井本喬作品集

五月の夜

 五月のある夜のこと、山の中を貫く高速道路を東に向かって走る一台の車をめざして、はるかな遠い空からこの世のものではない一つの魂が降りてきた。

 車の中には四人の男女が乗っていた。彼等は職場の人間の結婚式に出席しての帰りだった。運転者も含めて酒が入っているので、彼等は陽気だった。花嫁、花婿の批評や、結婚までのいきさつ、彼ら自身の結婚――既に済ませたのや、まだこれからの――についてなど、話題は不足することはなかった。

 霊はしばらくためらうように彼等のまわりを漂い、会話の流れに耳(あるとすれば!)を傾けていたが、やがて彼等の一人と話し始めた。

 順子。

 誰。

 俺だよ。

 誰なの、私に話しかけているのは。

 分からないかい。あの頃なら、電話の一声でも分かったのに。

 あなたなの。

 久し振りだね。

 一年になるわ。

 俺のことなど忘れてしまったかい。

 忘れたことなどなかったわ。

 そうだろうな。君たちが忘れきれないからこそ、俺は今ここにいるんだよ。

 八木順子が突然言った。「樋口さんが死んで一年になるのね」

 運転している大森祐二が何だってと聞き直したが、順子は返事をしなかった。

「本当なら、あなたたちの結婚式が先だったはずね」青木真理が思いついたことを考えもせずに口に出した。

 真理をたしなめるように北見浩が言った。「もう彼のことは言うなよ。そっとしておくべきだ」

「私のことなら、気を使わなくてもいい。樋口さんのことを誰も思ってやらなくなるのは悲しいわ」と順子。

「忘れてしまえと言ってるわけじゃない。口に出さなくても、忘れてはいないさ」と北見。

「ある意味では、記憶されるのは彼が一番かもしれないよ」大森が会話に加わる。「結局事故か自殺か分からずじまいだったな」

「事故に決まってるわ」真理が断定する。

「酔って溝に転落して溺死でしょ、そんな自殺の仕方ないわよ」

「しかし、あれは溝というよりちょっとした川ぐらいの水量はあったからな。死体はだいぶ流されていたよ」と北見。どっちでもいいようなものだけどという口調で。

「あの頃の樋口さんは確かにおかしかったわ。考え込むことが多かったし、食欲もなくしていた」と順子。

「死ぬ前の頃のあいつと話すのは難しかったよ」大森が言った。

 そうでしょうね。嫌われているのは分かっていました。あなたに逆らうことになりましたから。

 卑怯な奴だといいたいのか。

 そうではありません。誰だって、自分の身が可愛いですからね。正義なんて何の足しにもならない。でも、どうしても許せないことはあるでしょう。そのことは理解してほしかった。

 隠していたのはそっちじゃないか。わけの分からぬ悪意ばかりぶつけてきて。

 わけは分かっていたはずです。あなたには分かっていたはずです。

「危ない」北見が叫んだ。

 中央分離帯にぶつかりそうになって、大森はハンドルを急に左に切り、切りすぎて右へ戻し、車はふらついた。

「気をつけて下さいね、結婚式から葬式への直行なんて嫌ですよ」

「樋口さんの話なんか持ち出すからよ。まだ死にたくはないわ」真理がぼやく。

 順子が言った。「死ぬときの気持ちってどうなのかしら」

「死ぬと分かったらたまらないだろうけど、突然の死なら何が何だか分からぬままに終るんだろう」と北見。

 順子は言った。「樋口さんはほんの少し頭を上げさえすれば息ができたのにね。ほんの数センチ上に空気があって、顔の上を水が流れている。水の面を通して景色が見えていたはずだわ。死と生の差はそんなにわずかだった」

「苦しむのは嫌ね」と真理。

 少なくとも苦しくはなかったな。意識はもうろうとしていたから。

 おどかさないでよ。どうしたの。

 相変らずかわいくて、からっぽだな、君は。

 失礼ね。そういうあんたは何よ。

 俺はどうしようもない阿呆だった。君に惚れてしまったんだからね。

 迷惑だったわ、順子にも悪いしね。

 俺も抵抗はしたさ。でもどうにもならなかった。君の体が傍にあるだけで、ふるえてしまう。

 まさか死んだのは私のせいだというわけじゃないでしょうね。

 もし自殺なら、原因は君だったろうな。自分の嫌うべきものに引かれてしまう苦しさ。自尊心の持ちようもなかったよ。

 じゃ、やっぱり事故なのね。

 違うよ。溝の中に落ちた俺の頭を誰かがおさえつけ、二十センチの深さの流れの中で溺れさせたんだ。

 真理が言い出す。「樋口さんは殺されたのかもしれない」

「馬鹿なことを」と大森。

「ありえないことではない。樋口は誰かに突き飛ばされて、溝に落ちたのかもしれない」と北見。

「それは一種の事故よ」と順子。

 大森はこだわる。「誰が何のために樋口を殺したりするんだ」

「物とりでなければ、怨恨か痴情。人間のすることなんていつも同じでしょう」と北見。

「樋口さんの回りにそんなことを引き起こすことがあったのかしら」順子が独り言のようにつぶやく。

「それは分からないさ。人間は弱いものだ、思わぬ落とし穴に落ち込むことだってある」と北見。

 人のことを語ったつもりで、自分を表現してしまう。自己中心的な人間のよくすることだ。

 死んでからも理屈っぽい男だな。

 今となってはそれが唯一の武器だからね。

 けんそんするな、何もかもお見通しなんだろう。

 死んだからといって超能力が得られるわけじゃない。

 じゃあ、どこまで知っているんだ。

 君が会社の金を使い込んでいることは、生きているときから知っていた。

 やはりな。こそこそかぎ回っていたのは分かっていた。

 俺が会社を告発すれば、ついでに君の個人的不正も明らかになった。俺が死んで君は助かった。

 何を思ったか、北見が真理に向かって言った。「樋口は君にちょっかいを出していたんじゃないのか」

「何を言い出すの。樋口さんには順子がいたじゃない」

「表面上はね。しかし、樋口は君に惚れていた。注意していれば、誰にでも分かったよ」

 順子が割って入る。「違うわ、真理が付き合っていたのは大森さんよ」

「馬鹿なことを。何を言い出すんだ」大森が抗議した。

 とぼける必要はないですよ。

 とぼけてなんかいない。私は妻子ある身だ。

 だからやっかいだったんでしょう。あなたの奥さんは重役の娘だ。離婚になれば出世の機会を失う。

 君には知られていたようだな。しかし、浮気がばれたことぐらいで離婚はしないよ。家内や家内の父は面子を考えるからね。私がそのことで君に負い目をもつことはない。

 あなたは俺が会社を告発することを警戒していましたね。会社の不正が明らかになったら、あなたは現場責任者として指弾される。その上に部下の女性との問題が絡んできたら、再起不能になるとあなたは思ったでしょうね。

「順子、あなたはどうだったの、樋口さんがあなたに嫌気がさしていたことで恨んでいたんじゃない」真理がそう言って、泥試合にしてしまう。

「樋口さんがあんたなんかを本当に好きになるわけないでしょう。その大きな胸や尻を見せびらかされれば、男は少しは迷うわよ」

「そうよね、あんたみたいなぎすぎすした女からは男は皆逃げ出すでしょうよ」

「二人ともやめないか。冷静になるんだ。樋口を殺したいほど憎んでいたとしても、それだけでは彼の死に責任はない。私たちが樋口の死とは何の関係もないことは明らかだ」大森はこの話題を打ち切ろうとする。

 じゃあ、証明してみたまえ。

 しばらく続いた沈黙の後、北見は言った。「あの日私たち一緒に飲み、ターミナルで別れた。八木さん、あのとき樋口は君を送っていったはずだ」

 順子は答えた。「別れた後のことは知らない」

 君とはすぐ別れたね。

 あなたがどこへ行くか分かっていたわ。

 そうだろうね。俺は自分の気持ちを隠すだけの余裕はなかった。君を思いやることなど出来なかった。

 順子はつけ加えた。「樋口さんは私を送ってくれなかった。あの人は私と別れて大森さんと真理を追っかけていったわ」

「私を。変なことを言うなよ、樋口とはあのとき別れたっきりだ」

 事情を察した北見が説明する。「違いますよ。八木さんが言っているのは、樋口が大森さんらの後をつけたということですよ。二人がどこへ行くのか興味があったんでしょう」

「つけたって」

「大森さんと青木さんはあれからまっすぐ帰ったのですか。それともどこかへ寄りましたか」

「むろんまっすぐ帰った」

 大森の答えにはかまわず、霊は真理に話しかける。

 いや、そうじゃない。まっすぐには帰らなかった。

 汚いやり方をしたわね。

 どうにもならないって言ったろう。君ら二人のことを考えるとたまらなくなる。君らの姿が見えなくなると、ひそかに会ってるんじゃないかと気になって仕方がない。君らが抱き合っている姿を想像してしまう。そんな疑心暗鬼に捕らわれているより、はっきりと事実をつかみたかった。

 あのときも言ったように、私が何をしようとあなたには関係のないことでしょう。

 そうさ、だから一層みじめだった。君らがしけこんだホテルの前で待っているのはとてもつらかったよ。

 真理が怒りだす。「大森さん、隠すことなんかないわ。なぜ私たちが弁解しなくちゃいけないの。そうよ、私たちはホテルへ寄った」

「真理、よすんだ」

「いいえかまわない。やましいことなんかない。誰にも迷惑をかけてはいない」

「分かった。こうなったら正直に言うよ。確かに私たちは寄り道をした。しかし樋口とは会わなかった。たとえ彼がつけてきていたのだとしても、私たちは知らなかった」

「違うの。樋口は私たちをずっと待っていたの。私たちが別れるまで後をつけて、私が一人になってから声をかけてきた」

 大森は驚く。「何だって。君はあの日、樋口とまた会ったのか」

「そうよ。樋口は私を脅した。二人の関係をばらされたくなければ言うことを聞けって。私が拒否すると、樋口はひどく怒って、覚えていろ、お前らはもうおしまいだと叫んだ」

 順子、どんなにみじめだったか君には分るまい。

 分りたくない。聞いているだけでも耐えられない。

 他人ならまだ許せる。自分自身は決して許せないんだ。けど、そのときは回りが何も見えない。ただ欲しいと思うだけ。そのためには何でもしてしまう。

 理解しろというの。

 知っていてもらいたいだけさ。君には決して抱けなかった感情を、真理には表出できた。拒否されたからこそみじめさに気が付く。失敗したからこそ自分を許せない。受け入れられれば、反省なんかするものか。

「もう死んだ者のことをとやかく言うのはやめよう」と大森。

「そうですね。なぜこんな話をしだしたのかな。今日はおめでたい日だ。暗い話はなしだ」と北見。

「そうね。お互いに傷つけあうことはないわ。もう過去のことなのだから」と真理。

「忘れるべきなのね」と順子。

 それではすまないのだ。今日君たちが集められ、俺と接触することになったのは、何かの力が働いたせいだとは思わないか。

 私たちが集まったのは結婚式があったからだ。

 それすらも、何かの意図によるものかもしれない。

 何が言いたいの。

 真実が明らかにされるべきなのだ。

 これ以上何を明らかにしようというの。話すべきことは話した。

 この中に俺を殺した人間がいる。動機も機会も皆にあった。真理は俺の後をつけることが出来た。大森はケータイで真理から連絡を受けたのかもしれない。順子や北見だって、俺を探し出すことは難しくなかったろう。

 誰もが何かをすることが出来たかもしれない。でもそれは何の証明にもならない。目撃者もいなければ証拠品もない。どうやって犯人を特定しようというんだ。

 見方を変えるんだ。当日の君たちの行動がどうだったかに注意するのではなく、今日の君たちの言動が何かを証明しているのではないかを検討してみるんだ。

 ふと思い出して、北見が言った。「八木さん、さっき君は言ったな。樋口の顔の上を水が流れているって。発見されたとき死体は流されて、位置や姿勢は変わっていたはずだ。どうして樋口が仰向けになって溺れたということが分ったんだ」

 私はずっとあなたをつけていた。あなたが真理に言い寄ったのも、その後一人で酒を飲んだのも見ていた。ひどく酔ったあなたが溝に転げ落ちたので、私も溝の中に入った。助けるつもりだったのに、あなたの頭をおさえつけた手をどうしてもはなすことができなかった。これで満足したでしょう。

 霊に個人性というものがあるならね。俺が君たちの前に現われたのはなぜだと思う。さっき言ったろう、大きな力が君たちを動かしているって。俺自身もその大きな力の一部にすぎない。生きている者が俺たちと交流出来はしないんだ。実は、君たちはもう死んでいるんだよ。

 

 前を走っていた大型トラックがスリップして左の側壁にぶつかり、車体は右に振れて道をふさいだ。大森がブレーキを踏んだが間に合わない。車はかなりのスピードでトラックの横腹に激突した。車のノーズがトラックの下にもぐりこみ、トラックの荷台が車の屋根をえぐり取った。後部座席の一人が車外へ放り出された。後続のトラックが追突し、車は押しつぶされ、金属の固まりと化した。

 四つの魂は舞い上がり、彼等の仲間を追って天空を高く高く昇っていった。

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