井本喬作品集

内心の声

 みなさん、おはようございます。私は開発部門の長をしている丸山です。私が手にしているのはコミケビューの新型、コミケビュー4です。今回、このコミケビュー4の販売企画チームを立ち上げるに際し、みなさんに集まっていだきました。

 コミケビュー4の開発は極秘にしていましたが、様々な情報が流れていて、みなさんもいろいろお聞きになったかもしれません。では、コミケビュー4がどのようなものなのかを、これから説明することにしましょう。

 その前に、まず、コミケビューがたどった経過を振り返ってみることにします。基礎知識を共有しておくことは重要なことですし、そこから学ぶことも多いはずです。

 コミケビューの原点は、意外かもしれませんが、バスの行先表示にあるのです。かなり以前のことですが、バス停で待つ人が、「回送」と表示したバスが通り過ぎることに不満を感じることが問題になりました。待っていたバスがようやく来たと思ったら、止まらずに通り過ぎてしまうので、がっかりし、さらには反発する人まで出てきました。そこでバス会社は、「回送」という素っ気ない表示を、「すみません、回送中です」と変えてみました。言葉だけの、小手先の対応です。しかし、これが案外効果があったのです。気を遣っていることを言葉で表すことが、人々の感情に大きな影響を与えることが再確認されました。

 その経験を、当時大きな問題になっていたことに適用したのです。その問題とは、自動車運転に関わるトラブルです。他のドライバーの運転の仕方が気に食わないからと、あおりや割り込みや進路妨害などの嫌がらせや、場合によっては車を停めさせて脅すようなことが頻発しました。むろん、そういう行為をするドライバーは非難されるべきですし、できれば罰することは当然です。しかし、そのようなことが起こる原因の一つが、コミュニケーションの不足にあることも注目されました。

 ドライバーどうし、あるいはドライバーと歩行者の間に、コミュニケーションが全くないわけではありませんでした。最も基本的なのは、お互いの顔や姿を確認し、目つきや身振り手振りで意思表示をして、コミュニケーションをとることです。しかし、車の中の人は見えにくいですし、また、目つきや身振り手振りが何を意味しているかについての共通のルールがありませんでした。

 車にもコミュニケーションのために使える装置はありました。ウィンカーやブレーキライトはドライバーの行為を他者に知らせるため、ホーンやハザードランプは他者に注意を促すための、専用の機器です。他にも、ヘッドライトによるパッシングもコミュニケーションのために使われていました。しかし、それらが表現する意味は限られていましたし、解釈の違いによってかえってトラブルを招きかねないものでもあったのです。

 そこに新たな問題が加わりました。自動運転車の登場です。自動運転車どうしなら、通信ネットワークによってコミュニケーションが取れますが、相手が人間のドライバーや歩行者ではそれができません。

 そこで、自動車に文字表示ができるような装置を搭載することが検討されました。技術的には、表示板をつけることやボディそのものに表示することも可能です。しかし、走行性、安全性、デザインなどの観点からそれらは選ばれませんでした。結局採用されたのが、コミュケビューの原型となった装置です。これは、プロジェクトマッピングと、特殊な液体の微粒子によるスクリーン形成の技術を組み合わせたものです。車の上部にこの微粒子を放射し、そこに光を当てて文字を浮かび上がらせるのです。その形は自然と合意されて漫画の「吹き出し」になりました。この微粒子は急速に蒸発して、有害性はありません。車載なので装置のある程度の大きさは許容されました。

 自動運転車はAIが自動的にこの表示を行いますが、普通の車はドライバーが装置を操作しなくてはなりません。当初はタッチパネルによって言葉を選ぶことが想定されていました。表示されるメッセージとしては、「ありがとう」「ごめんなさい」「お先にどうぞ」「入れてください」「気をつけてください」「停まって!」「車間をあけてください」などの定型句と、入力による自由文が予定されていました。しかし、タッチパネルの操作は面倒で時間もかかるので見送られ、音声入力が採用されました。ただし、発せられた言葉をそのまま表示するのではなく、AIが介入して適切な言葉遣いに加工していました。罵声や挑発やからかいなどの言葉はトラブルを誘発することになり、この装置の目的に反してしまうからです。

 この装置は好評で、トラブルの減少や予防に大きな効果をあげました。そのため、いろいろな研究の対象にもなりました。そこで改めて確認されたのが、文字の持つコミュニケーション効果でした。音声による言葉は、聞き取りにくい場合があり、また、メッセージ以外の感情的な要素が込められるため、予期せぬ反応を引き起こしてしまう傾向が高いのです。それに対して、文字によるコミュニケーションは、受け取る者に感情抑制的な反応が期待できました。

 もちろん、文字によるコミュニケーションでも感情的な反応は起こります。それはSNSにおいて多くの問題を引き起こしていることでも明らかです。ただし、SNSにおいては一種の無名性が抑制を失わせることが大きな要因です。対面の場面では、ある程度の責任感が生じます。

 そこで、この装置を小型化して、人間どうしの直接的な対面の会話に使えないかという研究が始まったのです。言葉を頭の上に吹き出しとして表示するのです。最初に考えられたのは、聴力のない人との会話に使えないかということでした。しかし、中途で聴力を失った人と違って、生まれつき聴力に障害のある人は正確な音声で言葉を発することが難しいのです。私たちが音声を文字に変換して聴力のない人に示すことはできますが、聴力のない人にはそれができにくいので、対話がなかなか成り立ちません。音声による言葉を手話に、手話を文字や音声に変換する方が有効なのです。

 ならば、聴力のない人が自分の発音が他者にどのように聞こえるのかを確認する手立てにはならないでしょうか。しかし、言葉にならない音声を文字表現することには困難な問題があります。それは擬音語、つまり言葉以外の音を言語化することの難しさを考えてみれば分かります。発音訓練に視覚表示を使うなら、文字化するよりパターン化した方が適切なのです。

 用途として他に考えられたのは、教育の現場でした。教師の言葉が伝わりにくいという問題を解消できるのではないかと期待されたのです。教師の言葉が文字化されれば、板書の必要性もなくなります。ただし、発話そのままを文字化しても、雑音的な情報が邪魔になったり、冗長な表現が文脈を混乱させてしまったりするので、ここでも文章化はAIが行います。こうして実用化されたのが、初代のコミケビューです。

 コミケビューは手話翻訳やスクリーン表示に比べて低コストであるので、演劇や講演でも使用されました。歌手のコンサートにさえ使われるようにもなりました。また、騒音の中での会話の道具としても使用されました。消防や警察や軍隊など、緊急時の対話の助けになるのです。さらに、水中でも使用可能なコミケビューも開発されています。

 面白いのは、テレビで採用されたことです。言葉を聞き取りやすくするため、俳優やアナウンサーやタレントは、大きな声ではっきりと発言することが求められていました。視聴者が高齢化していくので、その必要性は増していました。しかし、そのような発話は、不自然な感じがしてよそよそしくなります。会話の自然さを保ちながら内容を理解させるために、字幕などの処理がなされることが多かったのです。それをこの装置を使った吹き出しにすることで、安いコストで効果をあげることができました。テレビのペーパー漫画化とでも言えましょうか。

 しかし、このコミケビューの用途は限られていました。コミケビューが大ヒットになったのは、翻訳機としての機能が追加されたコミケビュー2が発売されたときです。翻訳機能自体は既に他の機器で実現していましたが、音声翻訳は間が空きすぎ、文字翻訳は表示画面への視線の移動がわずらわしかったので、複雑な会話には実用的ではありませんでした。一方で、映画などでのスーパーインポーズは、映像を見たり、音声を聞くことの妨げにはなっていません。このことがヒントになって、翻訳する機能をコミケビューに持たせたのです。翻訳はAIが行いますが、逐語的に訳すのではなく、一定の区切りで適切な文を表示します。わずかな時間のズレはあるのですが、ほとんど気にはなりません。

 このコミケビュー2を話者の双方が装着することで、どんな異言語間の会話も可能になりました。しかも記録機能もありますから、誤解が生じた場合の検証も可能です。このコミケビュー2によって、通訳はいらなくなり、困難な異言語学習も必要なくなりました。労働生産性の向上に大いに貢献したのです。

 コミケビューの次のステップは、音声化しない言葉を表現する技術の開発でした。口蓋の形状や舌の位置、呼吸などによって、発せられようとする言葉を認識する試みがなされました。ゆくゆくは声を発しなくとも言葉を表示できるようにすることが目指されたのです。しかし、この開発は難航しました。

 突破口は別の方面で開けました。脳のメカニズムの研究が進み、脳の物質的な変化が心の動きとどのように関連しているかが分かってきたのです。認知や感情など並行して、言語についても脳内でのメカニズムが解明されてきました。

 コミケビューの関連から言えば、文字を読むとき、そして言葉を聞いたときのメカニズムが明らかにされました。伝えられた言葉を認識すれば、言語中枢に反応が起こります。それを捕えて、文字として可視化することが可能となりました。このことによって、言葉を発した方は、鏡を見るように、自分の発話を見ることができます。そして、相手が発話者の伝達意図を正しく受け止めたかを確認することができるのです。

 しかし、言葉を発する場合は事態は複雑になります。言葉の背後には何らかの思考があると考えられますが、それは必ずしも言語的ではないのです。私たちは頭の中で言葉を使って考えているように感じていますが、実際は、イメージや概念などの言語化されないものも使っています。いや、その方が主体なのです。それが言葉となって発せられるときはじめて、明確な言葉に変換されるのです。つまり、脳内にまとまった文のようなものは見つけられないのです。

 文学には「意識の流れ」という手法がありました。私たちの意識は言葉によって満たされていて、状況に対応した言葉が途切れなく頭の中を流れていくので、それを表現しようというものでした。しかし、通常、脳内で意識されているのは言葉が全てではなく、しかも言葉でさえ断片的です。認知などはほとんど言葉を必要としません。また、脳内の現象が全て意識化されるわけでもありません。いわゆる無意識の活動が認知や行動の過程に含まれているのです。となると、意識の流れという考え方では心を理解することはできません。したがって、脳内に発生する言葉だけを取り出してみようとしても、大して意味はないのです。

 そこで、言葉の機能的な面からのアプローチが注目されました。そもそも言葉はコミュニケーションの手段ですから、言葉を発するのは他人に何かの情報を伝えるためです。では、なぜ人はコミュニケーションをとり合うのでしょうか。根源的には、他人を動かすためでしょう。情報というのは、私たちを取り巻く状況、私たちに関係する他人のこと、そして私たち自身の状態です。特に、私たちは私たちの心の状態、何を予測しているのか、何を望んでいるのか、何をどのように評価しているかなどの情報を他人に伝え、それによって相手の行動を促すのです。

 そこには戦略的な判断が加わってきます。私たちは正直に自分の思いを他人に伝えようとするのではありません。自分に有利なように言葉を選ぶのです。ですから、嘘や誤魔化しも交じります。発話そのものではなく、発話にいたる直前の心の状態を把握できなければ、その人の真情といったものは分からないのです。

 このことで参考になったのが感情でした。感情の表出は言葉と同じ役割を果たしていると考えられています。それは他人に対する情報提供なのです。喜び、悲しみ、怒りなど、自分の心の状態を知らせて、相手の対応を引き出そうとするのです。感情は判断や行動の動因となるので、感情が分かれば、その人の判断や行動を予測することができるのです。その予測によって相手は対応することになるでしょうから、感情は言葉のような役割をはたしているのです。

 一方で、そのことが感情を言葉のように道具化してしまっています。感情表出を隠し、あるいは偽った感情表出によって、自らを装ったり、相手を騙そうとするのです。特に現代社会では、感情は他人にはよく分からなくなっています。一つには、言葉という手段が発達したため、コミュニケーションに感情が使われることがあまりなくなったこともあるのでしょう。

 ただし、感情表出は操作できても、感情そのものが起こることは抑えることはできません。感情は正直なのです。感情は私たちが生きるうえにおいて重要な役割を果たしてきたため、自動的な反応になっていて、意志の力が及ばないのです。それゆえ、感情が生起するときの脳内の状態を捕えることで、心を表示することができることになります。

 これは言語にも当てはまります。注目されたのが間投詞的な言葉です。思いつくままにあげてみますと、えーと、あのう、そのう、うーん、うん、よし、いい、そう、そうか、そうだ、そうだね、そうみたい、そうかしら、ふうん、なるほど、きれい、すてき、かわいい、うれしい、楽しい、幸せ、好き、ありがたい、最高、違う、だめ、いや、無理、うそー、信じられない、本当、汚い、いやらしい、気持ち悪い、こわい、最低、うまい、まずい、簡単、難しい、えい、やっ、あっ、くそ、ちぇ、ちくしょう、なあんだ、なんと、なんだよ、なにすんだ、なにこれ、なんなんだ、なんてこった、やっちまえ、いけいけ、すげえ、やった、しめしめ、ざまあみろ、間抜け、馬鹿、嘘つき、死ね、やめろ、もういい、十分だ、まあまあ、もう少し、まだまだ、もっと、けち、やれやれ、疲れる、はあー、面倒、どうでもいい、しまった、仕方ない、残念、どうしよう、助けて、などなど。これらの言葉は自然に出てくるもので、言葉にするために考えたりはしません。考えるのは、これらの言葉を出さないようにする場合です。つまり、自分の気持ちを正直に表現しないときです。こういう言葉が発せられるときの脳の状態を把握できれば、たとえそれらの言葉が発せられなくとも、その言葉が表す心の状態が分かるわけです。

 そうして開発されたのが、コミケビュー3です。これは一種の嘘発見機です。コミケビュー3は、装着者の感情、気分といったものを色にして表示します。どのような色かはみなさんはよくご存知ですね。なぜ色にしたかといいますと、感情や気分は移ろいやすく、その変化を表現するのは色が最適と判断されたからです。そして、間投詞的な言葉が脳内に浮かんだならば、それを文字にして表示します。

 コミケビュー3は交渉の場における信用の確保のために重宝されました。無用な駆け引きを排除することによって、効率化がはかられるとともに、搾取や詐欺や利益の不均衡を防ぐことができるものでした。

 むろん、抵抗はありました。駆け引きの巧拙こそが重要であると考える人々や、そういう機器の存在がかえって交渉の場を奪ってしまうと懸念する人々は少なくなかったのです。しかし、大多数の人々は、売買を含めた交渉の場で自分が騙されているのではないかという不安を抱いていました。顧客の要望によって、コミケビュー3は普及していったのです。コミュケビュー3を拒否する業者は疑いの目で見られ、顧客を失うしかなかったからです。

 むろん、問題も発生しました。コミケビュー3の偽造や改造です。業者間では、持参したコミケビュー3を交換して装着することでその問題を回避できましたが、全ての消費者がコミケビュー3を買うのは無理がありました。レンタルやクラウドがその問題を解決しつつありますが、詐欺師たちは巧妙にそのすきをついてきます。

 また、脳内で形成される反応を意志の力で制御しようとする試みもなされました。感情を抑えたり、間投詞的言葉を思い浮かべないようにしようというのです。この試みは成功しませんでした。確かに、感情表出はある程度抑えられますが、感情そのものが起こることは抑えられません。同じように、間投詞を発話することは抑えられますが、間投詞が出現することは抑えられないのです。もしそれをしようとするならば、非常に反応の鈍い状態に自らをもっていかねばならず、そういう状態に自分をしてしまったら、相手を騙そうとは思わなくなるでしょうから、元も子もなくなってしまうわけです。

 しかしながら、コミケビュー3が内心の声を表現するといっても、心のほんの一部にすぎません。他人の心を知るにはまだまだ不十分なものです。

 次の開発の目標は、脳内で思ったことの全てを外部から認知し表示できるようにすることでした。長い発話とそのときの脳の状態を関連づけることは既に研究がなされました。AIによる分析によって、単語の選択および文の形成がパターン化され、同様にパターン化された脳の活動と結びつけようとしました。

 しかし、これは心の把握としては一面的なものに過ぎません。先にも触れましたが、私たちが発する言葉は、私たちの心をそのまま表現したものではないということです。私たちの心の中では、周囲の状況や自分自身の状態についての認知、何をすべきか、何ができるかの判断、そして行動の決断が、意識的・無意識的な過程、理性的・感情的過程として起こっています。しかし、その全過程が意識されているわけではありませんし、ましてや言語的に認識されているわけではありません。

 ですから、心の動きを把握しようとすることは、脳内の言葉はもちろん、イメージや概念などに対象を広げて、それらを組み合わせ文をつくるという、至難のわざなのです。しかも、感情とか欲求などのあいまいな傾向も表現しなければなりません。

 ただし、心の動き全般を把握することには大して意味はないのかもしれません。通常私たちの心の中にあるのはまとまりのないもやもやとした塊のようなものです。それらは何かの形になる可能性は秘めているのですが、何の形にもならずに流れていきます。意識の流れというのはそういうものです。むろん、無意識の流れというのもあるはずですが。

 私たちが他人の心を知りたいのは、その状態が行動(発話も含みます)となって現れるとき、あるいは、将来の行動の予定となるときです。なぜなら、そういう心の状態が、私たちに影響を及ぼしてくるからです。つまり、他人が何らかの判断を下し、それが行動となって現れるか、行動を控えることになるか、将来の行動の予定として保存されているかが、私たちに必要な情報です。

 そういう、いわば前言語的な決断の段階というものがあるはずです。そのような前言語的思考が何らかの形で把握できれば、それを言語化することも可能です。言葉にできない思いというのでさえ、言葉にできることになるでしょう。

 そこで、認知、感情、記憶、判断などの要素を大まかにでも特定し、脳内におけるそれらの要素の動きを把握し、実際になされた行動との関連を研究する努力がなされたのです。そして、脳の動きのタイプと行動のタイプをほぼ結びつけることができるようになりました。つまり、行動の一つ手前、決断という状態の内容を解釈することができるようになったのです。もやもやとした心の状態が明確な形となって結実したもの、いわば行動の原材料を使って、心の状態を把握するのです。それゆえ、行動として現れなかったときは、抑制の理由も解釈できます。

 ただし、そのようなことを実現するためには、巨大な装置が必要です。それをコミケビューで実現するのは、いまのところ不可能です。それゆえ、コミケビュー4は心一般を表現することは目指しませんでした。あくまで会話の補助手段という位置づけにしたのです。

 それでも開発には非常な困難を伴いました。コミケビューは対話のための機器として実用的でなければなりません。それゆえ、第一に、携行できる程度に小型でなければなりません。第二に、その表示は複雑すぎては役に立ちません。即座に解釈できるような簡潔な表現でなければなりません。第三に、対面で使用されるものですから、実際の発話や行動を妨げたり、その際の注意をそらしてしまうようなことはできるだけ避けなければなりません。

 このような様々な課題を克服してコミケビュー4が完成しました。コミケビュー4は、発話された内容を、そのときの脳の状態と関連づけて、正確な情報の文として再作成して表示します。言い足りなければ補足し、余計な表現は刈り取り、嘘や偽りの操作があればそのことも指摘します。もちろん、簡潔に、です。

 それがどういうことかと言いますと、コミケビュー4は、私たちが発言する際の本心を表現するのです。つまりその人の気持ち、目的、望み、たくらみ、配慮など、発せられた言葉の背後にあるもの、言葉が表現したかったことだけではなく、言葉が表現せずにおいたものをも露わにするのです。

 さて、どうでしょうか。みなさんの顔つきを見るだけで、みなさんが作成するレポートの内容の見当がつきそうです。こんな、内心をさらけ出すような機器を誰が買うのか。まず、人権問題がからんでくる。コミケビュー4を装着することに同意を得るのは難しいはずだ。また、このコミケビュー4が社会に混乱をもたらすのではないか。そういった懸念をお持ちになったと思います。

 しかし、このコミケビュー4は信頼を得るための強力な道具なのです。嘘偽りのない本心を現している相手なら、誰だって信用するでしょう。もちろん、現されるのは好ましいものだけではなく、悪意もまじります。しかし、それが露わにされるなら、それなりに受け入れられることになるでしょう。逆に、このコミケビュー4を使わない人は、何か隠しごとがある、何かよくないことをたくらんでいる、危険な人だとみなされることになるでしょう。

 また、言いそびれたり、言い出しかねたり、言うのがためらわれたり、どう言っていいか分からなかったりなど、言葉を出せば状況を変化させることができたにもかかわらず、言えないまま終わって悔しい思いをする人は少なくありません。そういう人たちにとって、このコミケビュー4は大いに助けになるのです。

 みなさんの懸念は十分理解できます。しかし、われわれがやらなくても誰かがこのようなことを実現することになるでしょう。そして、その使い道も誰かが発見するでしょう。いまの私たちには予想がつかなくても、世界を変えてしまうような用途があるかもしれないではありませんか。例えば、スマホを考えてみて下さい。コンピュータと電話とインターネットが融合して携帯できるようになるなんて、過去に誰が想像できたでしょう。そして、その使い道を誰が予測し得たでしょうか。

 われわれには選択はできません。道は決まっているのです。ただ、その道を進むか、置いてきぼりにされるかの選択だけがあるにすぎないのです。

 あなたたちはこのコミケビュー4を伴って、未来への道を歩いて行ってください。それが天国へ導く道なのか、地獄へ至る道なのか、分からないのではありますが。

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