植木鉢
その建物にはおよそ百人の男が住んでいたが、その半数以上はアルコール依存症者だった。建物は生活保護を受けている者たちのための施設だった。アルコール依存症者は精神病院を退院してこの施設に入ってくる。施設の利用者のほとんどは施設の近くにある寄せ場で仕事を得ていた日雇い労働者であった。住む家がない単身者なので、行政は居宅保護を嫌って施設に入れるようにしていた。施設の中に特別なチームが作られ、アルコール依存症者の断酒と社会復帰の援助のプログラムが立てられていた。
施設の中のアルコール依存症者のグループは、もとはそこから少し離れた同じ法人のもっと大きな別の施設にいた。施設は禁酒であったが、隠れて酒を持ち込んで飲んだり、外で飲んで来たりして、飲酒のトラブルが絶えなかった。そういう環境で断酒の取り組みは難しい。そこで、小規模なこの施設にグループが移って来た。将来はこのグループ専用の施設になることが予定されていた。つまり、百人全員がアルコール依存症者となるはずだった。
私はそこに勤めていた。私はアルコールのチームではなかった。アルコールのチームは新参者であるにもかかわらず、もうその施設の主人のように振る舞った。施設の運営を、アルコール依存症者の都合のよいように性急に変えていくのは、まだ残っている以前からの施設利用者——重度ではないけれどもいろいろな障害のある人々に不便をもたらすだろう。アルコール・チームでない私たちはそういう懸念を持った。
アルコール・チーム以外の職員もチームの仕事を手伝った。将来、施設利用者が全員アルコール依存症者になれば、私たちも否応なくチームの一員にならねばならない。そのための準備として、アルコール依存症者への援助の仕方を学ばねばならない。私たちはそういう風に言われていた。
断酒は一人で決心しても絶対といっていいほど無理である。アルコール依存症者が断酒するためには自助グループの力が必要である。それはアルコール依存症者への援助の歴史の中で得られた真理である。市立大学付属病院の専門医の指導を受けて、施設の基本方針もその真理に従っていた。具体的には、施設に入ったアルコール依存症者を、断酒会やAA集会にできるだけ多く(できれば毎日)参加するように援助するのが、アルコール・チームの職員の仕事であった。もちろん、施設内でも断酒会は行う。断酒会では飲酒体験を発表してお互いの連帯を感じてもらう。自分がアルコール依存症であることを認め、一人では断酒できないが仲間とともになら可能であることを学ぶ。
施設では飲酒も酒の持ち込みも禁止して強制的に断酒状態を作っている。施設を出ればそのような抑制がなくなってしまい、飲酒の誘惑は大きくなる。かといって、ずっと施設にいるわけにはいかない。ほぼ一年かけて、断酒しながら自立した生活を営むようになることが目標であった。施設を出た者たちのためにOB会というものも作られていた。
援助プログラムがどの程度機能していたかは判断が難しい。成功率は低かったが、低くてもそれだけの成果が出たとも言えるし、その程度の成果ならば援助プログラムなしでも達成できるのではないかという批判も可能だった。しかし、自助グループの重要性については疑問は抱かれなかった。断酒会の力が万能ではなく、思ったほど効果をあげられなくとも、他に手立てがなければそれに頼るしかない。
抗酒剤というものが断酒の特効薬になるのではないかと期待されたこともあった。抗酒剤はホルムアルデヒドの分解を阻害するので、悪酔いを起こさせる。行動主義者たちはそれが陰性刺激となって飲酒行動を抑制すると期待したのである。抗酒剤をあらかじめ飲んでおけば、アルコールを摂取したとき気分が悪くなる。そういう経験を積み重ねれば、もはや酒を飲みたいと思わなくなるはずだ。しかし、アルコール依存症者は、そういう経験は抗酒剤を飲むからもたらされるということを知っているから、酒を飲まなくなるのではなく、抗酒剤を飲まなくなる。結局、抗酒剤は酒を飲まないという意思決定を補助する役目しか持てない。
断酒会に属さないで断酒を続けている者もいたが、それは例外的な事例と見なされていた。グループのOBにも一人いた。彼は段ボールや新聞紙を集める仕事で生計を立て、自分の軽トラックを買うまでになった。彼は一人で暮らしていた。(この地域へ来るまでに家族から離れてしまった人は多かった。)施設で出る古新聞や段ボールも彼が引き取っていた。週に二、三回施設へ来て、古新聞と段ボールを車に積み込み、計った重量を備え付けのノートに書き込んだ後(月末にまとめて買い取り料金を払った)、そのやせた体を事務所の窓口にもたれかけさせて職員と話し込んだ。時おり彼がなぜ断酒会に属さないかを話すことがあった。各地の断酒会には会長や役員がいて、都道府県単位の上部団体があり、その上に全国組織がある。そういう階層の上部にいる連中の態度が彼には気に食わないのだ。彼は言わなかったが、たかがアルコール依存症者の集まりに過ぎないではないか、と思っていたのだろう。断酒していた人が飲酒してしまうのをスリップと呼んでいた。断酒会の会員でもスリップする人はいた。断酒会の偉いさんでもスリップする。自分は一人で断酒を続けている。そういう誇りもあった。
断酒会の実態は私には分らないが、組織にありがちな権力欲や事大主義が彼らを蝕むこともあったのではないか。アルコール依存症者の自助グループが最初に出来たアメリカではAA(アルコホリック・アノニマス)という形態を取った。参加者は本名を名乗らず、お互いをニックネームで呼ぶ。日本に導入されたときは、断酒会という形になり、実名を明かし、明確な組織を形成した。日本では、民間団体といえども官僚組織を真似たものになってしまうことが、どのような分野でも見られる。(後に、日本でもAAという形態を選ぶ人たちが出て来た。)
グループに属する施設利用者はたった一度でも飲酒したら(飲酒をしたのが職員に分かったら)施設は退所になり、結果的に生活保護は打ち切られる。自動的に生活保護が打ち切られるのではないが、更生の機会を自ら放棄したとみなされるからだ。そういう厳しいルールが必要だと考えられていた。多くの利用者がそういう形で施設を出て行った。中には酒乱タイプの人間がいて抵抗することもあった。そういうときには職員数人がかりで強制的に出してしまう。
私が宿直のときのことだ。宿直は二名で、その日は私と筒井だった。宿直者は昼間は事務所にいて、施設の出入りの応対や電話の取り次ぎをする。朝の引き継ぎで、昨日、飲酒による退所が一人あり、彼の置いていった荷物(残留品と呼んでいた)があるので施設に来たら渡すようにとのことだった。退所したという人間は入ってきてからあまり期間がないので私は彼についてほとんど知らず、退所にいたった経過も知らなかった。だからその男(仮に山口としていこう)が現れたとき、私は残留品を取りに来たのだと思って、段ボール箱と紙袋を玄関口に運んだ。利用者の居住スペースはベッドのみで(しかも上下二段になっていた)、物を置けるのはベッドに付属した小さな収納棚だけである。退所の事情で利用者が荷物をそのままにしておいた場合には、職員が段ボール箱やビニール袋に入れてベッドから引き上げる。そういう風にして片付けられていた荷物を渡そうとしたのである。突っ立っている山口の足元に残留品を並べて、私は愛想よく言った。
「山口さん、これが置いていった荷物。間違いないか調べてくれるかな」
山口は返事をせずに荷物を蹴った。
後から冷静に考えると、彼の気持ちは理解できた。施設を出れば、行くところもなく、たちどころに食うことにさえ困る状況に陥ることを、一晩のうちに身にしみて分かったのだろう。安易な気持ちで酒を飲んだことを反省し、できれば施設でもう一度やり直せないかと思って、何がしかの期待を持って戻って来たに違いない。彼が酒を飲んでいなかったのも、その気持ちの現れだった。しかし、対応に出た職員は、さっさと消えろとばかりに彼の荷物を放り出した。
私は彼のそういう気持ちを思い遣るべきであった。施設に戻すことはむろん出来ないが、「山口さん、どうしたの」とでも声をかけ、話を聞いてやれば、彼もおとなしく諦めただろう。だが、私は宿直で忙しかった。私は引き継いだ懸案を早く片付けることばかりに気を取られていた。アルコールのチームの職員に連絡したところで、もう処理はすんでいるのだから残留品を渡してくれればいいと言うに決まっている。それでも、私としては精一杯の丁寧な対応をしたつもりだった。それなのに、荷物を足蹴にするとは。私はカッとなって怒鳴った。
「何をするんや」
山口は私につかみかかって来た。二人はもみ合った。近くにいた職員が二人を引き離した。二人はお互いを罵り合った。私は山口に対して次のような意のことを言った。
「施設の中では職員だから相手をしないけれど、施設の外へ出たら対等にやってやる」
売り言葉に買い言葉だったけれど、施設職員としてこんなことを言うべきではなかった。いや、施設職員ではなくても、こんなちんぴらみたいな口のきき方をすべきではなかった。ましてや、相手を受容することが職分の人間の言うべきことではない。けれども、それは私の本音であった。
私たちの相手にしているのは、私たちの言うことを素直に聞いてくれる「いい被援助者」ではない。彼らは私たちの管理を逃れようとし、私たちと対立した時には、容赦なく私たちを攻撃してくる。彼らの遣り口は、まず職員の名前を確かめようとする。組織から個人が浮き出れば弱くなるのを知っているからだ。そこでひるむようなら、自分大事の臆病者か、権限を逸脱した弱味のある職員だ。名前を名乗ったり、名前などは言う必要はないと強い態度に出てくれば、今度は様々なへ理屈を並べる。盗人にも三分の理というように、何らかの言い分は見出せる。自分に不利になれば平気で論点をそらす。それから相手を侮辱して怒らせるようにする。その遣り口も卑劣なものだ。相手の肉体的な特徴や、職業を卑しめる。(施設利用者がよく言うのは「俺たちのおかげでお前等は飯を食っている」。)挑発に乗ってしまえば、責任を取らねばならないのは職員なのだ。
そういう積もり積もったうっぷんが私にそういう言葉を出させた。
山口は他の職員に説得されて、荷物を整理して(少ないとはいえ、全部を持ち歩くわけにはいかず、差し当たり必要な物以外は処分せざるを得ない)、それを持って出て行った。利用者とのトラブルはときどきあったが、後を引くことはほとんどなかった。復讐の言葉を残して行く者も、それを実行することはなかった。復讐の心を持ち続け、努力して実行することができるほどの能力があるなら、この施設に流れて来るようなことはない。
午後七時が過ぎて昼出の職員も帰ってしまうと、筒井と二人だけになった。門限は八時、玄関の扉を閉めるのは九時だった。私たちは事務所でルーチン仕事をしながら九時になるのを待った。電話がかかってきた。筒井が出た。向こうの問いかけに「うん、おるよ」と筒井は答え、向こうが何かを言った後、筒井は電話を切った。筒井は言った。
「山口があんたがおるかと聞いたので、おると答えたら、今からいくから待っておれと言っていた」
私は「そうか」と返事した。私は馬鹿正直に答えた筒井の間抜けさに腹を立てた。「帰った」と言えばそれで済んだのだ。逃げるわけではないが、職員が二人しかいないときに施設内でのトラブルは避けたかった。私は窓口にすわって待った。面倒を避ける手立てはあった。私が隠れ、山口が来たら私はいないと筒井が言えばいい。私が筒井なら、そうする。しかし、私から筒井にそうしようとは言えなかった。そんなことを言ったら、私は臆病者になってしまう。そういう方法があることに気の回らない筒井に、さらに私は腹を立てた。
十分ほどして山口が入って来た。私は立ち上がった。山口は何も言わず窓口に近寄り、カウンターに置いてあった植木鉢を私の顔に投げつけた。植木鉢は私の顎に当ってくだけた。私は窓越しに山口の服をつかみ、筒井に警察官を呼ぶように言った。警察官が来るまで私たちは山口を捕まえていたが、山口は大して抵抗しなかった。私の顎は切れ、私はハンカチで出血を抑えた。
警察官が来て簡単に事情を聞かれた後、私は近くの病院の救急室に行った。医者は縫合すると言った。ベッドに横になった私が私の血液型は通常とは違うことを説明しようとすると、医者は笑いながら輸血の必要はないと言った。五針ほど縫ってもらって帰った。
後日、警察での事情聴取を終えて帰ってきた筒井が、山口の言い分と私の言ったことが違っていると警察官が言っていたと教えてくれた。私は荷物を渡そうとしてもみあった時に山口に言ったことを警察官に話していなかった。山口はそのことを原因として強調しているのかもしれない。筒井が警察で何を言ったのかは聞かなかった。結局、山口は起訴されなかったようだ。
私はその傷で休むことはなく勤務を続けた。仕事が嫌になったり、利用者に接する態度が変わるようなことはなかった。ただ、私の中でもやもやとしていた思いが、一つの疑問の形に凝縮した。
私は人を援助する仕事に適しているのだろうか。
私は、彼らに同情し、彼らを理解しようとしているつもりだ。しかし、無条件な受容はできていない。どこかで彼らを責めている。結局は、悪いのは彼ら自身であり、自業自得ではないのか、と。
そのことがあってから多くの時間がたった。百人のアルコール依存症者の専門施設は結局実現しなかった。一つのグループとしては大きすぎて職員の手に負えないことが分かったのだ。アルコール依存症者への援助の考え方も変わった。居宅で生活保護を受けながら専門病院に通院することが主流になった。私は他の施設に異動し、アルコール依存症者と関わることはほとんどなくなった。
今年の7月中旬、日本海に行く途中、国道脇にある道の駅を兼ねた大きな公共施設に寄った。建物の端に公衆トイレがあり、その前の路上に上半身裸の老人がすわってラジカセで歌謡曲を音出ししていた。彼の横には自転車があった。彼の前の花壇の壁にシャツが二枚干してあった。雨で濡れたので乾かしているのか、あるいはトイレの水道で洗ったのかもしれない。こんな地方都市にもホームレスがいるのかと私は彼を見た。彼も私の方を見たので目をそらしたが、連れを待つためトイレの前を動かなかった。彼は私に向かって声を上げた。「こじき」という言葉の他ははっきりしなかったが、憎悪と怒りが表現されていた。
彼のそういう反応は、私がいく度も経験してきたことだ。こちらが彼を同情しているつもりでも、彼は全ての他人を敵視し、きっかけがあれば罵倒する。彼は自分の置かれた立場を受け入れてはいない。自分が忌み嫌われていることについて、自分を見る者に対抗する信念(私たちが時おり彼らの中に夢想するような)などはなく、自分の今を不満に思い、しかしだからといってどうしようもなく、相手がいればただ感情をぶつけるだけだ。他人に責任を求めるというのでもなく、また他人からの助力を期待するのでもないが、今こうあることの不当さに納得できないのだ。
私は彼と関わることはしない。彼に行政上のあるいはボランタリーな援助が必要だとは感じても、それは他の誰かの役割であると思っている。そう思って私が平然としていられるのは、彼の現状についての責任を彼と社会と私に割り振れば、私の量はわずかだとする気持ちがあるからだ。しかし、私に向けられた彼の敵意を無視してしまう自信はない。
私はときどきあの植木鉢のことを思い出すが、あれが何らかのメッセージだったのなら、顎で受け止めたようには、いまだにうまく受け止めることができていないようだ。