分の弱点をさらすというのがある。それとはちょっと違うのだが、私の誠実さの証として、あることの告白をしよう。そうすれば私に対する君の不信と不安を解消できるだろうから」
後藤は耕起の反応を確かめるかのように少し間をあけてから続けた。
「君と私は同じ穴のムジナなんだ。君の言った通り、私はあの子の下着に興味を持った。そのことをあの子に知られたのは不覚だったが、実は、君たちには感謝している。あのままだと、私はあの子に襲いかかっていたかもしれない。この歳になってもそういうことをしかねないというのは、情けないことだが、事実だからしょうがない。世の中にはそういう衝動に負けてしまう男がたくさんいる。下着泥棒、電車の中の痴漢、階段やトイレや更衣室での盗撮。そんな下らぬことで仕事を失ったり家庭が崩壊したりするのは割に合わないことは分かっていても、やめられないのだ。それだけ性の衝動というのは強いのだ」
「同じにしないでください。ボクたちはそんなのじゃありません」
「そうかね。愛だの恋だのといっても、やっていることは同じではないか」
「下劣なことを言わないでください」
「下劣かね。しかし、冷厳な事実として、女の体は男を誘っているのだ。女がそこにいるだけで男は引きつけられてしまう。男が我慢できるのは、自分とは関係ない女を相手にはできないからだ。しかし、自分の手の届く範囲にいると思い込むと、それが幻想であっても、男は衝動に逆らえない」
「そんなのは、卑しい自己弁護です」
「では、君のしていることは弁解の必要はないというのかな。まあ、いい。聞いてくれ。私だって、のべつまくなしに女を追いかけているわけではない。職場でセクハラなんてこともしたことがない。それくらいの抑制はきく。あの娘にしても、最初は何でもなかった。特に引き付けられるほどの魅力のある娘ではなかったからね。むしろ、一緒に暮らすことは迷惑に思っていたくらいだ。しかし、同じ屋根の下で日常的に傍にいられると、どうしても体が目についてしまう。襟や脇からほんの少し見える胸のふくらみとか、むき出された手や足とか、衣服の下にあるものを示している腰の形とか。それが目の前にあると、引きつけられ、それが意識を占領し、四六時中そのことに捕らえられてしまう。そして、体の中で何かが膨らんでくるようで、震えのようなものが起こるようになる。抑えるのに苦労する。というより、抑えようともしなくなる」
「奥さんがおられるでしょう」
「そうだな。だが、それとこれとは別だ。いったん取りつかれると、どうしようもなくなるのだ」
「スケベジジイですね」
「そう言われても、何とも思わない。実際、そうだから」
「開き直るのですか」
「どうしようもないことがあるのだ。自制心などは状況が作るものだ。君だって分かっているだろ。私にしても、こういう状況でなければ、あんな馬鹿なことは決してしなかっただろう。それまでは、女の下着なんぞに執着する輩のことなど馬鹿にしていた。女と付き合うことすらできない、欲求不満の哀れな連中だ、と。同じことを自分がするとは思ってもみなかった。あの子の下着に興味を持つようになったのは、洗濯物として干してあるのを見かけたからだ。あの子はその点は無邪気だったから、目立たないように隠すことはしていなかった。何度もそういうものを見せつけられると、おかしくなってしまうのは当然だろう。あの子が家にいなくて、妻も出かけて、一人で家にいることがあったとき、引き寄せられるようにあの子の部屋へ入ってしまった。部屋の鍵は外から施錠できないから開いていたのだ。若い娘の部屋に入るだけでも興奮したよ。あの子はどちらかというと地味な娘だから、そんなには華やかさはないが、ちょっとした飾りつけにでも、以前とは全然異なった雰囲気を作り出していた。衣装ダンスに下着はあった。几帳面な子でね、丁寧にたたんで並べてある。かき回せばすぐに分かってしまう。一枚だけ取り出し、たたみ方をおぼえてから、広げてみた。この布切れがあの子の体を包んでいるのかと感激したよ。だが、すぐにたたんで、元の位置に戻した。そんなことは一度きりにするつもりだった。だが、家で一人になる機会があると、どうしても我慢できない。あの子の部屋へ行き、下着に触れた。一枚だけではなく、何枚かを取り出した。そして元のように戻しておく。そのうち、どんな下着があるのかほぼ分かってきた。目の前のあの子が今日はどれを身につけているかを想像するだけで、震えがきた」
「変態じゃないですか」
「そう思うかね。君もここへ来る途中で若い娘たちを見かけただろう。彼女たちは、ヒマさえあればスマホでゲームをするか、SNSの噂話をチェックしている。そうでなければ、テレビの下らぬバラエティ番組を見て楽しそうに笑い声をあげているのだろう。だが、そんなことはどうでもいいのだ。そんなことは彼女たちの価値をわずかでも損なうことはない。彼女たちのハデな化粧、ハヤリの服、意味不明のタワ言、野卑な動作、それらさえ魅力あるものにしているのは彼女たちの肉体なのだ。われわれ男にとっては、それが唯一無二の光なのだ。われわれにとっては、彼女たちの存在はそれだけでしかないものであり、それだけで十分なものなのだ。君にしたところで、君の相手をそう思ってはいないかね。君がいまその人を肉体として愛しているのならば、その幸運に感謝したまえ。そして、その人を大事にするのだ。そういう関係こそ、われわれが得ることができる最上のものなのだから」
耕希はどう答えていいか分からなかった。後藤が自分自身と耕希を同列に並べているのが不満だった。耕希のやっていることは特別なことであり、汚らしい欲情とは区別されてしかるべきだった。しかし、たった一枚の写真に脅かされるほどもろいのも事実だった。
後藤は続けた。
「老人だって、君たち若い者と同じように、取りつかれてしまうものだよ。ハタから見ればみっともないことだろうけどね。あの子がいなくなったら、憑き物が落ちたように、平静に戻った。そういう冥界に迷い込むことは誰にだって起こり得る。いまの君もそうだろ」
「ボクたちは違います。もっとまともなものです」
「性にまともも変態もないよ。まともというなら、単に受胎のためにするのがそうだろう。君たちはそうではない。性は社会的な約束事を無視させる。それだけコントロールが難しいのだ。だから、変態というレッテルを張り付けたりして何とか抑え込もうとする。君がこの写真に敏感に反応したのも、社会的な指弾に怯えたからだ」
「ボクはそんなこと気にしていません」
「君はね。君は独身の間男だから、いざとなったら頭をかいてすますことができるだろう。だが、相手の女性はどうなる。家庭がある。子供もいるだろう。親きょうだいもいる。勤めていれば職場もある。君はそういったことの責任はとれるのかね」
「あなたには関係のないことです」
「おやおや、ではこの写真が私とは関係がないことが分かってくれたようだな。それなら、もう話は終わりだ。君は君の頭の上のハエを追うことに専念したまえ」
「本当に、この写真とは関係ないのですね」
「私は言う必要のないことまで君に話した。それで信用してもらう他ない」
「‥‥‥」
「見込みが狂ってがっかりしたようだね。濡れ衣をかけられたことで君を責めるつもりはない。恋している人間は半分狂っているからね。私は君の情事の邪魔をする気はないよ。所詮、情事は情事だから、いつかは終わる。君は若いから、他の女に目移りするようになる。破綻をうまく乗り切ることを心掛けておくのだな」
「ボクは遊びのつもりではありません」
「ほう。では結婚を考えているのかね。感心だ。頑張りたまえ」
「そういう世俗的なことは超越しています」
「そんな言葉で自分を誤魔化してはいけない。君はその人とのいまの関係を一時的なものとみなしている。生命力あふれる若さの燃焼であり、相手もそれを承知のうえで、セツナ的な、暗闇の中の火花のように、激しくもはかないものだと思っている。いまは大きな力を振るっているが、君のこれからの人生には何の影響も与えることはないと思っている。ちゃんとした恋愛はこれからするもので、それは正しい手続きのもと、お互いの心の結びつきが、欲望をも制御することができて、生活を安定させ、充実させると思っている。それは子供の夢見る青春物語だ。そんなものは、異性の肉体の発する閃光で即座に蒸発してしまう。君はもうそれが分かったはずだ」
「正しい恋愛というものがあるならば、いま今のボクたちはそうです」
後藤は不思議そうに耕希を見た。
「君はよっぽどその女に夢中なんだな。君にとって初めての女なのか」
「そんなんじゃありません」
「まあ、どうでもいいことだ。話はこれで終わりにしよう。この写真については、私のあずかり知らぬことだから、その点は安心したまえ」
12
後藤との会見が空振りとなり、明乃とは会えぬままなので、耕希は大学にいることが多くなった。不義理していた友達とはお互いに敬遠気味で、ほとんど一人でいるが、気にはならなかった。明乃のことを思うのには一人の方がよかった。授業中はその内容に意識を向けられるが、一人になると明乃のことばかりを思っていた。その日も授業の合間にキャンパス内の数少ないベンチの一つに座ってばんやりとしていた。
「何を考えているの?」
前に美香が立っていた。耕希は彼女が近づいて来るのに気づかなかった。耕希はいなすように言った。
「いろいろとね」
耕希は明乃と会うようになってから、美香には無関心になった。美香と話したりすることが面倒で、避けるようにさえした。そういう耕希の態度を美香がどう取っていたのかは分らないが、いま目の前の美香は屈託がなさそうだった。
「また歯医者へ行かなくちゃならいのよ。全く嫌になっちゃう。歯医者の椅子にすわって治療を受けながらいつも思うわ。ここでどのくらいの時間、人生を無駄に過ごしただろうかと」
「経験というのは決して無駄にはならないさ」
「そうかしら。悪い経験というのもあるのよ。何の役にも立たないどころか、将来によくない影響を与える」
「そういうこともあるのかな」
「夏休みには実家へ帰るんでしょ?」
「そうだな」
「遊びに行ってもいい?免許取ったから、家の車使って、ドライブしていくわ」
「危ないな」
「心配ないわ、それまで練習するから。一緒にドライブしましょう」
「そうだな」
気のなさそうな耕希の返事にこだわる様子もなく、美香は耕希の横にすわり、耕希の持っていた本を取り上げた。本をざっとめくっている美香の横顔を耕希は見ていた。かつては彼の気を引いたはずのその表情は、通りすがりの他人ほどにも興味が湧かない。しかし、あまりに邪険にするのはさすがにためらわれたので、耕希はお茶に誘ってみた。
「歯医者を済ませなくちゃ。あとでいい?。あとであなたのアパートに寄るわ。もう授業は終ったんでしょう?」
耕希は改めて不思議そうに美香の顔を見つめた。美香が彼のアパートへ来ると言い出したのは始めてだった。以前は耕希が誘っても、二人きりでは決して部屋へ入ろうとしなかった。何の下心もないときでさえそういう警戒の構えを示されるのにはあきれたが、二人きりになればどうなるか分かったものでもないと、美香の用心深さには納得していた。
美香の声の調子はいつもより明るすぎるようであった。それは耕希の錯覚だったかもしれない。耕希の中で何かが動いた。彼はかすれたような声で答えた。
「じゃあ、待ってる」
耕希はアパートに帰ることにした。午後の講義はあったが、欠席することにためらいはなくなっていた。明乃と会えなくなって、耕希は欲望を抑えることに苦労していた。明乃との結びつきをいつも意識していられたときには他の女性には何の興味も湧かなかったが、明乃との機会を奪われているいまは、通りすがりの女性の体に目が行く。美香をそういう対象から外していたのは習慣からだったが、彼女が明乃の欠落を埋める存在になることに気づいた。それはよくないことに思えたが、絶対にすべきではないとも思えなかった。美香がいいなら、それでいいのではないか。明乃への愛は変わらない。むしろ、明乃への不満をつのらせないために、そうしてもいいのではないか。明乃とまた会うことができるようになれば、やめればいいのだ。美香の気持ちは、彼女自身のことだ。彼女が嫌がるのならそうしない。彼女が望むなら、そうする。自分の身勝手さは分かっていたが、耕希は自分を抑えられなかった。
美香が耕希の部屋へ入るのは初めてだった。彼女は部屋を一瞥し、ちゅうちょなく上がり込み、持っていた紙袋をテーブルの上に置いた。
「ケーキ買ってきた」
「ありがと。コーヒーを入れよう」
耕希はカスコンロの上にあったケトルに水を入れ、火にかけた。そして、カップを二つ、インスタントコーヒー、クリームパウダー、砂糖、それとスプーンを出してテーブルの上に置いた。
「お皿、ある?」
耕希が皿を出すと、美香は袋からイチゴのショートケーキを出して載せた。
湯が沸くまで待たねばならなかった。二人はテーブルについた。
「わりと片付いているのね。男の人の部屋って、もっと散らかっていると思っていた」
「大した荷物はないからね」
湯が沸くと、耕希は準備をしていたカップに注いだ。二人はコーヒーをまぜたスプーンを使ってケーキを食べた。
「味はどう。駅前の店で買ったんだけど」
「おいしいよ」
明乃のときと同じように、耕希にはそれらの行為が儀式のように思えた。何の実質も伴わないが、それをやっておかなければ後へは進めない。美香も同じように感じていたのかもしれない。会話は続かず、とぎれとぎれになった。美香が食器を片付けようとしたので、耕希は制した。
「後で洗うから置いといて」
美香は食器をシンクに置いた。耕希は立ち上がり、美香の傍に立った。儀式はもう終わりだ。耕希は美香を抱き、キスをした。美香は抗わなかったが、耕希が彼女の体をまさぐり出すと、言った。
「あの女とは別れたの?」
それで耕希は分かった。彼は美香の体から離れた。
「そうか、お前がやったのか。写真をポストに入れたのはお前だな」
「何のこと」
「しらばくれるな。なぜあの人のことを知っている」
「それは、‥‥ここに来たのを偶然見たのよ」
「それで後をつけたのか。あの人の家まで」
「‥‥」
「何であんなことをした」
美香は挑戦するように言った。
「あの女が不倫しているからよ」
「あの人が何をしようとお前とは関係ないだろ」
「不倫は悪いことよ。ゆるされないことよ」
「そんなのは誰も信じてはしないお題目だ。不倫で迷惑する人間なんていない」
「夫を裏切っているのよ」
「知らなければ、それでいいじゃないか。不倫を非難する奴らは、自分ができないからやっかんでいるだけだ」
「そんなに不倫を正当化するのなら、誰に知られてもかまわないでしょう」
耕希は美香から離れ、椅子に座った。
「どんなことをしたか分かっているのか。みんなを不幸にするだけだ。お前はあの人の夫のことなど考えてはいやしない。お前にあるのは妬みだけだ」
「何とでも言いなさい。私は正しいことをしただけよ」
「頼むから、お節介なことをしないでくれ。もう二度とあんなことはしないと誓ってくれ」
美香は耕希を見つめていた。彼女も何かを理解したようだった。
「まだあなたはあの女と付き合っているのね。そんなにセックスがしたいの。まるで獣じゃないの」
「じゃあ、お前はセックスはしないのか。今日、ここへ来たのは何のためだ。ボクとセックスするためだろう。セックスでボクを縛ろうというんだろう。冗談じゃない。誰がお前となんかセックスするか。お前はあの人とは大違いだ。お前なんかにその気になるわけないだろ」
美香は泣き出した。耕希はすぐに後悔した。
「ごめん。言い過ぎた。ボクはあの人を愛している。あの人のことは諦められない。君にちょっかいを出そうとしたのは寂しかったからだ。悪かった。君を傷つけてしまった。謝る」
美香は泣き続けた。耕希は黙って待った。ようやく美香は言った。
「ごめんなさい。私、どうしても我慢できなかった。あの女が憎かった。あの女をめちゃくちゃにしてやりたかった」
「分かった。もういいよ。済んだことは仕方がない。二度とあんなことはしないでくれ。お前のことを憎んだりはしない。だが、ボクのことは放っておいてくれ」
13
耕希は、明乃との関係がいつまでも続くものではないにしろ、自分の方が飽きるようなことがなければこのままの状態を保てると思っていた。だから、突然明乃と別れてしまうようなことが起こったのが信じられなかった。
明乃に美香のことを告げると、彼女は安堵して、元に戻ったように耕希には思えた。しかし、そのあと、ようやく再び会えるようになったとき、明乃は美香のこと蒸し返した。
「美香という子は本当にもう何もしないかしら?」
「心配しなくてもいいよ。美香は真面目だから」
「そんな子が、どうしてあんなことをしたの。あの子とは、本当はどういう関係だったの」
「話したとおりだよ。友達付き合いはしてだけだよ。明乃と知り合ってからは、会うこともなかったよ」
「はっきり別れたのね」
「そんな仲じゃないったら」
「じゃ、どうしてあんなことをしたのよ」
「ちょっと邪険にしすぎたかな。そこまで思い詰めているとは知らなかったんだ」
「あなた、その子と何かあったんでしょう。でないと、そこまでするかしら」
「ボクの言うことを信じないのか。まさか、妬いているのか」
明乃は彼女を愛撫する耕希の手を押し留めた。
「私見たのよ。あなたがアパートから女の子と一緒に出てくるのを」
耕希はちょっとうろたえた。
「それは美香だよ。一昨日だろ?写真のことで話をしたときだ。明乃はここへ来たの?」
「一昨日じゃないわ。もっと前」
「覚えないけど」
「あなたに会いたくて、でも会うことはできないから、せめてアパートの近くまで来てみたの。そしたら」
耕希はようやく事情が分かった。
「愛良だ。イトコだよ」
「イトコ?」
「母親の姉の娘。こっちの大学に通っていて、下宿を変える手伝いをしたので、そのお礼に来たんだよ」
「そういう話は全然しないのね」
「いろいろ事情があって、説明するのが面倒だったから」
「あなたにも、結構秘密があるのね」
「明乃に隠すようなことは何もないよ」
「本当かしら。他にも付き合っている人がいるのじゃない?当然だわ。若いのだから。」
耕希には見栄があった。明乃が初めての女とは言えなかった。
「過去にはいたよ。でも、いまは明乃一人だ」
「そうなの。多くの中の一人にすぎないのね。いずれ、過去の一人になる」
「どうしてそんなにすねるかなあ。ボクがどんなに愛しているか、分っているだろう?」
耕希は愛撫を再開した。それが全てを解決するはずだった。だが、以前とは違っていた。明乃のどこかが冷えたままだった。
明乃は耕希を押しのけ、バスルームに入って一人でシャワーを浴び始めた。耕希はベッドに残り、シャワーの音を聞いていた。バスルームから出ると、明乃は何も言わずにタオルで体を拭き、服を着けた。耕希はベッドに横たわったまま、目の端でその動きを捕らえていた。耕希も黙っていた。明乃は耕希と目を合わすことなく部屋を出て行った。声をかけた方がよかったのか、と耕希は思った。今からでも追いかけて行って引き留めようか。
耕希は動かなかった。耕希にはしばらく前から明乃に不満があった。明乃は耕希の言うことにときどき逆らうようになっていた。明乃はあまりに自分が譲歩しすぎたのに気づき、押し戻そうとしているようだった。耕希は、明乃の体に対する当初の渇望が、手慣れた欲望処理になってきてしまったように感じていた。このままでは夫婦と変わらなくなってしまうのではなかろうか。新しいテクニック、新鮮な感覚を試みてはどうだろうか。だが、明乃はそういう思いの耕希を持て余すような態度を見せたので、耕希にはしゃくにさわる気持ちがあった。
耕希は明乃に電話もメールもしなかった。明乃が怒ったとしても、ほんの一時のことだと耕希はたかをくくっていた。すぐに明乃は折れてくるだろう。耕希が明乃を失うのと、明乃が耕希を失うのとでは、どっちがダメージが大きいかは明らかだ。彼女が戻ってくれば、今度はもっと優しくするつもりだった。
しかし、その後明乃からは音沙汰がなかった。耕希は自分が嫌われるとは信じられなかった。あんなささいなことが二人の関係を危うくするはずがない。明乃は一時的に機嫌を悪くしただけだ。いまは耕希が声をかけてくるのを待っているだろう。自分からは言い出しかねているのだ。
明乃から何も言ってこないことに耕希は腹を立てたが、明乃が意外に強情なのに不安にもなってきた。このまま二人が意地を張り合って時間が経過していけば、二人とも望まないままに不仲が本物になってしまうのではないか。ここは自分の方から和解のサインを送った方がいいかもしれないと耕希は思い始めた。一時的に妥協するのだ。いっそのこと、謝ってしまおう。交渉のテクニックと割り切ってしまえばいいのだ。
耕希はいろいろ理屈をこねていたが、要は明乃が欲しかった。明乃を失うかもしれないというおそれが耕希を弱気にさせた。耕希は明乃にメールした。
「この前はごめんなさい。ボクの態度が気に障ったのですね。反省しています。ゆるして下さい。会いたいです。あなたに会えなくて気が変になりそうです。会って下さい。お願いです。愛してます」
折り返し明乃からメールが送られてきた。
「もう終わりにしましょう。あなたが欲しいのは私の体だけなのでしょう。そんなことは最初から分かり切っていたのに、甘い期待を抱いた私が馬鹿でした。一時はあなたに夢中になったことは認めます。そういう時を与えてくれたあなたには感謝しています。でも、もう夢から醒めました。私が離れてもあなたは傷つくことはないでしょう。若いのですから。いさぎよくきっぱりと思い切って、二人の思い出を汚さないようにして下さいね」
耕希の反応は誰でも見せる経過を忠実になぞったものになった。まず、明乃のメールの内容を受け入れまいとした。そこに書かれてあるのは本当ではない。きっと、何かの事情があって、明乃は嘘を書いているのだ。誰かに脅されるか、強制されて書いたのだ。あるいは耕希に迷惑がかかるのを避けるため、身を引こうとしたのだ。だから、わざと嫌われるように書いているのだ。本当は耕希と別れたくないのだ。明乃はきっと耕希のことを思って泣いているに違いない。
次は怒りだった。結局、明乃にとっては単なる火遊びだったのだ。世間知らずのお坊ちゃんを誘惑して、もてあそんで、棄てたのだ。明乃は耕希のことを性を目的としていたと非難しているけれど、彼女こそそうなのだ。そして、もう飽きてしまったのだ。もしかしたら、新しい相手を見つけたので不要になったのだ。いまは後腐れのないことだけを気にしているのだ。
この二つの感情は交互に耕希を支配し、その度に耕希は明乃をいとおしむか、憎んだ。そして最後に耕希は失意に落ち込んでいった。
14
明乃が耕希と別れる気になったのは、美香のことがきっかけになったのは確かだった。ただ、それは耕希と美香のことを疑ったからではなかった。美香という第三者の出現が、耕希との関係の危うさを露わにしたからだった。
いつかは耕希と別れなければいけないのは明乃には分かっていた。離婚して耕希と一緒になるという選択肢はあるが、耕希はそれを望まないであろうし、明乃自身もそれがよりよい道だとは思えなかった。いまのままでいい。いまの状態が続く限りにおいて、いまのままでいたい。明乃はそう思っていた。
明乃にとって、耕希は抱き合っているときの彼だった。会っているとき以外の耕希が何をしていようとも、どうでもいいことだった。二人きりでいられる時間さえ見つけられるのであれば、たとえ耕希が他人から憎まれ疎まれるようなことをしていようとも、他人からどんな評価を受けていようとも、気にはならない。それは明乃自身にも当てはまることだった。他人に知られていないときの明乃こそが真の彼女自身であり、耕希と会っていないときの明乃は騙すために他人とかかわっているだけだった。それは明乃のはく製のようなものであり、それを世間がどう見ようと気にはならないのだった。
もちろん、夫以外の男への執着を他人に悟られないために、明乃は自分に与えられた役割をそつなくこなすことに努力していた。むしろ、以前よりも熱心な態度だったかもしれない。はっきりとした目的ができたからだ。耕希とのことを隠すこと、知られてしまえば失ってしまうものを必死で守ること。
明乃は自分がしていることについて一瞬たりとも罪悪感をおぼえなかった。もちろん、後悔もなかった。以前ならば、他人が明乃と同じことをしているのを知ったら、明乃はそんな女をさげすんだろう。だがいまはそんな女たちを理解できた。自分は正しく、彼女たちも正しいのだ。そういう女たちを非難するのは、嫉妬や羨望からなのだ。熱に浮かされたような自分の振る舞いを、かつての自分が見れば信じられないだろう。自分が正気でなくなっているのは分かっていたが、正気に戻る気はなかった。性がこれほどのものだということに呆然とし続けていた。
しかし、性は絶対ではなかった。性も危ういものだった。
耕希を十分満足させてあげることができていないのかもしれないという不安はあった。また、耕希が明乃の反応をも求めているのは分かっていたので、彼女自身が性から十分なものを引き出せていなくて、それが耕希の不満になっているのかもしれないとも思った。そして、彼女の十分でない反応が、耕希の能力不足を責めることになってしまっているのかもしれないとも。
明乃によってある程度の経験を積んだので、仕入れた性についての知識を耕希は実践したがった。もし相手にしているのが若い女性だったら、耕希がそういうことを言い出せたか分からない。いかに明乃を愛していると感じていても、耕希は二人の関係を正常なものとはみなしていないのだった。
明乃はためらいながらも耕希の要求を受け入れた。明乃も異性との体験が豊富というわけではないので、耕希の要求が恋人の間では当然なのか、あるいは異常なことなのか判断をつけられなかった。耕希が望んでいるのは中年女性としての熟達であって、若い娘の未経験さではないだろう。そういう耕希の期待に応えようとする明乃には、やはり年上としての引け目があった。
ひょっとして耕希は、若い女性が与えることができるものを明乃が持っていないために、その補償として、若い娘から期待できないようなことを明乃に求めているのだろうか。あるいは逆に、そうだからこそ、明乃に近づいたのだろうか。
それならそれでいい、とまで明乃は割り切ろうとした。性という一点で二人が結びついているにすぎないとしても、その結びつきが特別なものであり、耕希が言っていたように、運命的であるのであれば。他の女には与えられないものを耕希に提供できるのは明乃だけであるのならば。
しかし、美香という娘の出現は、それが幻想であるかもしれないと明乃に思わせたのだ。耕希は美香に何の興味もなかったと言ったが、たとえそれが本当だとしても、他の娘はどうだろう。耕希がイトコと言っていたあの娘は本当にイトコなのだろうか。若い娘の新鮮さに明乃が太刀打ちできるとは思えない。性についての経験の差が明乃を有利にしているとしても、すぐに追いつかれ、追い抜かれてしまうだろう。
もし耕希に棄てられたのなら、美香と同じようなことをしてしまうかもしれない、そう思うと明乃は自分の醜さにめまいがした。性に狂った中年女。
耕希ははぐらかしていたけれど、自分が彼にとっての初めての「女」であることは明乃には分かっていた。耕希が明乃に夢中になったのは、それまでそういう経験をしたことがなかったからだ。耕起の言う「運命」というのも、ただそれだけのことなのだ。耕希の執着は、手に入れたものを手放したくないという、みもふたもないものにすぎないのではないか。他にもっといいものが得られれば見向きもしなくなるのではないか。
明乃は耕希を信頼しきれていなかったのかもしれない。耕希の手近にあった唯一の女陰、それが自分だったのではないか、という疑惑は消し去ることはできなかった。
耕希とのきっかけは、誰とでもいいから親密になりたいというぼんやりとした欲求だったのに、作り出したのは世間から断絶した二人だけの関係、欲望を満たすだけの利己的な関係でしかなかったことを、明乃は恥じる気持ちになることがあった。そういうことにのめり込んでいった自分を客観的に見ればゆるすことはできないのではないか。
人々の目だけで世界が成り立っているとは明乃は考えていなかった。宗教とか哲学とかには興味はなかったが、人々の単なる集まりを越えた何かがあるとは信じていた。それは具体的な道徳とかと違っていて、もっと人間の真実を反映した、あいまいなようで確かな指針だった。そういうものに照らしたら、彼女の行動は容認されると思い込んでいたのだが、果たしてそうなのだろうか。
ひょっとしたら、耕希は明乃を試すために彼女の前に現れたのではないだろうか。彼女が家族に失望して動揺しているときに、彼女の節操の堅固さを計ることを、何かが意図したのでは。彼女はその試験に合格しなかった。それまでは耕希のことで世間的に罰せられることになってもかまわないとまで思っていたのだが、急に明乃は怖くなったのだ。
15
耕希はとにかく明乃に会いたかった。耕希からの電話は着信拒否になっていた。耕希が送ったメールは届いているはずだが、無視されててしまっているのだろう。耕希はストーカーになりかけていた。実行はしなかったが、明乃の家へ押しかけたり、明乃を待ち伏せすることも考えた。明乃と会ったあの道を何度か歩いた。もう一度偶然明乃に会えるのではないかと淡い期待を持って。そんなことは起こらなかったが、耕希は感傷的な気持ちになった。昼間は目につくので、夜に明乃の家の近くに行ってみたこともある。窓の明かりが内部の団らんをうかがわせた。明乃は妻として母として話したり笑ったりしているのだろう。耕希のことなど思い出しもしないで。それとも、ときどきは耕希のことを考えてくれているだろうか。いまここに、すぐ傍に、耕希が来ていることを感じくれはしないのだろうか。
耕希は明乃の写真をしょっちゅう見た。裸の明乃を写真に撮るのは耕希にとっては自然なことだった。耕希が写真を撮りたいと言ったとき、明乃はあっけなく承諾した。拒否することは選択の中にないかのように。明乃にとっては、耕希の様々な要求は、彼と関係を結ぶという主要な決断の付帯事項にすぎず、面倒ではあるが必然的に伴う義務か、進行に必要なこまごまとした手続きにすぎなかった。一度なされた決断が、後の全ての決断を無用にしてしまっていた。いわば明乃は彼女自身の大きな決断の前に茫然自失していて、その他のことについては深く考える余裕はなかったのだ。
初めてカメラを向けた時には明乃は恥ずかしがったが、すぐに全てを写させた。耕希は最初は写真集や絵画や彫刻の女性像のようなポーズを明乃に取らせた。例えば、腕をあげ、足を曲げ、胴をくねらせて体の線を強調する姿勢。しかし、後でパソコンに取り入れて大きくした画面で見てみても、その写真にはプロの連中の作り出している質感がなく、エロティシズムは感じられなかった。まるで報道写真のようなそっけなさだ。性能のよいカメラが必要なのだ。それに、照明や背景も重要なようだった。光のかげんや色のコントラストを考慮しなければならないのだ。グラビアなどで見る多くの写真は誰でも撮れそうに思えるけれど、実際にはそんなに簡単なものではない。だからこそ写真家という商売が成立するのだということに、耕希は納得した。
もっといいカメラや照明器具などを揃えて、部屋をスタジオのようにしてみることもできようが、耕希には写真自体に対する興味なかった。耕希が欲しいのは明乃の全てを保有していることの証しとしての裸の像だった。美的な要素は第一ではなかった。そのためには、市販されているような画集や写真集の中の女性像である必要はなかった。耕希が撮るのはたちまちポルノ写真になってしまった。明乃のポーズはカメラに向かって股を拡げたようなものばかりになった。
明乃に会えなくなってからそれらの写真を見るとき、それまではあまり注意していなかった明乃の表情を耕希は見るようになった。戸惑いや羞恥や放心や微笑みや凝視や反発などの底に、耕希は悲しみを見つけた。もちろん明乃は喜んで耕希に奉仕したのだ。しかし、同時に明乃は悲しんでいたのだ。そんなことに気づかなかったなんて、何てとんまだったのだろう。
この写真をネタに明乃とヨリを戻すことはできるかもしれないが、そんなことをしても明乃に嫌われるだけなので、それほどの冷酷さを耕希は持てなかった。しかし、明乃に対する怒りが昂じるときは、この写真を使って明乃を傷つけることを耕希は考えてしまう。写真をネットに公開するか、プリントアウトした写真を夫に送る。あるいは、そんなことをすると明乃に予告して苦しめる。明乃にカネを請求してもいい。カネなど欲しくはないが、明乃を苦しめるためだ。怒りがおさまると、そういう下劣な行為で自分を卑しくすることに耕希は嫌悪を感じる。たかが女のことで犯罪に走るほど愚かではないと気負ってみたりする。もっとも、男女関係で事件を起こす人間の気持ちはよく分かった。
明乃もこの写真のことは気になっているはずだった。この写真がある限り明乃との絆は保てる。あとは記憶というもろい保存装置の中にしか残っていない。しかし、耕希は自分自身を恐れた。いつか、何かのときに、自暴自棄になってこの写真を使ってしまうのではないか。そういうことをして明乃をおとしめ、自分自身をおとしめ、多くの人を悲しませ、結局は後悔することになる。そんなことはしないつもりでも、一時の激情を抑えかねることがあるかもしれない。耕希は未来の自分を信用しきれなかったので、ある日、思い切って明乃の写真を全て消去してしまった。しかし、明乃にそのことは伝えなかった。明乃を不安のままにしておくことぐらいの快感はゆるされていいのではないかと思って。
明乃への気持ちが一向におさまらないままに、耕希は二人の関係を考えてみた。耕希は自分たちのしていたことが世間的にどこまで許されるのか見当がつかなかった。二人のことは誰にも知られぬようにしているが、他人に知られないことは他人に迷惑をかけていないことになるのかについては疑問があった。明乃の家族は明乃と耕希とのことを知らないが、だからといって彼らに迷惑がかかっていないと言えるのか。しかし、逆のことだって言える。明乃が自分のしていることの償いに、以前よりも家族につくしているなら(明乃はそう言っていた)、明乃の家族は知らないまま耕希の恩恵を受けていることになるのではないか。これは虫のいい考えだろうか。
明乃が以前奇妙なことを言っていた。
「私たちはある種の道徳を破っているのは間違いないでしょ。そうすることで、私たちは社会の平均値としての道徳水準を下げていることになるのかもしれない。もし、私たちのようなカップルがたくさんいて、知られることなく道徳の水準を下げているとすれば、社会は自覚することなく変質してしまう。そう言う意味では、内緒にしているので迷惑をかけていないはずだからといって、何をやってもいいとは限らないのじゃない?」
もし社会全体というのが実体ならば、明乃の言うように、二人は社会に泥を塗っていることになるだろう。だが、社会などという実体はないのだと耕希は信じる。意味のある単位は個人なのだ。もし道徳ということが問題になるのであれば、個人を問題にしなければならない。道徳の根拠は個人にあるのだ。
16
耕希は回想から覚めた。辺りを見回すと、食事時はほぼ終っており、食堂の中は学生があちこちに散らばっているだけになっていた。耕希は食堂を出てあてもなく歩いた。
こんなにまで明乃に支配されたままでいるのは我慢できない。何かをしなくてはならない。二人の関係を根本的に変えるような、何か思い切ったことを。
耕希は明乃にメールを送った。今までの懇願の調子ではなく、脅迫する内容だった。会ってくれなければ、明乃の裸の写真をネット上で公開する、と書いて送ったのだ。写真は消去してしまっていたが、明乃はそのことを知らない。メールへの反応がなければ、手紙を郵便受けに入れるつもりだった。翌日に明乃から返答のメールがあった。二日後に耕希のアパートを訪ねるが、都合はどうか、という事務的な内容だった。耕希の理不尽な要求を責めるでもなく、耕希の機嫌を取るでもなく、まるで打ち合わせをするかのような無味乾燥な文章。それがかえって明乃の怒りを現わしているかのようでもある。耕希も事務的に了解の返事をした。
約束の日、明乃はきつい顔をして部屋に入ってきた。耕希はほころびそうな表情を抑えるのに苦労した。どんな状況であれ、明乃に会えるのはうれしかった。立ったまま明乃は張りつめた声で言った。
「あなたが写真をどうしようと、あなたの勝手よ。好きにしたらいいわ。でも、私はもうあなたとは二度と会わないから。それだけを言いに来たの」
耕希は素直に謝った。
「ごめんなさい。ああでもしない限り、会ってもらえないから。あの写真はみんな消去してしまっています。嘘をついたのです」
明乃はじっと耕希を見つめた。表情は堅いままだったが、険しさは消えていった。
「そうよね。あなたがそんなことするはずないのよね。私は、そうされてもいいと思った。あなたがするのなら。あなたが私を罰したいのなら、それでもいいと思った」
明乃が泣き出すのではないかと、耕希は近寄って優しく抱いた。明乃は抱き返しはしなかったがされるままになった。耕希はキスしようとしたが、明乃は拒んだ。
「ダメよ」
耕希は無理強いせず、明乃を椅子にすわらせた。
「写真のことはかまわないなら、何で会いに来たの?」
その矛盾は明乃にも分かっていた。明乃は耕希には絶対に二度と会わないと決心していた。その決心をゆらがせるようなものは、やみくもに排除した。自分の欲求さえ抑えつければ、それは可能なはずだった。ところが、耕希の脅迫メールは、耕希に会う理由を明乃に与えたのだ。写真のことはショックだったけれど、それ以上に耕希に会わねばならないという思いが強烈になって、どう対処するかなどということは考えられなくなった。
「やっぱり、気にはなったから」
「ボクのことが嫌い?」
「嫌いじゃない」
「まだ愛してる?」
「ダメよ。もう以前のようにはならない。私には分かったの。続けていると、いつかは二人とも不幸になる。二人だけではなく、周りの人も巻き込んでしまう。私にそんなことする権利はない。だからあなたと別れることにしたの」
「ボクのことに嫌気がさしたのじゃない?」
「あのときのこと?こんなことをしていて、どうなるだろうと思ったの。どっちにしろ、私たちに未来はないでしょう?いつまでも続けていられないのなら、別れてしまうべきだと考えたの」
「ボクを嫌いになったのじゃないんだね」
「あなたに嫌われるようにしたかったの。だから、あなたが嫌いになったように言ったのよ」
耕希は立ち上がってすわっている明乃の傍へ行き、かがみ込んでキスをした。今度は明乃も受けた。長いキスの後、明乃は言った。
「ダメよ。もう本当にこれっきり。もう会わないようにしなくちゃ」
耕希は自分の椅子に戻って言った。
「なぜあなたに会いたかったか、話すよ。ボクは体目当てだって、あなたは言ったね。いいんだよ、弁解しなくても。本当のところは、ボクも自分のことをそうだと思っていた。あなたを抱けるだけでよかった。それ以上は何も必要はなかった。それ以外はみんな余計なことだった。そう思っていた。けど、そうじゃなかった。あなたと会えなくなって、分かったんだ。一時の遊びなんかじゃない。あなたを愛している。ボクはあなたの全てがほしい。ボクと結婚してほしい」
明乃が驚いて何も言えずにいるので、耕希はつけ加えた。
「もちろん、今の親掛かりの状態ではあなたを養っていくことはできないし、自分自身だって食わせることもできない。大学を卒業すれば何とかなるだろうけど、それまで待たせるわけにはいかない。あなたが結婚を承知してくれるなら、ボクは大学をやめて働く。あなたと一緒になれるなら、何でもする」
「待ってよ。そんなことが可能だと思う?周りの人が理解してくれると思う?無茶よ。そんなことをしても後悔するだけよ」
「後悔したってかまわない。明乃がいないと、ボクは死んだも同然だ。このままだと、気が狂いそうだ」
明乃はじっと耕希を見た。耕希も明乃を見返した。しばらくそうしていた後、明乃は言った。
「考えさせて」
明乃は立ち上がり、狭い部屋の中を歩き始めた。うつむいて、ゆっくりと、変則的な輪を描く。ときどき立ち止まり、顔に手をやって考え、そしてまた歩き出す。まるで入り組んだ思考の軌跡を表現するかのように。
耕希はそんな明乃の姿を目で追った。結婚という提案によって事態がよい方に向かうことだけを考えていたので、明乃がどう反応するかについては予想していなかった。いや、明乃がどう反応しようと、彼の誠実さを示して明乃の信頼を勝ち得るにはそれしか手段がなかったのだ。試験の結果を待つような気持だった。しかも、再試験はないだろう。これが最後の機会なのだ。もし明乃が断ったら、自分がどうなってしまうか耕希には分からなかった。
やがて明乃は椅子に戻った。
「分かったわ。結婚してもいいわ。ただし条件がある。子供たちが独立するまで待ってほしいの。私はあなたのために夫や子供を棄ててもいい。そんな関係は長続きしないと分かっていてもかまわない。先のことなどどうでもいい。あなたと一緒にいられるなら、それだけでいい。でも、子供たちを混乱させたままで放り出すことはできないわ。あの子たちも、大きくなれば理解してくれるかもしれないし、理解してくれなくても、耐えることはできるようになるでしょう。でも、今はダメ。今は自分を抑えなければダメ。あなたには待ってほしいの。私がいいと言うまで、待っていてほしいの。それまでは会えないわ。どう、この条件がのめる?」
耕希には思いもかけない条件だった。耕希はどう答えていいか分らなかった。明乃が無理難題を吹っかけているような気がした。
「考えているところを見ると、真剣に受け取っているのね。いいわよ、すぐには結論は出だせないでしょうから、じっくり考えてみるのね。結論が出たら連絡してちょうだい。私が、いま、あなたをあきらめるのが、どれほどつらいことか、分かっている?だからあなたもそれだけの覚悟をしてほしいの。お互いがどれだけ相手を必要としているのか、時の試練を経てもその気持ちは変わらないのか、よく見極めてから決断してね。耕希、私もあなたを愛している。あなたが決めたなら、必ずあなたのもとへ行くわ」
明乃は帰って行った。耕希は明乃の提案をどう扱えばいいのか分らぬままに、呆然としていた。
明乃が望んでいるのはどういうことなのだろうか。耕希にとっては、二人で過ごすことだけが望みなのだ。夫や子供たちなどどうでもいいのだ。そんなものは邪魔でしかなく、そういうしがらみを断ち切って、二人で自由になるはずではなかったのか。明乃はそう言っていた。いままでの人生では得られなかったものを、彼から与えられた。耕希がいれば、何もいらない。あれは単なる睦言に過ぎなかったのか。
待てない。時間は若さを奪っていく。この時期を、禁欲僧のように、無駄に過ごしたくはない。
時間は明乃からもいまの彼女の魅力を奪っていくだろう。貴重な明乃の美しさを。耕希がめでなければ空しく朽ちてしまう、いまの明乃のあの体。
さらに、明乃との約束に縛られて、他の女性、もっと若くて、もっと美しいかもしれない女性と結ばれる機会を失ってしまうかもしれない。
確かに、口先だけ明乃に約束し、他の女性と付き合うという方法もある。なりゆきで、明乃を棄ててしまうことも可能だ。だが、そんな偽善は耕希にはできそうになかったし、明乃にもそのことは分かっているのだ。
明乃と一緒に暮らすことを耕希は激しく望んだが、そのために自分を変えねばならないとは考えていなかった。しかし、一緒に暮らすためには、相手を理解し、相手の心を配慮し、相手の希望に沿うようにしなければならないのだろう。明乃は結婚生活で既にそのことを学んでいるのだ。相手のためには、自分をまげなければならないときもあるのだ。
だけど、そんな生活が楽しいだろうか。我慢することに意味があるのだろうか。多くの夫婦が、お互いをしぶしぶ耐えて、不平を言いながら、老いさらばえていく。それが生きることだろうか。
確かに、理想の相手などめったにいない。明乃にしても、耕希をそのまま受け入れてくれはしなかった。耕希の方は、明乃に変わってくれとは頼まなかったのに。
いや、明乃の言う通り、明乃も変わらねばならなのだ。耕希よりももっと激しく。貞節な妻、よき母親から、淫奔な女に、役割を変えねばならないのだ。明乃にとっても、耕希は理想的な相手ではないのだ。
本当に、明乃はそれほど重要なものなのだろうか。棄てるに惜しいものなのだろうか。耕希自身が何度か好むものを変えてきたのだから、将来にはまた変わるのではないだろうか。
考えは堂々回りをし、結論は出なかった。あれほど輝かしく思えた決意が、重い課題となって耕希に選択をせまる。耕希は食事をすることも忘れて考え続けた。夜になった。考えることに疲れ切った耕希はベッドに仰向けになって天井を見ていた。どこかのすき間から入り込んだ蚊が一匹白いボードにとまっている。
耕希はそこに到るまでの様々な障害のことは無視して、明乃と結婚したときの生活を思ってみた。それはとても具体的な幸せだった。明乃がどんなに貴重であるか、耕希にははっきり分かった。そして、何をすべきかも耕希には分かった。
待つのだ。そして、その間に、明乃にふさわしい者になるのだ。少なくとも大学は卒業しなければ。二人の生活を支えられるだけの基盤を作るのだ。結婚するのはそれからでも遅くはない。
そして二人はそのときまで時の試練に耐えうるか、試されるのだ。二人の愛が強ければ、別離の期間がどれほどであろうと、障害にはならないだろう。そのとき始めて、お互いがお互いにふさわしくなっているだろう。
耕希はそのまま眠ってしまった。夢の中で、耕希は明乃と愛し合っていた。