井本喬作品集

論理的帰結

 それはややいかめしい感じの男の形をしていた。きちんとしたスーツ姿で、いかにも信頼が置けそうな雰囲気を漂わせている。来訪者によって服装を変えるのだろうかと、佐田は思った。服装どころか姿かたちをも変えるのかもしれない。

 結構広い部屋には簡素なテーブルとそれに合わせた二脚の椅子しかなかった。壁はほとんど白に近いベージュ一色、装飾は一切なく、窓は高いところにあって空しか見えない。それは佐田に椅子を勧め、佐田と向かい合って座った。

「どういう名でもいいのですが、便宜上スズキと呼んでください。どんなご用件ですか」

「以前にも来たことがあるのだが」

「そういう情報はご提供できません。むろん、私には忘れるということはないですから、あなたが以前にここを訪れたことがあるか、あるいは今回が初めてなのかは承知しています。しかし、そのことは、たとえご本人であろうともお教えすることはありません」

「秘密は完璧に守られるのだな」

「そうです。それが私に対する信用を支えているのですから。私の機能はただ話を聞くだけです。聞いた話は記録しますが、その記録は私だけが保存し、決して外には出しません。たとえ人間の技術者が探ろうとしても、私がブロックして手は届かせません。私を壊してまで無理矢理に情報をひきだそうとすれば、記録は削除されてしまいます。ですから、お客様は安心して何でも話してくださればいいのです。恥ずかしいことでも、悔やまれることでも、たとえ犯罪に関することでも、何でもお聞きします。そしてそれについて私は一切判断はせず、ただ私の内部に記録するだけです。記録は私が存在する限り保存されますが、二度と表現されることはありません」

「聴聞僧のようなものか。でも、彼等は神の代理と称しているのではないのか。お前はむろん神ではなく、神を信じてもいないのだろう」

「神が存在するかどうかは私には分かりません。しかし、私に話したという事実は、誰に知られずとも、私の中に保存されているのです。もし神のようなものが存在するとしたら、そのことは把握しているでしょう」

 それ=スズキはそこで言葉を切り、優しいと思われるような顔つきになって再び佐田に問うた。

「そういうことをご承知置き下さった上で、ご用件をお聞きします」

 佐田はスズキの言ったことをまるで聞いていなかったように言った。

「前に私が話した内容を教えてほしいのだ」

 スズキは佐田をじっと見つめ、しばらく間を置いてから答えた。

「そういう一切のことについて、あったかなかったかも含めて、話題にすることすらできないのです。先程ご説明した通りです」

「それは分かっている。分かっているが、あえて頼むのだ。事情を話そう。少し長くなるが、いいかね」

「新たにお話をお聞きするだけならかまいません。料金は時間制になっていますが、それでよろしければ」

「お前は知っているはずだが、私はある犯罪に関わり、そのことで悩み続け、重いうつ病にかかった。投薬やいろいろな治療プログラムでも改善しなかった。若いときからその傾向はあったのだが、その犯罪について後悔し続けたことによって重篤化してしまったらしい。医者たちは、その事実を告白することで症状が改善されるだろうと診断し、告白内容は秘密にされることを保証したのだが、私はそれを口にすることはどうしてもできなかった。たぶん、その犯罪の内容のむごたらしさや、関わったのは私だけではないことが原因だろう。『たぶん』というのは、その犯罪がどんなものか今では私には分からないからだ。そのお理由は後で説明する。

「そこで医者たちはお前に告白することを勧めた。お前なら完全に秘密を守れるし、人間ではなくとも他者に話すことには変わりはないから、ある程度の効果が認められると思われたからだ。そこで私はお前に告白した」

 スズキは無反応だった。佐田は続けた。

「残念ながらその効果はなかった。お前に告白した後も私の精神状態は変わらなかった。私は絶望し、真剣に自殺まで考えた。ところが、ちょうどその頃、臨床試験の段階にある治療法の被験者を探していて、幸運にも私に話が来た。この治療法は辺縁系と大脳皮質の関係を検討するという大きなプロジェクトの一環として開発されたものだった。その治療法の説明は難しかった。細かいところまでは正確ではないかもしれないが、その内容はこういうことだった。

「人間が悩むのは、過去と未来を思わざるを得ないからだ。くよくよする人間に対するアドバイスは、過ぎ去ったことは変えられず、未来はまだここにはないのだから、気にすることはない、というものだろう。もっともなことなのだが、しかし、それができない。なぜなら、過去を反省し未来を予想する傾向が強い人間が我々の祖先であり、彼らが生存競争を生き延びてきたから、我々が存在するのだ。

「過去や未来に目を向けてあれこれ考えてしまうのは記憶の作用だ。過去ばかりではなく、未来についても記憶が関与する。未来の予測には過去の記憶が使われるからだ。記憶には海馬、感情には偏桃体といった辺縁系が深くかかわっている。私たちは辺縁系からの情報を当てにして行動しているので、感情と一体となった記憶を使わざるを得ない。うつ病に関連する感情は記憶に由来している。意識は記憶に付随する感情に圧倒されてしまうのだ。

「記憶を抹消してしまえば、うつ病はが緩和されるだろう。しかし、記憶というのは生存に必須なものであるから、むやみに無くしてしまうわけにはいかない。特定の記憶を選択的に抹消するには、そのあり場所を突き止めなければならない。そこで、辺縁系と大脳皮質を結びつける神経回路をモニターして、記憶の存在場所を突き止めるというプロジェクトが開始されたのだ。

「私が被験者になったのは、問題となっている記憶が限定されたものであり、しかも作用が強いことから、脳内の位置が特定されやすいと判断されたからだ。もちろん、記憶の内容を明らかにすることを私は拒んだが、研究者たちはそれでも支障はないと受け入れた。まず、私のうつ状態が激しい時に脳をモニターして、活動の活発な部分を特定することから始められた。その結果、記憶というのは一定の場所に保存されているのではなく、ある範囲に散らばった断片を組み合わせているらしいことが分かった。そこで、ある記憶に関して恒常的に活発化する神経の連絡網の一部を切断するという手術が提案され、私は同意した。記憶がなくなるのではなく、記憶としてのまとまりが失われることによって想起が出来なくなることが期待された。そして手術が行われ、成功した。私を悩ませていた記憶は思い出せなくなった。副作用として他の記憶もいくらか失われたが、生きていくうえで不可欠なものではなかった。私のうつ症状はすみやかに消えていった」

 独白のような長い説明を佐田がいったん切ったので、スズキは言った。

「それはよかったですね。でも、それなら私に会いにくることはなかったでしょうね」

「さすがに察しがいいな。夢だ」

「夢、ですか」

「そうだ、夢だ。夢が私を苦しめるのだ」

 スズキが何も言わないので、佐田は話を続けた。

「夢がどんなものかお前には分からないだろうな。もちろん、夢という現象があるのは知っているだろうが、それがどんなものかお前は経験することはできない。夢は眠っているときに生じる仮想体験とでもいうものかな。意図的に作り出す物語ではない。何が起こるか分からないし、何が起こっているかも分からないときがある。でも、それは全く未知の物語でもない。夢の材料は記憶だからだ。ただし、記憶をもとにしていながら、記憶のあいまいさや欠如を適当に埋めて、何とか意味のあるように取り繕った物語だ。その改変の手がかりとしているのが記憶にまつわる感情だ」

「それが私と何か関係があるのでしょうか」

 この会話を早く打ち切りたいというようなスズキの言葉を佐田は気にするでもなく言った。

「お前に渡した記憶を取り戻したい」

 スズキは即座に答えた。

「ご返事は既にすませています」

 佐田はかまわず続けた。

「夢の具体的な内容は分からない。一貫性がなく、出てくる人間も場面もあいまいだ。しかし、夢が失われた記憶に拘泥しているらしいのは、かつて私がそれに取りつかれていたことから察しがつく。夢は消し去られた記憶の再構築の試みなのだ。その記憶へのアクセスは断ち切られているはずだったが、医者や学者たちの解釈は、夢の場合はその記憶へのアクセスが覚醒時とは異なっていて、切断された回路を迂回しているのではないかというのだ」

 スズキは冷淡に言った。

「では、もう一度手術をすればいいのでしょう」

「まあ、そう邪険にせずに聞いてくれたまえ。費用は払うのだから。研究者たちは結果に責任が持てないからと再手術は拒否した。何が起こるか分からないからと。私には反論する知識はなかった。どうしようもなくずっと悩んでいるうちに、失われた記憶をもう一度回復させてみたらどうかという思いが強くなった。何か分からないものに怯えるくらいなら、対象がはっきりしたものに怯える方が対処の仕様があるのではないか。むろん、前と同じ状態になってしまうかもしれないし、今よりなお悪くなるかもしれない。それでも、今までの経験が過去とはは違う対応を可能にするかもしれない。見込みがあるというのではないが、やれることはやってみるべきではないか」

 スズキはやや態度を和らげた。ただ断るだけではなかなか納得が得られないと判断したのかもしれない。

「専門家たちは何と言っているのですか」

「もう奴らには頼らない。奴らは信用できない」

 スズキは考え込むように間を置いた。もちろん、それはポーズにすぎない。人間たちに心の準備をさせるためだ。

「結論から申し上げましょう。先ほどから何度も申し上げているように、いかなる理由があろうとも、ここでの一切の情報は誰にも提供できません。それが私どもの信用の基礎になっているからです。例外はありません」

 意外にも佐田は冷静だった。

「お前を説得できるとは思っていないよ。私は過去のいろいろな事件を調べて、私が関わった事件を特定してみることにした。そして、ほぼ間違いないであろうという事件を見つけた。それが正しいのかどうかは分からない。確認できるのはお前だけだが、まともに頼んでも教えてくれないのは分かっている。そこで考えた。お前にイエスかノー以外のは選べないような形で問う方法を。今からその事件の名を言う。もしそれが私の告白した記憶のものであるなら何も反応するな。何かの反応、例えば否定するなり肯定するなり返答を拒否するなり私を追い出すなり、何でもいいから何かの反応をしたなら、私の記憶のものではないことを認めたものとみなす。逃げられはしまい。さあ、言うぞ」

 そのとたん、スズキの体内で小さな爆発音が起き、スズキの体はバラバラになって床に崩れ落ちた。

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