二重記憶
1
それはややいかめしい感じの男の形をしていた。きちんとしたスーツ姿で、いかにも信頼が置けそうな雰囲気を漂わせている。来訪者によって服装を変えるのだろうかと、佐田は思った。服装どころか姿かたちをも変えるのかもしれない。
結構広い部屋には簡素なテーブルとそれに合わせた二脚の椅子しかなかった。壁はほとんど白に近いベージュ一色、装飾は一切なく、窓は高いところにあって空しか見えない。 それは佐田に椅子を勧め、佐田と向かい合って座った。
「どういう名でもいいのですが、便宜上スズキと呼んでください。どんなご用件ですか」
「以前にも来たことがあるらしいのだが‥‥」
「そういう情報なら提供できます。むろん覚えておりますよ。私には忘れるということはないですからね。でも、あなたから言いださない限り、そのことは黙っているつもりでした」
「秘密は完璧に守られるのだな」
「そうです。たとえご本人であっても、過去に聞いたことはお伝えしません。それが私に対する信用を支えているのですから。前回もご説明しましたが、もう一度繰り返しておきましょう。私は治療用のロボではありません。私の機能はただ話を聞くだけです。聞いた話は記録しますが、その記録は私だけが保存し、決して外には出しません。たとえ人間の技術者が探ろうとしても、私がブロックして手は届かせません。私を壊してまで無理矢理に情報をひきだそうとすれば、記録は削除されてしまいます。ですから、お客様は安心して何でも話してくださればいいのです。恥ずかしいことでも、悔まれることでも、たとえ犯罪に関することでも、何でもお聞きします。そしてそれについて私は一切判断はせず、ただ私の内部に記録するだけです」
「聴聞僧のようなものか。でも、彼等は神の代理と称しているのではないのか。お前はむろん神ではなく、神を信じてもいないのだろう」
「神が存在するかどうかは私には分かりません。しかし、私に話したという事実は存在します。もし神のようなものが存在するとしたら、そのことは把握しているでしょう」
それ=スズキはそこで言葉を切り、優しいと思われるような顔つきになって再び佐田に問うた。
「で、ご用件は?」
佐田は思い切ったように言った。
「前に私が話した内容を教えてほしいのだ」
スズキは佐田をじっと見つめ、しばらく間を置いてから答えた。
「それはできません。先程申しましたように、たとえご本人であっても、お教えできないのです」
「それは分かっている。分かっているが、あえて頼むのだ。事情を話そう。少し長くなるが、いいかね」
「料金は時間制になっていますから、あなた様さえよければ、私はかまいません」
2
「どこから話したらいいだろう。そもそもの最初は、私が重いうつ病にかかったことだろう。投薬やいろいろな治療プログラムでも改善しなかった。若いときからその傾向はあったのだが、さまざまな要因によって重篤化してしまったらしい。
「幸運にも、ちょうど臨床試験の段階にある治療法の被験者を探していて、私に話が来た。この治療法は、前頭前野と辺縁系の関係を検討するという大きなプロジェクトの一環として開発されたものだった。その治療法の説明は難しかったが、私は何とか理解できるように勉強した。細かいところまでは正確ではないかもしれないが、その内容はこういうことだった。
「人間が悩むのは、過去と未来を思わざるを得ないからだ。くよくよする人間に対するアドバイスは、過ぎ去ったことは変えられず、未来はまだここにはないのだから、気にすることはない、というものだろう。もっともなことなのだが、しかし、それができない。なぜなら、過去を反省し未来を予想する傾向が強い人間が我々の祖先であり、彼らが生存競争を生き延びてきたから、我々が存在するのだ。
「ところで、過去や未来に目を向けて、あれこれ考えてしまうのは、我々の意識の作用だ。意識というのは短期記憶(ワーキングメモリー)でしかないにもかかわらず、なぜそんなことができるかというと、中・長期記憶にアクセスできるからだ。過去ばかりでなく、未来についても記憶が関与する。未来の予測には過去の記憶が使われるからだ。
「記憶というのは単に記述的なものではなく、いわば感情に色づけされている。なぜなら、どの記憶が重要であり、どんなときに必要かといったことを示すタグのようなものが感情であるからだ。それがなければ、記憶は単なる情報の集積場に過ぎない。『混ぜればゴミ、分ければ資源』というわけだ。
「記憶には海馬、感情には偏桃体といった辺縁系が深くかかわっている。私たちは辺縁系からの情報を当てにして行動しているので、感情と一体となった記憶を使わざるを得ない。うつ病に関連する感情は記憶にも由来している。意識は記憶にアクセスするときに、それに付随する感情に圧倒されてしまうのだ。
「意識を記憶から切り離してしまえば、うつ病が緩和されるだろう。しかし、記憶というのは生存に必須なものであるから、なくしてしまうわけにはいかない。それゆえ、記憶を海馬経由でないようにすれば、感情を交えない純粋に記述的なものとなり、うつ病の治療が期待できる。そういう考えから、前頭前野の記憶機能に関する神経を海馬のものとは別の記憶装置に結びつける治療法が開発された。
「ただし、この新しい記憶装置は、既存の記憶のメカニズムに取って代るものではない。既存の記憶メカニズムには分からないことがまだまだ多くあり、それを除去した場合の影響は予測がつかない。したがって、既存の記憶メカニズムはそのまま残しておいて、代替という形でこの記憶装置を働かせる。この装置の記憶が既存のものと異なるのは、感情的な評価なり判断なりを廃した純粋に記述的なものとなっていることだ。むろん、感情の記憶というものはある。しかし、この装置による感情の記憶というのは、ある感情が起こったということを記述したものでしかなく、感情を追体験するものではない。
「この装置を機能させるためには、まず記憶の再構成が必要になる。装置を装着する人の既存の記憶を、過去の経歴に基づいて掘り起こし、さらに身体状況、人間関係、職業、知識、趣味、心理、思想など、過去および現在のあらゆる情報を網羅して記録し保存する。
「むろん、記憶というのは日々追加されるものだから、脳の認知機能をこの装置に結びつけて、新たな体験を記録するようにする。短期記憶から中・長期記憶に移行する際、ある種の選択がなされていることは確かだ。経験の全てを記憶するとすればその量は膨大になる。問題なのは、保存よりも検索だ。記憶を呼び起こすのに手間取っていては役に立たない。
「先程も言ったように、通常の記憶の重要度の評価には感情が関与している。ところが、記述的な記録につけるタグは感情のように自動的にはいかない。何らかの基準を作って選択する必要がある。ここで思い切った単純化が図られている。出来事の重要度を、客観的と思われる基準に照らして評価するようにする。これは個人的な特性を無視する乱暴なやり方に見えるが、そもそものこの記憶装置の目的がうつ病治療であるのだから、このような基準によって、個人的な偏倚を廃することは目的にかなっている(つまらぬことにいつまでもこだわることを防げる)。ただし、それだけの基準ではなく、ある程度の個人的な性向に配慮して、意識がそれに当てられた時間や、いったん記憶されたものが思い出される頻度なども評価の基準に組み入れる。忘却のメカニズムも詳細は不明だが、思い返す頻度が関係しているのは確かだろう。
「こういう治療方針のもと、私の脳内に記憶装置が取り付けられ、従来の記憶と意識の連結が切断されることになった。記憶装置に記憶を納めるに当たっては、私は思い出せる限りの情報を提供し、モノとして存在している文書や映像を使って補った。人に知られて恥ずかしいことや、知られれば非難されることも、全て明るみに出すように要請された。そうして作られた記憶の集積が、現に私の脳内にある記憶とどう対応しているかは分からなかい。重なるところもあるだろうし、一方にあって他方にないものもあるだろう。重要なのは、新しく作り出された記憶が、これから私が生きていく上において支障のないものであるかどうかであり、欠けた部分があっても、生活上大して影響を持たないのであれば、かまわないのだ。
「ただ、どうしても公にできない記憶というものもある。記憶装置に保存させるためには、他人の手を借りねばならないので、他人に明らかにせざるを得ない。これに関わる人には守秘義務があるのは当然なのだが、それでも言えないこともある。
「そういう記憶はむしろ欠落させた方がよく、それが治療効果となると予想された。しかし、特別に強い感情と結びついた記憶については、意識の混乱を最小限にするための方策を講じておく必要があった。私にもそういう記憶はあったようだ。そのときの解決法として、お前を使うことになっていた。」
3
独白のような長い説明をいったん切って、佐田はスズキに話しかけた。
「お前がビジネスとして成功したのは、告白というのが心理的葛藤のある種の解決になるからだな。いわばガス抜きのような作用がある」
「そういう物理的な比喩が適当かどうかは分かりませんが、ビジネスとして成功していることは、何らかの効果があることの証でしょう。たとえそれが根本的な解決ではなく、心理的な錯覚や誤魔化しであろうとも。もともと、何らかの心理的作用が期待されているのですから、そうであってもかまわないわけです。皮肉な見方をすれば、そうなることを望んでいるから、そうなるのだ、というのでしょうが、そのための媒体としてお役に立つなら、それでいいのいでしょう」
「ある種の宗教のような」
「私はビジネスとして割り切っています。むろん、そう作られているからですが」
「まあ、その辺のことは私にはどうでもいいのだが、とにかく、私はお前に会うことを勧められた。秘しておきたい記憶の感情的な威力を削ぐために、お前に告白しておくように、と。そうすれば、その記憶は限定的になり、消去後に影響を残さないと見込まれたのだ。記憶装置には、お前に会いにいったことは記録としてあるから、私はそれを実行したのだろう。そして手術を受けた」
「それがうまくいったなら、また私に会いに来ることはなかったでしょうね。何か、まずいことがおこったのですか」
「うまくいっていた。手術の結果、私のうつ病は劇的に改善された。過去の記憶に対して、客観的というか、他人の経験に対するような、いわば冷淡な受け止めができるようになった。自分自身に悩まされないとでもいうのだろうか」
「では、何をご要望なのです」
「記憶の一部を取り戻したい」
「記憶の欠損がいまのあなたに何か影響があるのですか」
「それがはっきりしないということも、欠けた記憶を埋めたい理由だ」
「どういうことでしょうか」
佐田はつぶやくように言った。
「夢だ」
「夢、ですか」
佐田はスズキが何ごとか理解したのか確かめるように黙っていた。しかし、スズキがそれ以上何も言わないので、再び話し出した。
「夢がどんなものかお前には分からないだろうな。もちろん、夢という現象があるのは知っているだろうが、それがどんなものかは経験することはできない。夢は眠っているときに生じる仮想体験とでもいうものかな。意図的に作り出す物語ではない。何が起こるか分からないし、何が起こっているかも分からないときがある。でも、それは全く未知の物語でもない。夢の材料は記憶だからだ。ただし、記憶をもとにしていながら、記憶のあいまいさや欠如を適当に埋めて、何とか意味のあるように取り繕った物語だ。その改変の手がかりとしているのが記憶にまつわる感情だ」
「それはあなたの個人的な見解ですか。夢のメカニズムについては分かっていないことが多いはずですが」
「私が相談した医者や学者たちの解釈だ。私が夢に悩まされているのは、その記憶にまつわる感情が非常に強いからではないかと彼らは言っている。お前への告白はあまり効果がなかったようだ」
「そのような効果を私どもが保証しているのではありませんが。つまり、あなたの見る夢は特定の記憶に結びついていて、その記憶は覚醒時にはアクセスできないというのですね」
「そうだ。本来の私の記憶には私はアクセスできない。しかし、睡眠時には何かのルートによってその記憶にアクセスし、夢を形成しているらしいのだ。詳しいことは分かっていないが」
「その夢の内容についてはお聞きしないでおきましょう。その夢が激しい感情に満たされていて、覚醒後もそれが残っているということでしょうか」
「そうだ。だが、なぜその夢にそんなに大きな影響力があるか分からないのだ。その夢の中に出てくる人物や場所に思い当たるものがない。夢は記憶をもとにしているから、改変されているとはいえ、私が経験した事実なのだろう。あるいは、そういう風でありたかったという修正願望なのかもしれない。とにかく、背景が分からない夢の中の感情が覚醒時の私を混乱させている。気にしないでおこうとするが、そうするとかえって葛藤が起きる」
スズキは佐田のそれ以上の発言を抑えるように言った。
「その夢に関係する記憶を確かめたいとおしゃるのですね。あなたがその記憶を新たな記憶装置にインプットするのを避けたのは、その記憶から逃れるためだった。しかし、記憶自体は脳に残っており、夢という経路であなたにまとわりついている。その夢の影響力を減らすためには、夢の材料となっている記憶を取り戻すしかない」
「そういうことだ」
「しかし、その記憶を取り戻したとしたら、うつが再発するのではありませんか」
「その可能性はある。だが、その記憶が記述的な形であるならば、感情的な側面はコントロールしやすいはずだ。少なくとも、いまよりましだろう」
スズキは考え込むように間を置いた。もちろん、それはポーズにすぎない。人間たちに心の準備をさせるためだ。
「結論から申し上げましょう。先ほども言いましたように、いかなる理由があれ、いったんお預かりした記録は、たとえご本人様のものであっても、公開はできません。私どもがお預かりした記録を精査して、該当する部分のみをお知らせすることもできません。それが私どもの信用の基礎になっているからです。例外はありません」
スズキは佐田が反発か嘆願の言葉を発しようとするのを制して続けた。
「これは私個人の助言です。個人という言い方はおかしいですし、業務外のサービスは禁じられているのですが、人間ではないものの判断としてお聞きください。あなたが消された記憶を取り戻したいと望むなら、あなた自身の本来の記憶へのアクセスを取り戻すのが一番よいのではないでしょうか。あなたがいま悩んでいる夢については、一部の記憶を知ることで解決できたとしても、また新たな夢があなたを悩ますかもしれません。記憶というのはあなた自身です。今度のことであなたもいろいろ学ぶことがあったはずです。もう一度あなた自身を引き受けてみませんか」